2012年1月20日金曜日

トロッタ15通信.48

トロッタ14通信〈記録〉.10

Concerto da camera
〈作曲 酒井健吉〉
この作品はデュエアゴースト国際作曲コンクールの依頼により作曲したものです。2009年7月7日に脱稿し翌2010年2月26日にナポリで行われた国際音楽祭“モーツァルトボックス2010”においてリッカルド・ケニー指揮アンサンブル・デュエアゴーストで初演されました。その後も同アンサンブルのレパートリーとして各地で演奏されています。今回の演奏は日本初演となります。短い作品ですがお楽しみいただけたら幸いです。〈酒井健吉〉

フルート*八木ちはる クラリネット*藤本彩花 〈弦楽四重奏〉Vn.戸塚ふみ代 Vn.田口 薫 Va.仁科拓也 Vc.小島遼子 ピアノ*森川あづさ

【記録】酒井健吉が、久々にトロッタの舞台に立ってくれた。曲の出品はトロッタ11以来。トロッタ12に出品予定だったが、事情があって取りやめとなっていた。この曲に詩唱パートはないので、私の筆では書きにくい(曲はYouTubeでお聴きいただきたい)。詩唱のない、音楽の純粋性を味わえる曲であろう。
Concerto da cameraとは、“室内協奏曲”ということ。独奏楽器的な役割は、ピアノが受け持ったといえる。トロッタ6、トロッタ7にイタリアから出品してくれたファブリチオ・フェスタから、アンサンブルのための曲を創ってくれないかと、酒井に要請があった。モーツァルトの曲をモティーフに、全体をコラージュのようにして仕上げた。イタリアではすでに何度も演奏されて好評だという。そして、過去にいくつかの例があることだが、人名のアルファベット表記から音名を取り、それを曲の主題に生かした。その人物は酒井健吉にとって忘れがたい大切な存在だ。人の記憶、自分の記憶、互いの思いといったもので曲を作ったといえるだろう。即興演奏の個所もいくつかある。奏者の自由にまかせる。譜面どおりに演奏することも大事だが、曲の時間を生きる中で、思いのまま振る舞ってもらおうとしたのだろう。酒井は長崎から本番当日に来たのだが、あわただしく、ただでさえ時間のない中、よく息を合わせてくれたと思う。
トロッタ15では、酒井健吉に依頼して、『トロッタ、七年の夢』を演奏予定だ。もともとは、中川博正の詩唱を生かそうと、『トロッタで見た夢』の短いバージョンを酒井に依頼した。それを、せっかくの機会だからと、新曲を作ることになったのである。酒井健吉とは、これまで多くの曲を共同製作してきたが、彼が主宰する長崎の演奏会に出るなどしたことが、トロッタに結びついていることは間違いない。トロッタの初回から出品してくれて、トロッタの土台、スタイルを作ることに力を尽くしてくれたことも間違いない。出品に関しては途中で空白期間があったが、酒井の作った歴史は少しも損なわれない。トロッタに、比較的大きな楽器編成が取り入れられるようになったのも、トロッタ4の酒井の曲『夜が吊るした命』以来のことなのである。
思うこと−−。トロッタでは、詩唱が入る曲、歌が入る曲、『Concerto da camera』のように楽器のみの曲がある。無伴奏の詩唱曲、歌曲があってもいいだろう。それぞれ違うのだが、音楽として、分けたくない気持ちがある。それはしたくないと思うものに、よくいうことだが、朗読の背景に曲を流す、音楽にはBGMの役割を求めるスタイルがある。私はそれを安易だと思っている。バックではない、同一線上に朗読と音楽があってほしい。五線譜を使うなら、そこに詩唱のパートを作ってほしいし、上下の楽器パートと厳密な関わりを持たせてほしい。それが私の考える詩唱曲だ。表現は違うが、歌と同じである。それなら−−、例えば酒井健吉の『Concerto da camera』の中に詩があると考えられないだろうか。酒井は、大切な人への思いを、名前に通じる音名を使うことで、曲にこめた。心情の反映だ。文学的な行為だと受け取れる。器楽曲にも心情がある。詩唱曲と歌曲にはもちろんある。三者を共通したものとして、私は受け取っている。『Concerto da camera』作曲の背景を知らない場合でも、聴いているのは人だから、人それぞれの詩がある、詩情がある、詩の心で音楽を受け止めているといえまいか。音楽の心で受け止める。詩の心で受け止めている。表現が文学的に過ぎるといって、ただ音響がそこにあるだけだと、即物的には思いたくないのである。ただし、何かを連想するのは違うかも知れない。連想してもいいかも知れないし、何も思うなというのは生きた人間に対して無理だろうが、まず音響に身をゆだねたい。先入観を持って聴くのではない。音響が生み出すものを感じる。そこからだろう、音楽としての詩が始まるのは。

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