2009年11月26日木曜日

「トロッタ通信 10-18」

ミラボー橋の下をセーヌ河が流れ

われらの恋が流れる

わたしは思い出す

悩みのあとには楽しみが来ると


日も暮れよ 鐘も鳴れ
月日は流れ わたしは残る


手と手をつなぎ 顔と顔を向け合おう
こうしていると
二人の腕の橋の下を
疲れたまなざしの無窮の時が流れる


日も暮れよ鐘も鳴れ
月日は流れ わたしは残る


流れる水のように恋もまた死んでゆく

恋もまた死んでゆく
命ばかりが長く
希望ばかりが大きい

日も暮れよ 鐘も鳴れ
月日は流れ わたしは残る

日が去り 月がゆき
過ぎた時も
昔の恋も 二度とまた帰ってこない
ミラボー橋の下をセーヌ河が流れる


日も暮れよ 鐘も鳴れ
月日は流れ わたしは残る


Le Pont Mirabeau


ギョーム・アポリネールの『ミラボー橋』です。堀口大學の翻訳で、新潮文庫の『アポリネール詩集』から引用させていただきました。かつての恋人、マリー・ローランサンへの想いを詠んだ詩であるといいます。1913年刊行の詩集『アルコール』に収められた後、音楽となり、シャンソンの名曲として多くの歌手が歌ってきました。『アポリネール詩集』の『アルコール』の章には、『マリー』という詩もありました。マリー・ローランサンの面影を詠んだ作品です。始まりの二連です。


小娘でここで踊っていたあなた

祖母(おばば)でここで踊るだろうか

ここの踊りのマクロット?

マリーよ あなたはいつ戻る?

ありたけの鐘を鳴らして祝おうに!


仮面(おめん)をつけた人たちもひっそりとして踊ってる

音楽は遠いところで鳴っている

空から聞こえてくるみたい

そうなんだ あなたを僕は愛したい だがそっと!

そのほうが悩むにしても楽だもの


トロッタ10では、偶然ですが、アポリネールとマリー・ローランサンにゆかりの曲が並びました。それも、始まりと終わりに。どちらも、今井重幸先生の曲です。

幕開きの曲、「今井重幸によるヌーベル・シャンソン 新しい歌の流れII」の一曲『鎮静剤』は、マリー・ローランサンの詩、堀口大學の訳です。すべて引きましょう。


退屈な女より

もつと哀れなのは

かなしい女です。

かなしい女より

もつと哀れなのは

不幸な女です。

不幸な女より

もつと哀れなのは

病気の女です。

病気の女より

もつと哀れなのは

捨てられた女です。

捨てられた女より

もつと哀れなのは

よるべない女です。

よるべない女より

もつと哀れなのは

追われた女です。

追われた女より

もつと哀れなのは

死んだ女です。

死んだ女より

もつと哀れなのは

忘られた女です。


大學の『月下の一群』に編まれた1916年の作品で、ローランサンに捧げたアポリネールの詩が、1913年の詩集に収録されているところを見ると、男の詩を読み、女は詩を書いたのかもしれません。当時、すでにローランサンは結婚して、パリからは遠く、スペインで暮らしていたそうです。

おしまいの『時は静かに過ぎる(「奇妙-ふしぎ-な消失」より)』は、アポリネールの短編『オノレ・シュブラック滅形』を原作に、堀口大學が訳し、これを台本作家の紀光郎(のり・みつお)氏が構成した作品をもとに、今井先生自らが編曲をほどこした、ほとんど新曲のような作品です。

私はフランス文学に疎く、アポリネールもマリー・ローランサンも知りませんが、詩が音楽について恋人同士だった詩人の作品を通して、考えることができます。


『オノレ・シュブラック滅形』は、詩ではありません。小説です。散文であり、歌になりそうにありません。今井重幸先生は、紀光郎氏の構成をもとに、朗読をともなう音楽にされました。曲名は『ル・コント ファンタジー 奇妙-ふしぎ-な消失』。今年の917日(木)に初演されました。私は残念ながら聴くことができませんでしたが、演奏直後、音楽評論の西耕一氏が口にした言葉を覚えています。「朗読がある曲で、トロッタで演奏したらいいですよ」

当日プログラムを見ると、編成は、語りに、ヴォーカル・二十絃箏、チェロ、マリンバ・打楽器、フルート、サブヴォーカルとなっています。これをトロッタ10では、バリトンとソプラノ、フルート、オーボエ、弦楽四重奏、打楽器としました。チラシには書きませんでしたが、今井先生の作曲過程で、私も、詩唱・朗読として出演することになりました。総勢11名です。

初演と再演の間隔がほとんど空いていません。しかも、初演と再演は、まったく違った編成になりました。珍しいことだと思います。

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