それ自体はおもしろいことと前提した上で書きます。トロッタ9の『アルメイダ』は、まだ私の中で解決されていません。私の詩から、あまりにかけ離れていましたから。演奏された曲に使われた私の言葉はわずかです。当日の印刷物を取り出し、改めて確認しましたが、清道さんの言葉の分量が、確かにまさっていました。私の詩が長過ぎたのでしょうか。
もともと、清道さんに頼まれたのは、架空のCMのための詩を書いてほしいということでした。短い曲をつなげて組曲にしたいというのです。考えましたが、私にCMは無理だと思いました。そして、架空の国の話にしようと、『アルメイダ』を書いたのです。亡命詩人の手記、という形です。しかし清道さんは、ドードー鳥、オーロックス、リョコウバトといった、絶滅動物を登場させ、彼らの述懐を交えて物語を進めます。さらに、亡命詩人に常に話しかける男優を登場させます。内面に沈潜しがちな詩人に問いかけ、詩人の心をかきまぜて、世界を撹拌させようとします。絶滅動物も、詩人に問いかける男も、私の詩には存在しません。どうして、清道さんは、私の詩をそこまで変えたのか?
彼の本質に、「変奏」があるのだと思います。彼は変奏者なのです。主題は主題として明らかなのだから、今さら再現しても仕方ないということか。あるいは、主題から離れた表現こそ、つまり『アルメイダ』なら、私の詩を受けて自分の音楽を奏でることこそ、表現者としての役割だと思っているのかもしれません。では、私は、彼の「変奏」をさらに「変奏」する詩唱者ということになります。
『主題と変奏、或いはBGMの効用について』です。「12月9日水曜日 休暇を取って動物園へ行く」で始まる、ある男の日記が詠まれますが、これは清道さんの文章です。清道さんの、実際の日記が使われているのかもしれません。「昨夜から降り出した雨は 乾いた東京の空気に潤いを与えて 心地よい」おそらく、清道さん、そのものでしょう。「雨の動物園は 平日ということもあって とても静かで空いていた ゆっくりと動物を観察する」清道さんの姿が見えてきます。「人という檻があったら 誰が入るのがふさわしいかについて考え 数人を檻へ入れた」清道さんらしい、シニカルな視点。失礼があったらあやまります。「昼を過ぎたあたりから みぞれへと変わった雨は 夕方には本降りの雪となって積もる」雨、みぞれ、雪。灰色の東京の空の下を、12月9日水曜日、清道さんは帰っていったのでしょう。「雪見酒 でも酒がない」清道さんの姿がくっきりします。「こんな大雪の中 酒 買いにゆく」またあやまりますが、他人に対してだけではなく、自分自身に対しても、彼はシニカルでしょうか。
これだけの文章が、第一変奏、第二変奏、第三変奏、第四変奏まで変化し、最終変奏では、まったく違った言葉となって現れ、がらりと変わった演奏を聴くことになります。
第一変奏「じつにがゆ ここよか すいのうび ちさめのこ ゆき」これを、主題と同じように詠みます。
第二変奏「12月9日水曜日 休暇を取って動物園へ行く」これを、主題と異なる詠み方で詠みます。
第三変奏「のつにぐゅ ここよか ざいじかび ちさゅのこ ゆき」これまでにない詠み方で詠みます。
第四変奏「くゆにいか けさ かなのきゆおおな んこい」何だかわかりません。わからないことを、私も音楽もリズム主体となり、発声し、演奏します。
最終変奏。私が書いた「雪鼠」という詩を、ナレーションと共に詠みます。しかし始まりは、「ーーうにーー ここーかー ーいーーび ーさーのーゆきー ーーうーーとっー ーうぷーえんー ゆー」という、意味のない言葉です。意味のない言葉--。藤枝守氏の『響きの生態系 ディープ・リスニングのために』が紹介した、ネイティブ・アメリカン、ナバホの言葉を思い出します。具体的な意味はありません。意味がない言葉は『魔法のコトバ』ともいわれ、呪術的でマジカルな力を持つと考えられました。言葉に意味や概念が加わることで、言葉は解釈や理解の道具となり、霊的な作用や呪術的なパワーが失われてしまった……。
解釈や理解の道具ではない言葉を、私は発します。意味はもちろんありません。意味がなくなってしまうほどの変奏です。しかし、この変奏は、清道さんの中では規則性があります。聴く人にはわからないと思います。彼は、決してでたらめをしたくないのでしょう。彼が「変奏」にこだわるなら、私もまた、「ボッサ 声と音の会vol.4」とはまったく違った詠み方をしてもいいでしょうか?