2009年11月13日金曜日

「トロッタ通信 10-5」

「解体・再構成・摘み取る」


■ 詩が音楽になるために


田中修一さんが、トロッタ10のために作曲してくださいました『雨の午後』は、「詩の通信III」の第24号、2008年6月7日号で発表された詩がもとになっています。発表から約1年が経って、音楽になったわけです。すでに書きましたが、もとの詩と大幅に変わっています。これについて考えることは、少なからず意味があると思います。変更について、田中さんの考えはうかがっていませんが、ひとまず自分で考えてみます。まず、私の詩「雨の午後」の全文をご覧ください。


  *


 詩「雨の午後」


濡れて飛ぶ鳥も恋を知る

傘は嫌い

濡れたまま歩きたい


あなたの絵を描かせてください

駆け寄ってきたひとりの女

あの人が画家です

なるほど街灯の陰に男が見えた

変に思われないよう

私がお願いに来ました


はっきりいえばいい

ぼくがあなたを描きます

喜んで私は裸になるだろう

でも女がいっている

きっと綺麗に描いてくれますよ


濡れて飛ぶ鳥は恋を知る

綺麗じゃなくて

ありのままを描いて

傘はない

濡れたまま歩いていたい


描かせていただけませんか

お願いします

泣き出しそうな顔をしているね

彼はあなたを描いたの?

描かれたあなたが

私を誘うの?


五月の雨を切り

濡れながら飛んでいる

傘をなくした

あなたも私も 一羽の鳥


  *


「詩の通信」は、ただいま第VI期に進んで、11月16日(月)には、第8号を出そうという状況です。『雨の午後』を発表した当時、私は恋愛詩を多く書いていました。この『雨の午後』も、恋愛ではありませんが、街で偶然に出会った男女の姿を描いています。男女の、束の間の出会い。

しかし、田中修一さんは、『雨の午後』から恋愛の要素をばっさり削ぎ落としました。自然、詩自体が短くなっています。6連あったものが、その半分になっています。詩をカットして、カットした部分は音楽に表現させた、といえるかもしれません。

ご覧ください。以下のようになりました。



 歌曲「雨の午後」


濡れて飛ぶ鳥も戀を知る

傘は嫌い

濡れたまま歩きたい


濡れて飛ぶ鳥は戀を知る

傘はない

濡れたまま歩いてゐたい


五月の雨を切り

濡れながら飛んでゐる

傘をなくした

一羽の鳥



「あなたの絵を描かせてください/駆け寄ってきたひとりの女/あの人が画家です/なるほど街灯の陰に男が見えた/変に思われないよう/私がお願いに来ました//はっきりいえばいい/ぼくがあなたを描きます/喜んで私は裸になるだろう/でも女がいっている/きっと綺麗に描いてくれますよ」


このような物語性は、歌にならなかったわけです。すでに記しましたように、私は作曲家の意図を尊重します。どのようにしていただいてもかまいません。

田中さんは、「断章賦詩」という、中国にあるという手法を用いました。私はこの言葉を知りませんでしたが、要するに、任意の箇所を選んで、あるいは残して、そこに思いを託し、詩として示すわけです。書いた本人が自分の詩に手を加えることはあるでしょうか? たいていは、書いた本人以外の人によって行われるのでしょう。過去の詩を用いることが多いと思われます。大きくいえば、引用ということになります。


一種の恋愛詩と見れば、肝心な恋愛の要素がなくなったことは、残念です。

田中さんは、それを承知でなくしたわけです。別に恨みません。詩と音楽は違うのですから。詩が音楽になるためは、恋愛を捨てなければならなかった。詩の核に恋愛があったからこそ、それをなくして音楽になるとは、詩と音楽の関係を考える上で、実に象徴的なことだと映ります。


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