清道洋一さんは、劇団「萬國四季教會」で、作曲を担当しています。彼と演劇論を交わしたことはありません。しかし、トロッタを通じて、演劇に通じる音楽論、逆に、音楽に通じる演劇論は話し合っている気がします。話しはしていなくても、実際の舞台を通して感じあっていると思います。探りあっている段階かもしれません。また結論など、何年つきあってもなかなか出ないと思います。だとしたら、舞台を通じた交感こそが、望ましいといえるでしょう。
演劇については、私も考えることがあります。私は、高校生のころから芝居をしていました。大学時代を過ぎてからも何年か、芝居を続けていました。それが終熄したのは、後に『伊福部昭 音楽家の誕生』となる原稿を書き始めたころです。完全に重なる訳ではありませんが、書くことに向かう過程で、舞台から降りました。そして現在、トロッタを通じて、再び舞台に上がるようになりました。一度降りた人間が、また上がったということ。そこでたくさんの人と出会いましたが、そのうちのひとりが、音楽で芝居に関わっています、清道洋一さんです。
何でしょうか? 芝居とか。ここに詩と音楽があると思うのは、私ひとりではないはずです。詩と音楽を融け合わせたものが芝居だといっても間違いではないと思います。それなら、舞踊も美術も融け合わせなければいけないでしょう。その通りです。ただ、現代の多くの芝居に対する私の不満は、音楽が物足りないということ。役者の演技にオリジナリティを求めるのに、なぜ音楽になると、すでにあるものを使うことが多いのでしょう? そのような演出家の態度こそ、問題なのではないでしょうか。彼らは、自分の記憶を舞台で再現しているに過ぎません。舞台の創造者としては失格です。清道さんと「萬國四季教會」は、その不満を払拭してくれます。満足、とまではいかないにせよ、作曲家によって、オリジナルな音楽を創ろうとしている点は評価されていいと思います。忘れてはならないのは、戯曲そのものも、オリジナルなのでした。決して、世の名作の再生産に明け暮れているわけではありません。劇作家のひとりが、トロッタ10に参加される田中隆司さん、芝居の世界でのお名前は、響リュウさんです。
もちろん、オリジナルだけにこだわることはありません。過去に生まれた名作を取り上げてもいいでしょう。例えばシェイクスピアを上演して、そこに現代の問題を象徴させられるなら。音楽にも同じことがいえます。トロッタが、現代の作曲家の作品にこだわる理由は、そこにあります。クラシック音楽を演奏するのもけっこうですが、現代の音楽を創りたいのです。でなければ、作品を世に問えないまま、作曲家という存在は滅んでしまいます。
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