『花の記憶』を完成させ、初演を終えました。すぐ、トロッタ7で再演しました。その過程で、『死の花』を書き、さらに『祝いの花』を書いて、これを「花の三部作」とする構想を、橘川さんと決定しました。『花の記憶』『死の花』と、死にまつわる印象が強いので、最後の曲が明るい内容でと話し合ったことも覚えています。ただい、死についての考えは暗いものだけではないことを、後で記します。
『死の花』の第二連は、このようになっています。
食べ尽くされて
殻だけになった
ごみむしを活ける
花の形として
破れてしまった翅
ゆがんだ脚
かしげた首で物思いにふけっている
この花をあなたたちへ
誰が食べたの?
命を望んだほどの愛
舌鼓を聴きながら
意識は遠去かる
舌なめずりに身をまかせた
これきりなのだからと
朝、机の上に、ひからびて死んだ、虫の死骸がありました。ごみむしでした。性別は不明ですが、この虫はどうして死んだのだろうと思いました。死んだ形から、生けられた花を想像しました。
私にとって、死は、哀しいだけのものではありません。美しいものかもしれず、崇高なものかもしれません。実際に肉親が死ねば、話は別でしょう。しかし、机の上で死んだごみむしに対し、感情はありません。純粋に、死の形として見るだけです。よくここで死んだと、いってあげたい思いさえします。
「朝起きると ふとんの上で 蝿が死んでいた」
こんな始まりの、短い詩を書いたことがあります。もともとは、ビデオ作品のナレーションに書いた言葉でした。実際に、朝起きると、布団の真っ白なシーツの上で、真っ黒な蝿が死んでいたのです。私は蝿の死骸と寝ていたのです。よく死んだと思いました。愛しくさえあったのです。
橘川さんが、『死の花』をどのような曲にするかはわかりませんが、私は悲劇的な死を想定しているのではないことは、申し上げておきたいと思います。橘川氏は、私の詩に忠実に曲を書いてくださると書きました。それでも、解釈の違いはあると思います。詩の言葉を改変しないだけが、忠実の証ではありません。ここから先はもう、詩人と作曲家の違いです。個性が、解釈しているのですから。
『死の花』の第四連、最後の詩です。
縒り上げた糸に似る
ごみむしの角
つや光りした胴体に
世界が映る
静寂
生と死の境界はわずか
沈黙
聴こうとして聴かず
ただじっと
花になったごみむしが
私を見ている
いつかはおまえを
花にしたい
おまえの形を見てみたい
いいだろう
六脚の主に
この身を捧ぐ
覚悟はできている
「ごみむし」という名は、もちろん人がつけたものであり、虫には何の関係もありません。印象のよくない名前だが、虫にすれば、放っておいてほしいというところでしょう。しかし、いっそ最悪の名前の方が、気取りがなくてすがすがしい気さえします。落ちてしまえば、その次元で開き直れます。私は「ごみむし」に、何の悪感情も持っていません。
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