2009年5月9日土曜日

電話をいただきました

ある晩、Xさんと電話でお話ししました。いずれトロッタに参加される方です。準備中でいらっしゃいます。並々ならぬ御決意でした。詳細は書きません。Xさんの決意をうかがっていて、そこまでトロッタに打ち込もうとしているのかと、共同作業をする私として、手応えを感じざるをえませんでした。

書き方として、私のことを受けとめる側、とも表現できますが、トロッタは、あくまで一緒に作っていくものですから、お話を受けとめるとは書けますが、Xさんを受けとめる、トロッタにお迎えする、という表現は変です。それではXさんと話したことになりません。
何度も口にしていることですが、私はトロッタの主宰者ではありません。便宜上、そう書く場合もありますが、それは「詩唱」でわかりにくい場合、「朗読」というようなものです。場を作る者かもしれませんが、私は皆さんに何かを保証しているとか、皆さんをリードしているという、おこがましい気持ちはありません。ただ責任は負っています。これもまた、誰もが負っていることですが。

誰もが何らかの決意を持っているのだし、決意を明かさない方にも、それぞれの事情を背負いながら作曲なり演奏なりをしようとしているので、ことさらXさんを特筆することはなく、Xさん以外の方に決意がないということは、まったくいえません。
さまざまな意思と、さまざまな事情の集まり。それがトロッタです。受けとめるといえば、誰もが受けとめているでしょう。それは自分の決意であり、他人の決意であり。

話を戻して。Xさんについていえば、大きく強い御決意を聞いて、私は楽しみになりました。まだ先のトロッタの話ですが、そのような曲を演奏できるのですから、うれしいことです。
自分の詩が初めて曲になった時。うれしく、ありがたく、このようなことがあるのかと疑いすら抱きました。今は、それが当然のことになっています。それではいけないと思います。詩を書く者として、皆さんに感謝をしています。まず、たった一行の詩を書くこと、たった一枚のチラシを配ること、お越しくださいとひとりの方に電話すること。そこからトロッタは始まっています。Xさんとの電話は、その原点を振り返る契機になりました。

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