2009年5月11日月曜日

「本番までの通信」第4号

本番までの通信;4(5.11)


寝たままで見つめる
天井 
窓の向こうには山 
そして空 

風が 
窓に雨粒を叩きつける 
黒い森が 
揺れている 

カーテンの隙間からのぞき見る 
窓の外に花が咲いていた 
赤く濡れて 
じっと待っている 
不甲斐のない男たちだった 
あきれるほど 
だけど男だった 

心の中が 
時々ふっと白くなる 
このまま消えてしまうかもしれない 
消えればいい 
でも 
あの花の名前だけは 
思い出したいと思っている 

橘川琢・作曲 木部与巴仁・詩 
「異人の花」より

「本番までの通信」第4号は、本サイトにてお送りいたします。更新されたサイト、開設されたブログを生かします。
「本番までの通信」は、サイトとブログで御連絡をするようになる、その時点で役目を終えたのかもしれません。サイトとブログが、“本番までの通信”の役割を担ってくれるからです。逐一、より多くの新しい情報をお届けする意味で、両者は紙の「本番までの通信」を上回ります。しかし、便利なだけでいいのかという疑問がつきまといます。役目も性格も違うだろうと思います。紙は実体がある、実感がある、場所を問わずに読めるなどの長所があり、WEBメディアはその反対です。しかし正反対でもなく、それなりの実体、実感、場所を問わない性格がありますが、違いを考えるのは別の機会にいたします。
 トロッタは〈詩と音楽を歌い、奏でる〉会です。器楽曲は重要ですが、今は私の立場で書いているので、詩について考えます。歌といえば、すぐ五線譜に書かれた、旋律を伴った歌曲を連想します。しかし、日本には和歌があり、長歌も短歌もあって、これを歌といいます。当然ですが譜面には記されていません。平板に詠むこともできますが、抑揚とめりはりを伴って詠むことができます。平板に詠んでも、詠み手によって抑揚がつき、リズムが刻まれます。時々によって違いは生じましょうが、譜面に書かれていても違いは生じます。また違いがあってよいわけです。人間ですから。最終的には、譜面に記されていようがいまいが、音楽の本質には関係がない。民族音楽に、譜面はありません。文字も譜面も、後からできました。
 歌人の岡野弘彦氏には多くのことを教わります。岡野氏に、「歌を恋うる歌」という随筆があります。土岐善麿の、自由律の歌が紹介されていました。

 あなたをこの時代に生かしたいばかりなのだ、あなたを痛痛しく攻めてゐるのは 

 その性情・才能・肉体の全く僕と等しい青年にあなたを捧げたいのだ 

 1933(昭和8)年に出版された歌集、『作品1』にあるのだそうです。これらの歌は、「短歌に寄せる」と題されていて、つまり捧げている相手とは歌なのです。だから、この随筆の題「歌を恋うる歌」になるのです。土岐善麿は短歌を、熱烈に愛しました。岡野氏によれば、善麿に起こった感興が、どうしても短歌の形にならなかった。そのいらだたしさの中、定型を破った自由律短歌が生まれた。定型短歌に対する、思慕の念となってほとばしった、ということです。
 私が書く詩は、自由な様式を持っています。そこから生まれる曲も、自由な様式です。自由さを支えているのは、言葉をお借りすれば、“歌を恋うる”思いです。
 近づいてきたトロッタ8に、御予約、お問い合わせをお待ち申しあげます。〈木部与巴仁〉

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