2010年10月30日土曜日

「トロッタ12通信」.22 (*10.27分)

 池袋のフォルテにて、朝10時から、田中修一さんの『ムーヴメント.No3』と、橘川琢さん『黄金の花降る』の合わせを行いました。私はギターと歌のレッスンでしたが、休みました。そうするのが最善だと判断しました。また、10月31日(日)の練習場所を確保しました。東京音楽学院の練習室です。田中修一氏から連絡があり、『たびだち』の編曲が終ったので送るといいます。早急に仕上げていただきました。ありがたいことです。



檸檬館
木部与巴仁 「詩の通信 II」第22号(2008.5.0)

檸檬館へ行こう
父が誘ってくれた
小さなフルーツパーラー
デパートの地下にある
カウンターだけのお店

檸檬館へ行こう
父の声を覚えている
人の言葉を聞かない人
自分の言葉を聞いてほしい人
甘えん坊だったのかな

檸檬館へ行こう
女の人が好きだった
いつも誰かがそばにいた
娘の私もそばにいた
母は何もいわなかった

盛りあわせをお願い
それからこの子の好きなもの
にっこり笑ってみせる
メニューもせりふも決まっていた
父はずっと父だった

病院のベッドに持っていった
檸檬館の盛りあわせ
父はおいしいといって食べた
やさしい顔だった
やさしいまま死んでいった



 橘川琢さんは、詩曲『黄金〈こがね〉の花降る』~紫苑・くろとり・黄金の花降る・檸檬館~を出品されます。すべて、私の「詩の通信」から選んだ詩を用います。個々の詩について、というより、橘川さんの曲に向かう、私の課題を書きます。
 詩、それを詠むことには、詠み手固有のメロディやリズムが生まれると、私は以前から書いてきました。確かにそうだと思いますが、少し遠慮して、メロディらしきもの、リズムらしきもの、というべきかもしれません。それらは、通常、考えられているようなメロディ、リズムとは違うようです。意識せず、偶然に生まれたメロディであり、リズムです。音程などありません。リズムやアクセントの感覚も希薄です。音程もリズム、アクセントも、たいして意識していないともいえます。普段、喋る時に、どちらも意識しないように。朗読で意識するのは、声が響くかとか、声が届くかどうかとか、抑揚とか滑舌とか、そんなことで、リズムやメロディを意識しなくても、朗読はできます。やはり、メロディやリズムは音楽的なことで、朗読は演劇的なことです。
 仮にメロディらしきもの、リズムらしきものがあったとしても、あまりに詠み手に帰属するものなので、他の人が詠むと、まったく違ったものになります。詠み手ですら、詠むたびに音程が上がったり下がったり、声が伸びたり縮んだりします。それは作曲家の手が届かないところにあるもので、作曲家は、朗読者にまかせざるをえません。実に心もとない話です。それで作品といえるでしょうか? アンサンブルにおいて、楽器奏者が注意を払う、他の方と合わせる要素に、厳密性が求められません。だいたい合っていればいい、といえます。だいたい合っていれば、聴く側も違和感を感じません。多少ずれても、それがおもしろい場合があるでしょう。そんな適当なことでいいのでしょうか?
 これはトロッタのことだけでなく、世の中の、音楽と行う朗読表現すべてについて、私は書いています。音楽は、詩のBGMになってはいけません。詩は、音楽に雰囲気作りをまかせてはいけません。音楽は、安易な詩をおびやかすべきです。詩は、仮に単独で詠む場合、自ら雰囲気を作るべきだし、音楽性を作るべきです。詩と音楽は、対等でありたいと思います。対等に詠まれ、演奏されて初めて、一段高い表現を望めることでしょう。

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