iPadを買ったが、例えば電車の中でブログに書きこみ、twitterで発言する、などという使い方は、結局、できていない。これからもできないだろう。iPadも、きちんとした原稿を書くために使ってしまう。書評のためにスティーグ・ラーソンの『ミレニアム』三部作を読み通した。『ミレニアム』第一部は電子書籍になっているが、私は文庫本で読んだ。紙の本で読むことが、私の態度としては自然だ。電子書籍は読まない(使わない)。コンピュータは原稿を書くために使う。iPadも、手軽な使い方はしない。それが私なら、それでよい。
「トロッタ14通信」は、ひとつも書けなかった。各曲について、すでに2か月が経った今から、記録として書いておこう。演奏順に書いてゆく。トロッタ10から13まで書いた「トロッタ通信」を、原稿として、整理しておこうと思う。
トロッタ14通信〈記録〉.1
花の三部作最終章『祝いの花』op.53
〈作曲 橘川琢/詩・詩唱 木部与巴仁/花 上野雄次〉
『花の記憶』『死の花』に続く、橘川琢“花の三部作”最後を飾る曲である。『花の記憶』は2007年10月20日初演、『死の花』は2009年12月5日初演だから、2年おきに作曲・初演されてきたことになる。前二作に強かった〈死〉の印象を(依然として書いているものの)払拭したかった。最終章にふさわしい曲が聴けるだろう。上野雄次の花に注目したい。〈K〉
ソプラノ*大久保雅代 フルート[ピッコロ]*八木ちはる 〈弦楽五重奏〉Vn.戸塚ふみ代、Vn.田口 薫、Va.仁科拓也、Vc.小島遼子、Cb.丹野敏広 ピアノ*森川あづさ
【記録】そのようには書かれていないが、橘川琢のいう「詩歌曲」である。本来、ファゴットが予定されていたが無理となり、急遽、他の楽器で補うことになった。『花の記憶』初演当時、次の年にでも三部作を完成させて全曲を演奏、というようなプランもあったが、2007年から2011年まで、足掛け5年に及んだ。人によるだろうが、三部作を作るとは、そのくらいかかるということだ。『花の記憶』は、三度、演奏している。『祝いの花』は、初演時の記憶がまだ比較的新しいから、思い出せる。『死の花』の記憶が薄い。記録に残っているから演奏したことは間違いないのに。芝居でいうなら幕切れに、絶叫に近い声をあげた。覚えているのはそれだけだ。絶叫など、したくない。それを覚えているという皮肉。これで、いいのだろうか(自分に対して疑問に思っていることだ)。三部作を仮に通した時、曲ごとに編成が違うし、どうなるのか見当がつかない。
『祝いの花』は、三部作で最も大きな編成となった。上野雄次の花も、大きなものとなった。巨大な花を背負って客席最後列に現われ、中央通路を進んで舞台に至る。花の塊を背負っているから、上野の姿は見えない。舞台への階段を上り、上ったところで静止して、花を鋏みで切ってゆく。切る音が会場に響く。演奏が終わると、赤い花が宙にまかれる。音楽を聴きながら、お客様は何を見ていたのか。音楽面では、詩唱を音楽として受け取っていただけるなら、編成が大きいだけに、聴こえたのかという疑問がある。合わせの時間があまり取れず、練る時間が決定的に不足した。『死の花』が記憶にないのも、初演から時間が経ったこともあるが、こうした練習時間の不足に原因があると思う。結局、『花の記憶』が最もまとまっていて、三部作の本質はすべてそこにある、というような考えになる。すべて『花の記憶』にあるなら、残りの二曲はできなくてもよかった、ということになってしまう。三部作だが、一曲一曲に、独立した作品性を求めたい。『祝いの花』は、大きな音の塊を作り上げる意図は見えた。音も声も、ぶつけあって塊にする。作曲者の意図はわからないが、詩唱していて、そのように感じた。その効果があったのかどうか。舞台上からはわからない(この点も、『花の記憶』には舞台上で手応えを感じたのだ)。
橘川琢と、トロッタについて初めて話した時。朗読があって楽器の演奏がある、そのようなことをしたかったと聞いた。それは、達成されたかもしれない。たくさんの詩歌曲が生まれた。その結果。詩唱のない曲に、今の橘川の気持ちは向かっているかも知れない。それならば、それでよい。橘川が曲を発表しようとする。詩唱があるだろうと思う。それは予定調和だ。予定調和は避けたい。詩唱曲だけではないだろうというような迷いが、橘川に生じているかもしれない。それはそれでよい。花の三部作が終わったのだし、転換点かも知れない。それでいいのだ。私たちは、常に転換点に立っているはずだ。−−もともと、橘川には文学的な思考が強かった。曲名を振り返ればわかる。詩歌曲第一番、というような命名はしない。既にある文学作品に拠ることもあった。次のような例がある。『都市の肖像』」第一集「ロマンス」op.21~ヴァイオリンとピアノによる~第一曲「Romance」、第二曲「Silent Actress」、第三曲「水の歌が聴こえる」(2008)、第四曲「少年期/コール・ドラッジュの庭」。詩はもともと第一番などと呼ばれず、文学的な題名がつけられているから(何が文学的か、議論はあるだろう。文学的な姿勢、態度を橘川に感じる)。そのような姿勢が、詩歌曲に現われていたといえるだろう。
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