青木希衣子さんと打ち合わせました。『ガラスの歌』の代りとして、青木さんが得意とする、ロベルト・シューマンの『女の愛と生涯』を歌っていただくことになりました。ピアノは森川あづささんです。シューマンは1810年生まれで、今年が生誕200年です。『女の愛と生涯』は、シューマン30歳の曲で、詩は、アーデルベルト・フォン・シャミッソーです。女が男と出会い、結婚して死に別れる。私としては、これまで縁のなかったシューマンの曲をトロッタで演奏できることを、積極的に、前向きにとらえたいと思います。
*
(『第四間氷期/ブループリント』より)
死にたえた、五〇〇〇メートルの深海で、退化した獣毛のようにけばだち、穴だらけになった厚い泥の平原が、とつぜんめくれあがった。と見るまに、くだけちって、暗い雲にかわり、わきたって、透明な黒い壁を群らがって流れるプランクトンの星々をかきけしていった。
ひびだらけの岩板がむきだしになった。それから、暗褐色に光る飴状のかたまりが、おびただしい気泡をはきだしながらあふれだし、数キロメートルにわたって古松の根のような枝をひろげた。噴出物がさらに量をまし、その暗く輝くマグマも姿をけした。あとはただ、巨大な蒸気の柱が、海雪(マリンスノウ)をつらぬいて渦まきふくれあがり、くだけながら、音もなくのぼってゆく。だがその柱も、海面にとどくはるか手前でぼう大な水の分子のあいだに、いつかまぎれこんでしまっていた。
ちょうどそのころ、二カイリばかり先を、南米航路の貨客船「南潮丸」が横浜にむかって航行中だったが船客も乗組員も、ときならぬ船体の振動ときしみに、一時わずかなとまどいを感じただけだった。……
*
大きな風景が見えてきます。やはり文学で、いろいろな意味で、映画とは違うと思います。たどたどしさも感じます。映画なら、もっとスムーズに表現するでしょう。それでも、文学者は、文字で世界を表現します。映像より、文字に可能性を見出しているわけです。もっとも、安部公房は、写真を、作品として使っています。これを柔軟性と見るか、可能性の放棄と見るかは人それぞれです。安部公房の場合は柔軟性でしょう。彼は、写真を撮り、映画のシナリオを書き、戯曲を書き、劇団を作って演出もしました。文字だけに自分の表現を限定しなかった作家です。(安部公房とくらべることはありませんが、私も、トロッタを開いている以上、可能性を文字だけに限定していません)
田中修一さんが、『第四間氷期/ブループリント』の、どこに魅力を覚えたのかわかりませんが、人が介在しない、こうした描写に、人知れず起こり、進んでいる、人の運命を感じたのかと思います。仮にそうだとして、私は人間の姿を描きたいと思ったので、『未來の神話』のような詩を発想したのです。とはいえ、私もまた、人の姿を細かく書いているとはいえません。大きな掴み方になっていると思います。
前に書きましたが、『ムーヴメント.No3』については、「ギターの友」10月号に、「ギターとランプ」第3回として、田中修一さんに取材した上での解説文前半を載せました。田中さんの作曲意図を伝えられる内容だと思います。この「トロッタ通信」では、主に詩の観点から書きました。以下に、田中さんの言葉を伝える箇所を引用します。ご興味がありましたら、ぜひ、「ギターの友」をお手に取っていただきたいと思います。後半の掲載は、トロッタが終わってからになります。
「第1回『トロッタの会』の初合わせの帰り道、木部与巴仁さんとお話ししました。音楽で、スケールのある世界を創りたい。2台ピアノの声楽曲など、いいのではないか、と。それができなければ手抜きとみなす、と木部さんは口にされました(筆者註;間違いない)。そうしてできた詩は、『亂譜(らんふ)』と題されていました。瓦礫と化した街を詠んだ内容で、スケールの大きさを感じましたが、楽譜が“亂譜”ではいけません。音楽作品は“ムーヴメント”と題しました。運動、楽章、詩の律動的な調子という意味の言葉です。七拍子を核にしたリズムで詩の世界を表わしたいと考えたのです。幸いに評判がよく、特に電子オルガン版にソプラノでご出演いただいた赤羽佐東子さんから、2番をぜひ、というお言葉をちょうだいしました。それに力を得て、木部さんの詩『瓦礫の王』を用いて作曲したのが2番。そうなると3番もという気持ちが湧いてきまして、木部さんの詩『未來の神話』をもとに書き下ろしたのが、今回の作品というわけです」
田中の作曲意図は、『ムーヴメントNo.3』においても継続されている。ギター、フルート、ヴィオラの楽器群には、リズムを主体にした演奏が求められている。楽譜を開くと、まずAdagio assai(♩≒52 - 54)、非常にゆっくりとした速度で、詩の第一連が演奏される。(以下略)
0 件のコメント:
コメントを投稿