清道洋一氏から私への挑戦。そう思ったことについては理由がある。
まず、私の詩だけを使うのではなく、清道氏が書いた文章が、多く使われている点。
田中修一氏が『雨の午後/蜚(ごきぶり)』で、私の詩から、文を大幅に削って歌にした。
橘川琢氏が『うつろい』で、詩文の順を入れ替えて曲にした。
堀井友徳氏が、トロッタ12で初演される『北都七星/凍歌』で、話し合いの上、詩を変えた。
このような例はあるが、清道氏のように、自身の言葉を加える例は、他にない。これは悪いことではない。作曲家は、自分の思うような形を作ればよい。清道氏にとって、自分自身の文章、自分自身の言葉が必要だった。おそらく清道氏は、私が曲を書いてつけ加えてほしいといっても、受け入れるであろう。あくまでも、全体は清道洋一作曲として。『イリュージョン illusion』についても、詩を書いた者は私だと、表記されている。
文章と書いて詩と書かないことに意図はない。清道氏に確認し、氏がこれを詩と考えていれば、詩と書きたい。音楽作品に使われているから詩と判断してもよく、それはトロッタで演奏されるのだから、なおさら詩といってもいいわけだが。いずれにせよ、ここでは判断しない。少なくとも、清道氏に親しい、芝居で用いられる、人の言葉、台詞ではあるだろうと思いながら。*思い出したが、橘川琢氏がトロッタ3で初参加した時、詩歌曲『時の岬・雨のぬくもり』で、橘川氏は自作の詩「幻灯機」を加えた。曲名にある二つの言葉、「時の岬」は私の詩「夜」に、「雨のぬくもり」は橘川氏の詩「幻灯機」に相当している。その時の橘川氏にとっても、自分の言葉は必要だったのであろう。
私は『イリュージョン illusion』の冒頭で、ギターを弾く。弾きながら語りもする。それは私の言葉ではない。
幸福なんていうものは
子孫たちの取り分さ
俺たちは一体
何のために生きるのか
それを知ろうとしなければ
何もかも下らない
根なし草になっちまう
だから必死になって考える
考えて考えて考え抜いて
行きつく先は妄想さ
台詞になっている。楽譜には、「感情を押し殺してつぶやくように!」と書かれている。しかし、このようには語れまいと思う。ギターを弾くだけでせいいっぱいである。歌ではないから、音楽のメロディやリズムに言葉がつられないようにしなければならない。ギターで弾き損じると、台詞までしくじる怖れがある。
ギターを弾き終えると、私は台詞と所作だけになる。楽譜には「譜割にとらわれず自由に詠んでよい」とある。
幻想第四次を走る
あの列車に乗って
目指すはエルドラド
チチカカを渡る風は
僕の頬をなでて
彼女が乗る
その列車を追いかける
そして、先に引用した私の詩、「幻想としての高速道路が 頭の中を走っていた 1960年代の私」に続いてゆくのである。
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