トロッタ14通信〈記録〉.3
フルートとチェロのための『対話と変容』(ガルシア・ロルカと共に)
〈作曲 今井重幸〉
フルート奏者の斉藤香さんに委嘱されて書き下ろした。トロッタの会に編曲するため、詩人ガルシア・ロルカを想う時間が多い。私自身、青年期よりロルカを敬愛してきた。斎藤さんに応えようとした時、自然に、“ロルカとの対話”が楽案に浮かんだ。スペイン的な音型を用い、ロルカが採譜したアンダルシア民謡をモティーフのひとつとするなど、これらを自由に変容させて、ふたつの楽器による“対話”を試みたのである。〈今井重幸〉
フルート*斉藤 香 チェロ*武井英哉
【記録】(ガルシア・ロルカと共に)と書き添えられている。今井重幸先生の、ロルカへの思いが伝わってくる。今井先生には、『ロルカのカンシオネス「スペインの歌」』の編曲をお願いしている。すでに七曲、歌った。その過程で生まれたのが、フルートとチェロのための『対話と変容』である(と解釈しているが、違うだろうか。だとしたら、曲の誕生に間接的に関与していることになり、うれしいことだが。しかし、私は)今井先生の希望を満たす歌を歌えていないだろう。そもそも私が、歌えていないと思う。思いだけで音楽をしようとしている。文学として音楽をしている。意識的に音楽をしようとしている。所詮は詩を書く者であって音楽をする者ではない。音楽と文学の溝に思い至るべきである。いや、溝などないはずだ。音楽と文学を、分かちがたいものとして、私はとらえているはず、とらえようとしているはず。そのことに間違いは、絶対にないはずだ。でなければトロッタをしていない(それが、清道洋一の項で書いた、革命ということではないのか)。そのことは後で書くとして−−。
演奏者として、斉藤香さんと武井英哉さんを迎えた。おふたりとは、できれば練習期間中にお目にかかりたかったのだが、果たせなかった。私の理想は−−、トロッタに出演したいただく方々と、あらかじめ顔を合わせて、少しでもお話をしておくこと。当然だろう。トロッタの会を、共に開いているのだ。ばらばらの人間が、本番の日、一日だけ会うことを、私はよしとしない。しかし、無理だった。無理に会わなくても、きちんと練習をして曲を作り、本番に備えればよい。その考えに間違いはない。斉藤さんと武井さんは、そのようにして本番に備えてくださった。他の曲にも出番があれば、もちろん会う機会が増えただろうが、そうではないのだから、ご自分たちの曲に専念していただければよかった。それができず、うまくいかなかったというのではない。うまくいっただろう。問題は、私の側の気持ちである。(ガルシア・ロルカと共に)という曲なのだし、どこがロルカと共に、なのか知っておきたかった(こういう態度が文学的か? しかし、そのどこが悪いのかと思う)。
興味深かった点。トロッタに常に出てくださっている方々、初めてでも練習期間に何度も顔を合わせる方のことは、すでにわかっている部分が多い。しかし斉藤さんと武井さんは、本番一日だけの機会だったので、いい意味で馴れず、新鮮だった。皮肉ではなく、おふたりの演奏会に立ち会っているような気さえした。だが、会を開いている者として、それでいいのか。第一、この原稿にも、曲のことをまったく書いていない。わかっていないから、だ。今井先生の、自他共に許す本領は、例えば打楽器を伴う、トロッタ13で演奏した『草迷宮』のような曲だろう。早稲田奉仕園スコットホールは、もう打楽器が使えなくなった。何とかならないかと思う。今井先生にとって、消化不良であろう。それでフルートとチェロのための『対話と変容』を出品された。それがすべてではないが、理由の一つではある。これまで、今井先生には打楽器のない曲もあった。『仮面の舞』や『青山悠映』など。それでもじゅうぶんに成果をあげている。しかし、できるなら−−、という作曲家としての思いは理解できる。
スコットホールを、私は好きである。どのホールにも長所と短所がある。短所は目につきやすいが、本来は長所にこそ目を向けるべきだ。人も同じ。スコットホールを完全に生かし、もうすることがないと思ったのなら他に移ってもいいが、まだスコットホールを使い切っていない。打楽器は使えなくても、と思う(やはり、『対話と変容』について書いていない。今井先生がいう「スペイン的な音型を用い、ロルカが採譜したアンダルシア民謡をモティーフのひとつとする、これらを自由に変容させ」といったことについて書けない。申し訳ない)
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