2009年11月29日日曜日

「トロッタ通信 10-21」

ちょっと、話がずれるようですが。

語り、朗読、詩唱と、呼び方は何でもいいのですが、歌では声がよく聴こえても、語りになると、声が聴こえない、とたんに小さな声になってしまう方がおられます。

語りと歌は、発声方法が違います。歌は、響かせれば聴こえます。響かせて、伸ばすということができます。しかし、語りは、響かせるのは工夫次第ですが、伸ばせません。歌なら、わーたーしーはー(私は)、といえますが、語りで同じことをすると、おかしな話になります。

この逆も不都合が生じまして、語りは上手なのに、歌は妙に力の入った声になって、聞き苦しい人がいます。あるいは、メロディに乗せられない、ぶつぶつ切れてなめらかなレガートにならない、といった現象も起きます。意味を伝えようとするあまり、言葉が立って、メロディは後ろに隠れてしまう場合もあります。バランスの問題ですが、これは難しいです。

歌は響けばいいので、力を入れない方がいい。語りは響かせるのが難しいので、ある程度の力は必要だと思います。それに、愛をささやくのに大きな声で発声するのは、リアルさからいえば変なので、大きな声を使いたくない気持ちはわかります。マイクという利器があるので、それを使えばいいということになります。ただし、私はマイクを使いたくありません。


語り、朗読、詩唱を始めた最初からそうです。マイクを使いたくないのは、生の声を届かせたいからです。停電になったらどうする? という笑い話をしていたこともありましたが、室内でする限り、停電になったら、演奏会そのものが成立しません。

マイクを使ってほしいお客様もいます。腹式呼吸の声は聴きたくないというアンケートの回答もありました。ポップミュージックは、全部、マイクを使っています。楽器も電気です。生の楽器でも、増幅器を通しています。芝居は、基本的にマイクを使いません。使わないはずです。しかし現実的には、ミュージカルなど、使っているのでしょう。音楽との兼ね合いがありますから。

仮にですが、ものすごく広い劇場に出演して、大音量の音楽が鳴っている場合、現実問題として、私もマイクを使うでしょう。他の人がマイクなのにひとりだけマイクなしでは逆効果です。もちろん、選べる立場なら、そもそも、そういうところに出ません。


歌と朗読の違いは、まだあります。それぞれの分野で上手な人を比べた場合、歌は繰り返して聴けますが、朗読は聴けません。歌は、例えば仕事をしながらでも気分を楽にするため、歌のCDを再生することはあっても、朗読では、ちょっと難しいと思います。やはり、内容を聴かなければいけません。落語でも内容があって笑えるわけです。声の響きを楽しもうという具合にはなりません。ベテランの噺家などになると、響きや雰囲気を楽しめるという言い方ができるでしょうが、しかし本来は、内容を伝えるものです。歌は、メロディやリズムやハーモニーを楽しめます。詩の意味は大事ですが、メロディで聴かせるものです。私が、朗読にもメロディやリズムがあるといいはっても、歌にくらべれば単調です。おもしろみが少ないのです。


マイナスの点ばかり並べてしまいました。にもかかわらず、なぜ語り、朗読というものが、古くから存在しているのか。なくならないのか。歌手が語りも歌もすればいいのに、語り手がいて、役者がいて、という状況が続いているのか。私自身について、考えようとしています。

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