トロッタ14通信.7
ロルカのカンシオネス [スペインの歌] V - VII
〈採譜と曲 フェデリコ=ガルシア・ロルカ/編曲 今井重幸〉
V.「ハエンのムーア娘たち」VI.「三枚の葉」VII.「ドン・ボイソのロマンセ」
ガルシア・ロルカの『13のスペイン古謡』をトロッタの会として演奏する、シリーズ2回目。それが至難のことなのだが、現代ではなく古い味わいをどのようにして表現するか。前回の「18世紀のセビジャーナス」など、300年前の時代が明確に指定されている。今回の「ハエンのモーロ娘」など、15-16世紀の王宮歌曲であったというからさらに古い。今井重幸の編曲を得て、困難に挑戦してみたい。〈K〉
詩唱*木部与巴仁 ギター*萩野谷英成 〈弦楽四重奏〉ヴァイオリン*戸塚ふみ代 ヴァイオリン*田口薫 ヴィオラ*仁科拓也 チェロ*小島遼子
【記録】土台、それが私には無理であることはわかっている……。詩人ピエール・バルーによるドキュメンタリー『SARAVAH』に描かれたブラジル人音楽家たちの姿が、理想のひとつである。街角でも、レストランでも、歌いたい、演奏したいと思った時に、彼らは音楽を形にできる。ロルカが採譜したスペインの民謡においても、その担い手たちは、やはり同様だろう。歌いたい時に歌える。そして形にできる。しかし、私は無理だった。練習しても無理だった。前回と今回、ほぼ半年ずつ、練習してきた。ひとりで練習しているのではない、先生に聴いてもらって練習しているのである。だが、その練習が本番で生きていないと感じる。スペインの民謡を私が歌うこと自体に無理があるのかも知れない。あるいは、今井重幸先生の編曲に、乗り切れていないのかもしれない。
志はよい。詩人ロルカが、詩と音楽の幸福な結びつきの形としてアンダルシアの民謡に着目し、それを採譜した。13曲、今に伝わっている。詩と音楽を志す者なら、その先達であるロルカに共感するのが当然で、私もそうだから、自らロルカの民謡を歌い、彼の思いを形にしてみせようとした。しかし、納得がいかない。役者の天本英世が、13曲を歌えるようになったとエッセイに書き(「フラメンコの歌となるとこれは難しくて私はとても歌えないが、この「ロルカの13の民謡」は何とか全部唄えるようになった。どれを唄ってみても、全く素晴らしい、これぞスペインの民謡という歌ばかりである」『スペイン回想』より)、彼に倣おうという気持ちもあった。しかし、倣うことができない。いったい天本英世は、どのように歌ったのか? 私の中に音楽がない、文学はあっても、音楽がない。文学もないのか? いや、私の中にスペインが根づいていない。
例えば純粋な歌の名手なら、声の響きだけで人を魅了することが可能だろう。何を歌っているかわからないが、すばらしい声だ! と思う。充分にあり得る。歌曲のリサイタルにせよオペラの大舞台にせよ、聴衆のほとんどは、イタリア語やドイツ語をわかっていないと思う。だが、心打たれている(のだろう。日本語歌曲のリサイタルでも、詩の全部はわからない。こうした想像が私のひとり合点で、多くの人がわかっているなら素晴らしいことだ)しかし、私は名手ではない。文章表現にも、その境地はある。技術だけで読ませてしまうというような。もちろん、私は文章の名手ではないといっておく。そして歌についていえば、私はさらに名手ではないし、純粋に人を魅了することなど不可能、それに、そもそも純粋性を志向していない。
詩だけではない、音楽としてありたい。音楽だけではない、詩とともにありたい。
これも理由があって、伊福部先生の言葉として、先生が少年時代に見て聴いたアイヌの芸能は、歌と踊りと詩(言葉)が分かちがたく結びついていた。それが芸能の、芸術といってもいいが、古い形であり、考え方を変えればそれこそ純粋な形といえるかもしれない。時代が新しくなるにつれて、詩は詩、音楽は音楽は、踊りは踊りという風に、純粋性を求めていったのだ。その考え方でいけば、踊れない役者、歌えない役者はない。芝居のできない歌手もない。歌手は当然、踊れる、ということになる。それが望ましいことはいうまでもない。
歌なら多少は純粋かもしれないが、詩唱という、あまり純粋ではない、そして他にあまり行われていない表現を、私は自分に求めている(詩唱表現には音程がない。通常、音楽では音程をやかましくいわれるのに。リズムも厳密ではない。ハーモニーは? 詩唱と楽器でハーモニーが作れるのだろうか? 作曲者の計算に頼るしかない。しかし、そうした曖昧さが詩唱表現の安易さに結びついてはいけない)。
詩を印刷物にして人に渡せば、純粋に読んでもらえるだろう。しかし、詩を声に出した段階で、純粋さはどんどん失われてゆく。そして私は、印刷するより声に出さなけれな意味がないと思っている(だから私は詩集を作りたいと思わない。私の詩集は、トロッタである)。楽器にも個性はあるが、声の場合は誰であれ、個性があり過ぎる(よく訓練された歌手に対して、あの声は嫌いだというような、救いようのない批判がしばしば下されるのだから、申し訳ないことだ。いわんや私においては! 歌は、その人の声を聴くしかないのである)
私の中に、いかにしてスペインを根づかせるか。
不純を、さらに志向したい。
私には芸術としての歌が歌えない。根岸一郎氏の真似をしても無理だ。だからチラシに、「バリトン」と書かずに「詩唱」と書いているのではないか。次回のロルカは、これまでと違う工夫をしたい。
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