清道洋一氏は、トロッタ12に『イリュージョン illusion』を出品する。 私の詩だが、なぜ、わざわざカタカナと欧文表記を並べているのか? そして私は、幻影や幻想、錯覚、幻覚などと日本語で書かず、ひねって英語の題にしたのか?
それについて書く前に、楽譜を受け取って、私は感じたことを率直に書く。この曲は、詩を書いた私への、作曲者の挑戦である。この認識は、清道氏に伝えてある。必ずしも挑戦という意図はないようだが、私は依然として挑戦だと思い、それを受けるつもりだ。
詩は、次のように始まる。45行からなり、全一連である。(註;トロッタのサイトに、詩の全文はある)
未来の象徴としての高速道路が
頭の中を走っていた
1960年代の私
流線形に切り取られた夜空
ガラス細工のビルが建つ
鉄筋コンクリートという言葉の響き
ネオンサインは赤く
青く瞬(またた)いていた
「1960年代の私」とは、要するに、私のことだ。
漫画や映画といった視覚表現に、高速道路はしばしば登場した。それは未来を舞台にした『鉄腕アトム』などの作品において顕著であった。そして、すでに高速道路が走る都市の光景は、現実だった。東京オリンピックが1964年に開かれた。これに合わせて、川を埋め立て、道路の上に道路を架し、地下にトンネルを掘り、道路と道路を立体交差させて、高速道路は作られたのである。その典型的な光景を、例えば日本橋周辺、特に江戸橋ジャンクションに見る。
2010年の現代は、1960年代からはるかに遠い未来であり、とうの昔に21世紀になっているものの、日本橋周辺の高速道路ほど、いわゆる“未来的”な光景はないと、私には感じられる。「1960年代の私」は、まさに、そのような光景を頭に浮かべて過ごしていた。東京から遠く離れた、瀬戸内海に住んでいたのに。いや、だからこそ、か。詩は続く。
刹那の恋
長い黒髪を両肩に揺らし
足音もたてず
無人の高速道路を歩いてゆく
女は裸足だった
手をつなごうとするたび
振りほどかれた
細い指
思いがけない
そのからだのやわらかさ
「刹那の恋」の、私の詠み方は、初めの引用の最終行から続く。つまり、「ネオンサインは赤く青く瞬(またた)いていた刹那の恋」である。続く行も、このようになる。「長い黒髪を両肩に揺らし足音もたてず無人の高速道路を歩いてゆく女は裸足だった」つまり、前の行が次の行を支配している。
詠み手によって、どんな詠み方があってもいいが、私はこのようなつもりで詩を書いた。これが『イリュージョン illusion』の特徴だとすら思って。
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