私の詩に戻ろう。
高速道路を無音で歩く黒髪の女に出会った男。しかし、女のからだをとらえることはできない。恋は刹那のうちに終わった。高速道路は未来の象徴である。そこを裸足で、音もなく歩く女に、未来を見ようとしたのは不思議ではない。だが、手をつなげないという事実。当然だろう。未来は目の前になく、遠い彼方にしかないから。
続く詩は、このようになる。
50年後のこの国が
どんな姿をしているか想像できなかった
薔薇色の未来
はっ!
幼い私が、想像できなかったのである。
「薔薇色の未来」という表現が、確かにあった。
そんなものは、2010年の今、どこにもないことを、私たちは知っている。
薔薇色が何色なのか、その詮索はおこう。
21世紀は惨めである。もちろん、惨めでも人は生きているし、生きていかなければならないし、生きようともするのだが、少なくとも21世紀の生は、「はっ!」と、強い侮蔑、憤りの感情を伴う。薔薇色が明るい色だとすれば、それは完全な誤解であった。明るい未来などなく、未来ほど、まだ現実になっていないのだから、不確かなものはないと、言い聞かせなければならなかった。政治家による人心の操作、現実の矛盾から目をそむけさせる方便程度のものだと、解しなければならない。
清道氏の言葉が挿入される。例えば次のように。括弧内が、彼の言葉である。
50年後のこの国が
どんな姿をしているか想像できなかった
薔薇色の未来(50年後のこの国がどんな姿をしているか想像できなかった薔薇色の未来)
はっ!
楽譜によると、清道氏は「はっ!」を、原詩のように侮蔑と憤りの言葉として解釈していない。驚きととらえた。間違いではない。「はっ!」を、私の意図どおりに読んでほしいというのが無理である。声に出せばニュアンスは通じるが、文字だけでは無理というもの。「はっ!」の直前に、清道氏は別の詩唱者、トロッタの場合は中川博正氏に、こんな言葉を詠ませる。
「実効的な愛は、空想の愛と比べてはるかに峻烈だ!」
私が聞く、この言葉への驚き。それが「はっ!」だ。そして力をなくし、うなだれる。楽譜には、私のSolo Cadenzaとある。演奏というより、演劇的な感覚が求められる場面だ。これは演劇なのか、音楽なのか。
−−つい先日、花道家・上野雄次氏との六日間にわたる公演「花魂 HANADAMA」を終えた。私は、もちろん詩唱者としてのぞんだ。しかし、そこで私が行ったのは、詩を詠むだけではない、演劇とも、舞踊ともいえるものであった。舞踊となれば、言葉はいらない。人の形、人の所作そのものが詩である。演劇となれば、肉体の動きを求められる。顔を含めた全身の表情、声の表情が必要だし、居る空間にも表情を与えてゆく心構えが必要だろう。演劇は、どちらかというと散文的である。
清道洋一氏の『イリュージョン illusion』において、私は音楽だけをするのではないと思った方がいいかもしれない。もともとは音楽にも、演劇性があり舞踊性があった。今は切り分けられている。能には全部ある。歌劇にも全部ある。詩も音楽も演劇も舞踊も含んだ表現を、おそらく清道氏は、私に求めているのだろう。
超特急はどこに向かって疾走する
空気を切り裂いて
戦争は
もうずっと前に終わったから
いつかまた始まる
今度起きたら何もかもオシマイ
誰かがどこかで
最後のスイッチを押そうとしている
まこと、超特急はどこに向かって疾走する? と言いたい。ひかり号は1960年代を象徴するが、結局、歌の言葉にある時速250kmで走ったのに、迷走しただけだ。どこにもたどりついていない。ひかり号だけならまだわかりやすかったが、とても覚えられない数の超特急が日本のあちらこちらを走り回り、わけのわからなさに拍車をかけている。
そして戦争への恐怖。
歴史的なことをいえば、特に1960年代は冷戦の時代であり、戦争、つまり第三次大戦の恐怖は現実の問題であった。世界大戦といわなければ、ベトナム戦争など地域が限定された戦争は絶えず起っており、しかもそれが世界に及ぼす影響は、決して小さくなかったのである。
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