2009年5月16日土曜日

萬國四季協會「砂上」を観ました


萬國四季協會公演、作・響リュウ、演出・渡辺大策による『砂上』を拝見しました。清道洋一さんの作曲です。小野崎彩子さんと後藤澄礼さんのヴァイオリン、石垣悦郎さんのヴィオラ、斉藤浩さんのピアノによる、楽器の演奏がありました。会場は、かつての映画館、中野光座です。

ストーリーは、追えていません。足場の悪い、題名そのものの“砂上”に、人々は生きています。主人公といえる者はいないように思いました。ハケンがおり、オレオレ詐欺の兄弟がおり、姉妹と詐る母と娘がおり、ホストがおり、ごみ屋敷の老人が居り、介護パートの女がおり、幽霊がおり、実に雑多な組み合わせです。しかし、実生活もまた、雑多な人間で構成されています。その意味で、世の中の縮図がここにある、といえたかも知れません。*今日の世の中を象徴するような人間ばかりが現われます。事件性の集合、といえるでしょうか。

作者の響リュウこと、作曲家・田中隆司氏は、この言い方は古いようですが、世界を表現しようとしているのでしょう。もちろん、世界を表現しようとしていない芝居など、あるはずはありません。観た者が考えるべきは、どんな世界かということ。暴力が、印象に残りました。暴力とは何でしょう。殺し、殺されるという関係も、何通りかありました。人の醜さと言いきることは簡単ですが、芝居の場合は、暴力性で表現できることが、何かあるようです。映画に置き換えるなら、アクション映画と呼ばれるものの類でしょう。*映画の場合、そこに人間性を見ます。時代劇なら美しい殺陣があります。洋画なら、爽快な殴りあい、といったこともあるでしょう。しかし、生身の芝居は、美しさとも爽快さとも印象が異なります。

言葉も、印象に残りました。役者が台詞をいっている時、詩だなと思ったことが、何度かありました。響氏の言葉の力です。私の詩唱もそうですが、人が舞台で言葉を発するとは、どういうことでしょう。演奏家が音楽を奏でることと同じでしょうか。詩唱、朗読と、役者の発語は違うのでしょうか? 役者は、一瞬一瞬、詩唱者になるべきか。あくまでも、人を演じているのか。詩ではなくてもいいのか。言葉が印象に残る芝居はあります。例えばシェイクスピアのような。人の行いとしては不自然です。人はあのように、自分を説明しません。他人となら会話します。舞台上で役者同士が会話するのは、不思議ではありません。問題は、独白ということの意味、でしょうか。観客席に向かって語るとは、どういうことか?*自己陶酔はあっていいでしょうが、観客に何ごとか説明することもあっていいでしょうが、役者の語りは、考えていい問題だと思っています。木下順二の『子午線の祀り』を、典型として。

最後の場では、ごみ屋敷が崩壊して、ごみの袋が舞台一面を覆っています。世界の崩壊なのでしょう。ごみ袋の中を全員がさまよう姿は印象に残ります。ハケンの男の絶叫で、『砂上』は終ります。ハケンに、世界を背負わせたようです。おれは誰なんだ、何ていう名前なんだと、いったように思います。*彼は他の登場人物から、いいようにあしらわれていました。人としての扱いを受けていませんでした。ナイフで、彼は人をさします。最後のひとつきです。世の中は、人に無名性を強いています。無名で生き、無名のまま死ねと。その方が世の中には都合がいいのです。しかし、人は無名ではありません。そのせめぎあいを一身で背負いながら、人は辛く、生きているようです。*ハケンの青年が主人公だったのでしょうか? チラシに描かれているのも、荷物を持った、ハケンの姿でした。

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