2010年10月20日水曜日

「トロッタ12通信」.13 (*10.18分)

*練習スケジュールの調整に難航しています。皆さんの都合が合う日を探すのは、なかなか困難です。夜は、俳人・生野毅さんのお誘いで、東京アメリカンクラブに、美術家、古渡依里子さんの個展オープニングにうかがいました。マリンバ吉岡孝悦さんの演奏を聴きながら、トロッタに向かう自分自身の身を引き締めていました。

 北海道に対してロマンを抱くのは、私が北海道在住ではないから、だけではないかもしれません。北海道の方も、自分が住む土地にロマンを抱いていると思います。伊福部昭先生が『オホーツクの海』や『知床半島の漁夫の歌』などで共同作業をした、詩人の更科源蔵氏が、まずそうです。更科氏は、晩年に訴訟を起こされるなどの問題を抱えました。個人的に存じ上げないので、確かなことはいえませんが−個人的に知っていても、おそらく、根本的な印象は変わらないと思います。詩人T氏への評価はまったく変わりました。更科氏への評価は変わっていません−、更科氏は、北海道というものを、日本人の感覚で詠い上げました。アイヌの方々には、また違った詩があるでしょう。信仰心のあるなしは、大きな問題になって来ると思います。
 作家の伊藤整氏にも、北海道を、ロマンの舞台として見る傾向があると思います。『若い詩人たちの肖像』は、何度も読み返しました。まず大きな環境、社会、時代があって、そこで生きようとする個人。人はどう生きるのか? 人は何をしようとして生きるのか? その過程にある、男女の姿。それが、伊藤氏が繰り返して書いて来た、文学の方向だと思います。『若い詩人たちの肖像』には、更科源蔵氏の“肖像”も描かれています。繊細な伊藤氏とは違う、たくましさを持った詩人、それゆえにデリカシーには欠けるかもしれない詩人として、描かれています。そうした一切を、個人の視点でとらえ、生き方にまつわるものとするのが、伊藤氏の文学です。
 音楽の世界でいうなら、『シンフォニア・タプカーラ』や『オホーツクの海』など、伊福部先生の曲にこそ、ロマンを感じます。この場合のロマンという言葉は、あふれる変化と、あふれる物語性、喚起する想像力、といった意味合いで使っています。ゐ福部先生は、もしかすると、ロマンのために書いたのではなく、北海道の人と自然を、ありのままにとらえようとした、とおっしゃるかもしれませんが、私はロマンを感じます。
 私見ですが−−、大自然に包まれて暮らすだけがすばらしいのではありません。都会にも自然はあり、都会で暮らす生き物にも、闘いと安らぎはあります。私の家の近所に出没する鼠、狸、烏、そして私を含めた人は、大自然の美しさには乏しくても、アスファルトやコンクリートで固められた自然の中で、自然に生きています。都会のそうした光景には共感を覚えますし、ロマンとして詠いたいと思います。私が書いた、例えば『ひよどりが見たもの』は、そんな都会の生きものに共感しながら描いた詩です。最も最近、花道家の上野友人さんと行った「花魂 HANADAMA」に登場させた市ケ谷駅近くにいる山蛭(やまびる)にも、私は共感しています。(アメリカでいわれるようになったネイチャー・ライティングでは、下水道やコンクリート護岸の川、岩山にも見える高層ビル街で生きる動物たちに共感を抱いて描かれた作品があります。アメリカのネイチャー・ライティングを出すところが私の限界かも知れませんが、強く自分に引きつけて見せたい思いがあります)
『北都七星』は、北海道を知らない私が描いた、札幌を舞台にしたロマンです。堀井友徳さんの二曲に、私は冷たい美しさと透明感を覚えます。

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