田中修一氏より『MOVEMENT』のための詩の依頼あり。当初は新シリーズの詩にするつもりが、やはり『MOVEMENT』で行きたいということ。東京音大でチェロのAさんに会う。演奏者が確定せず、最終決定を引っ張り過ぎた感があるが時間は取り戻せない。これから進めていく。Aさんを最後に、演奏者は全員、全曲について揃ったと思う。滞っていた時期のトロッタ日記を、以下に書く。
2月24日(金)、FIGARO本紹介ページの仕事を降ろされるので激しく動揺。仕事をしなければ、トロッタはできない。お金はあってあり過ぎることはまったくない。
2月25日(土)、押し入れから更科源蔵氏未亡人、千恵さんの手紙が現われる。伊福部昭先生の追悼演奏会で、私が更科氏の詩を朗読したことへの礼状。2006年4月23日付。繰り返し語っているが、トロッタは、このあたりから構想され、始まっている。第1回演奏会の10か月前。秋葉原のカラオケ館で、清道洋一氏『革命幻想歌2』練習。演奏の舞台は日本音楽舞踊会議であり、トロッタではないが、私にとってはすべてトロッタにつながっている。
2月26日(日)、トロッタの準備、できず。
2月27日(月)、造形作家の扇田克也氏、陶芸の金憲鎬(キム・ホノ)氏から、それぞれ個展の案内が届く。扇田氏は前回を含め、何度かトロッタに足を運んでくださった。金憲鎬氏は橘川氏の個展と名古屋での演奏に足を運んでくださった。扇田、金両氏を含め、どなたとも、知っているだけの関係に終わりたくない。知り合っているだけでも奇跡だが、人の存在に、常に触発される自分でありたい。それがトロッタに生かされればいい。
2月28日(火)、トロッタ15に参加してくださるヴィオラのHさんと、東京音大で会った。甲田潤氏が指導する女声合唱団コール・ジューンのMさんより、甲田氏が夏に指揮する伊福部昭先生の『交響頌偈 釈迦』合唱練習のスケジュールが送られて来る。『釈迦』も歌の曲であり、伊福部先生のことを考える機会として、できれば参加したいが先立つものが……。
2月29日(水)、橘川琢氏より、日本音楽舞踊会議演奏会で演奏する『叙情組曲《日本の小径》補遺より「春告花・三景」』の楽譜を明日の夜、発送するとの連絡あり。今日は歌のレッスン。ロルカ採譜の“ZORONGO”。一応、歌ったが、詩についての理解が全然追いついていない。メゾソプラノ松本満紀子さんより、私がデザインした、第三回グループえん演奏会のチラシとチケットが届いたと連絡をいただく。松本さんはトロッタ15で、田中隆司さん作曲の『寒戸の婆』を歌う。テキストは柳田國男の『遠野物語』。田中氏ならではの意欲作である。
3月1日(木)、トロッタ15全詩解説として、過去6曲になる田中修一氏『MOVEMENT』シリーズの一覧を作成。併せて、全曲の解説を【付記】として書く(手直しあり)。橘川琢氏と会って楽譜をもらう。深夜に阿佐ヶ谷まで来ていただいたが、全曲ではなかった。3分の1曲のみ。
3月2日(金)、西川直美さん(sop.)、野田晶子さん(pf.)、河内春香さん(pf.)の演奏会に、上野の旧・東京音楽学校奏楽堂へ。河内さんが尾高尚忠氏の『日本組曲』、野田さんが伊福部先生の『ピアノ組曲/盆踊』を弾く。伊福部先生の曲も“日本組曲”と命名されたもの。同世代の作曲家によってそれぞれの“日本組曲”が書かれたことに、明らかな理由、共通点する思潮のようなものはあったのか?尾高氏は1911年生まれ、伊福部先生は1914年生まれである。
3月3日(土)、一度は売った『ネヴォの記 1930年代・札幌―文化運動の回想』(佐藤八郎著・編)を、インターネットで古書店に注文。ネヴォは、かつて札幌にあった、伊福部昭先生行きつけの店だった。早坂文雄、三浦淳史といった友人と日参。名曲のレコードを聴き続けたという。『ネヴォの記』にも、伊福部先生らの名前が記されている。伊福部先生について、改めて書きたいという気持ちが起こっている(「ギターとランプ」にも、本当は、伊福部先生のギター曲について書かなければならないと思う。しかし、もう作曲家にインタビューできない)。
3月4日(日)、田中修一氏の『亂譜 海猫』の詩が最終的な形になってゆく変化を並べた画像を作成。詩の変遷に大きく三段階ある。田中修一氏に送った。秋葉原のカラオケ館にて、清道洋一氏『革命幻想歌2』の練習。清道氏、堀江麗奈さんと。ギターの萩野谷英成さんは来られなかった。
3月5日(月)、「詩の通信VI」13号から16号までを作成。1か月半も発行および発送が滞った。トロッタ15全詩解説として、田中修一氏の4回目をアップ。盛岡の詩人、岩崎美弥子さんから『海猫』の資料にと提供された、震災後の廃墟で鹿踊りが舞われている岩手日報の写真入り新聞記事も載せた。
3月6日(火)、「詩の通信VI」13号から16号までを発送。小島遼子さんとは別に、新たなチェリストを探すことになる。曲数の関係で、どうしても二人必要だ。明日のレッスンのため、ロルカ採譜「lLos pelegrintos」の歌詞を楽譜に書きこんでゆく。これが一苦労。
3月7日(水)、歌のレッスン。「Los pelegrintos」。初めての曲は、強弱などつけられたものではない。すべて力が入ってしまう。ギタリスト鎌田慶昭氏のアルバム「セリエ・アメリカーナ~南米ギター作品集」をディスクユニオンで購入。中古がさらに割引で910円。鎌田慶昭氏のアルバムは、所持するCDが傷んで音が出なくなったので買い直したのである。田中修一氏と連絡を取り合い、新曲の楽譜を送ってもらう相談。次回の「ギターとランプ」のために必要。次も萩原朔太郎と田中修一氏について書く予定。『ネヴォの記』到着する。
2012年3月9日金曜日
2012年3月5日月曜日
トロッタ15全詩解説『MOVEMENT No.6 海猫』(作曲/田中修一).4
『MOVEMENT No.6 亂譜 海猫』の詩は、田中修一氏の要請によって書かれた。
田中氏から、詩を求める要請があったのは、6月1日である。彼はいくつかの新聞記事によって、東日本大震災の被災地に、次のような事実があることを知った(記事を引用せず、まとめる)。
宮城県気仙沼市朝日町の空き地に、数千羽の海猫が巣を作っている。震災前、付近には水産加工場が並んでいたが、津波に工場は押し流され、あたり一面が廃墟となった。そこに海猫が営巣したのである。なるほど、倒壊した家屋や廃墟となった施設の周囲に、おびただしい海猫がいた。
田中氏は写真入りの記事に接し、そこにさまざまなことを感じた。例えば“無常”といったようなことで、その光景から詩が書けないかと打診してきたのである。もちろん、私が“無常”を感じるかどうかは別であり、まったく違うことを感じていい。ただ、言葉は具体的だしひとり歩きするものでもあるから、被害を受けた方々のことをよく知らないまま、勝手なことを書くのは遠慮しなければならない。しかし遠慮してばかりではいけないとも思い、詩は書こうと思った。それは、何が書けるのかという、自分自身への問いかけでもあるからだ。生半可な言葉は、誰が読んでも生半可に感じられる。自分でもわかる。私もトロッタ13のため、被災地を思い『たびだち/北の町』を書いた。それに続く、東日本大震災以降の詩となる。
まず、7月2日に第一稿を書いて田中氏に送った。田中氏からは、“この線で”という言葉をもらったので、推敲して、7月14日に第二稿を送った。田中氏の感想は、どちらもよいので、それぞれ曲にできれば、というものであった。そして何度かのやりとりがあり、9月10日、田中氏の筆が入った、歌曲のための詩が届いたのである。読みづらいかと思うが、以下に変遷を並べた。
ちなみに、第二稿の第二連に、次の詩句がある。
瓦礫の町に
笛の音(ね)がする
太鼓が響く
踊りの影が足を踏む
瓦礫の町に
歌が聴こえる
囃子も響く
魂よ鎮まれかしと
これは、岩手県の詩人、岩崎美弥子さんから提供された、岩手日報の写真記事を見て、読んで書くことができたのである。被災地の瓦礫の中、鹿踊りが舞われていた。踊りのいわれは諸説あろうが、民俗芸能に共通する性格は、鎮魂である。踊りは基本的に楽しむものだが、死者に思いをはせ、魂を鎮めながら、舞い踊る。もちろん、震災はなければよかった。しかし、それが被災地の鹿踊りだけに、芸能の本質に思いをはせた。さらに、鳥は死者の生まれ変わりだといわれることも思い、瓦礫に巣を作って乱舞する鳥を見て、曲作りを思い立った、田中氏の意図を私なりに汲もうとしたのである。
第二連は、田中氏の意向で、曲には生かされなかった。それはまったく、曲の進行とか、構成といった理由からであろう。しかし詩の根本には、例えば鹿踊りへの思いがあることを、書き添えておきたい。
田中氏から、詩を求める要請があったのは、6月1日である。彼はいくつかの新聞記事によって、東日本大震災の被災地に、次のような事実があることを知った(記事を引用せず、まとめる)。
宮城県気仙沼市朝日町の空き地に、数千羽の海猫が巣を作っている。震災前、付近には水産加工場が並んでいたが、津波に工場は押し流され、あたり一面が廃墟となった。そこに海猫が営巣したのである。なるほど、倒壊した家屋や廃墟となった施設の周囲に、おびただしい海猫がいた。
田中氏は写真入りの記事に接し、そこにさまざまなことを感じた。例えば“無常”といったようなことで、その光景から詩が書けないかと打診してきたのである。もちろん、私が“無常”を感じるかどうかは別であり、まったく違うことを感じていい。ただ、言葉は具体的だしひとり歩きするものでもあるから、被害を受けた方々のことをよく知らないまま、勝手なことを書くのは遠慮しなければならない。しかし遠慮してばかりではいけないとも思い、詩は書こうと思った。それは、何が書けるのかという、自分自身への問いかけでもあるからだ。生半可な言葉は、誰が読んでも生半可に感じられる。自分でもわかる。私もトロッタ13のため、被災地を思い『たびだち/北の町』を書いた。それに続く、東日本大震災以降の詩となる。
まず、7月2日に第一稿を書いて田中氏に送った。田中氏からは、“この線で”という言葉をもらったので、推敲して、7月14日に第二稿を送った。田中氏の感想は、どちらもよいので、それぞれ曲にできれば、というものであった。そして何度かのやりとりがあり、9月10日、田中氏の筆が入った、歌曲のための詩が届いたのである。読みづらいかと思うが、以下に変遷を並べた。
ちなみに、第二稿の第二連に、次の詩句がある。
瓦礫の町に
笛の音(ね)がする
太鼓が響く
踊りの影が足を踏む
瓦礫の町に
歌が聴こえる
囃子も響く
魂よ鎮まれかしと
これは、岩手県の詩人、岩崎美弥子さんから提供された、岩手日報の写真記事を見て、読んで書くことができたのである。被災地の瓦礫の中、鹿踊りが舞われていた。踊りのいわれは諸説あろうが、民俗芸能に共通する性格は、鎮魂である。踊りは基本的に楽しむものだが、死者に思いをはせ、魂を鎮めながら、舞い踊る。もちろん、震災はなければよかった。しかし、それが被災地の鹿踊りだけに、芸能の本質に思いをはせた。さらに、鳥は死者の生まれ変わりだといわれることも思い、瓦礫に巣を作って乱舞する鳥を見て、曲作りを思い立った、田中氏の意図を私なりに汲もうとしたのである。
第二連は、田中氏の意向で、曲には生かされなかった。それはまったく、曲の進行とか、構成といった理由からであろう。しかし詩の根本には、例えば鹿踊りへの思いがあることを、書き添えておきたい。
2012年3月2日金曜日
トロッタ15全詩解説『MOVEMENT No.6 海猫』(作曲/田中修一).3
『MOVEMENT No.3 ムーヴメントNo.3~木部与巴仁「亂譜 未來の神話」に依る』
MOVEMENT No.3 (poem by KIBE Yohani "RAN-FU", Myths in the future)
■ 第12回 トロッタの会
2010年11月6日(土)
会場・早稲田奉仕園 スコットホール
【解説】この詩で、木部与巴仁氏は未来における風景を描いた。遺跡「東京」は水底の瓦礫であった。安部公房氏は『未来は、それが未来だということで、すでに本来的に残酷なのである。』といった。其の責任は現代にあるのだが。
作品では各々の楽器に些かプリミティヴな奏法を求めた。(田中修一)
【付記】ギターに造詣の深い田中修一氏が、トロッタで初めてギターを使った曲になった。しかし当初は、ハープを使えないかという希望だった。ハープ奏者にあたったものの無理となったので、ギターになった。しかし私としては、ギターでよかったと思う。この曲については、雑誌「ギターの友」の連載、「ギターとランプ」に書くことができた。『亂譜』も『瓦礫の王』も、舞台として廃墟になった新宿を想い浮かべることができるが、『未來の神話』はいささか異なる。田中氏からはっきりと、安部公房の『第四間氷期』を題材にした詩を、という依頼があった。どんな詩が生まれるのかわからないのではない、作曲家と詩人が共通の認識に立って創作しよう、という働きかけと受け取れる。仮に、安部公房を私が好きではなかったら、この働きかけは不調に終わったかも知れない。『第四間氷期』を読んでなければ、戸惑いが生じたかも知れない。しかし私にとって安部公房は関心の中心にある存在で、とりわけ『第四間氷期』が好きなのだった。
書きながら思い出したが、「No.3」の『第四間氷期』と同様、「No.2」は、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの『ブロディーの報告書』を題材にしてほしいという依頼があった。このボルヘスも、私は好ましく思っている。つまり、私自身の奥底にある精神性に触れて来る作家だ。ボルヘスに続いて安部公房の名前が出た時、田中氏と私は関心の方角が一致するのかなと思った。彼は伊福部昭先生に学び、私は伊福部先生について文章を書いた。明らかにその流れでトロッタを運営し、彼は第一回から参加し続けている。
ちなみに、彼は19世紀イングランドの画家、ジョン・エヴァレット・ミレーの水死したオフィーリアの絵を好むという。これまた私も同様で、2008年に東京で行われた展覧会には足を運んだ。田中氏は、スコアの表紙にオフィーリアの絵をあしらっていた。ここまで関心が一致するのかと驚くとともに、彼には“水の女”に寄せる心があるのかとも意外だった。私は詩『水の女』を書き、酒井健吉氏によって作曲された。私なら、自分が“水の女”を描きたがるとわかっており、そればかりではいけないと、『未來の神話』は当初、“水底(みなぞこ)の若者”を書いたのだ。
詩は「涙を詰めた小瓶を海に/鱗をまとった/水底の青年が/揺れながら漂う/小さな光に/未来を感じる」となる。
これを田中氏は次に改変した。「涙を詰めた小瓶を海に/鱗をまとった/水底(みなそこ)の處女(をとめ)が/搖れながら漂ふ/小さな光に/未來を感じる」
彼の心にある、私の知らない浪漫性を想像したのである。
*
『MOVEMENT an extra 木部与巴仁「亂譜外傳・儀式」に依る』
MOVEMENT an extra(poem by KIBE Yohani "RAN-FU"an extra canonical, The Rite of Hooakha Huchy Tribes)for 2Voices,Bassoon,3Conga-drums and Piano
■ 第13回 トロッタの会
2011年5月29日(日)18時30分開演 18時開場
会場・早稲田奉仕園 スコットホール
【解説】この作品に登場するハナアルキ(鼻歩き)とは、南太平洋ハイアイアイ群島に棲息した、鼻で歩き鼻で捕食する哺乳類で、核実験の影響で島と共に沈んでしまった鼻行類Rhinogradentiaの別名である(ハラルト・シュテュンプケ著『鼻行類』参照)。その原産地である南海のハイアイアイ群島の発見者、シェムトクヴィストは原住民フアハ=ハチの儀式をいきいきと描写している。「フアハ=ハチ族は当時(ちょうど春分の頃だった)ホーナタタ(ハナアルキの別称*筆者註)祭を祝っていた.この祭礼のときには,彼らは村の集会所で祭礼の歌をうたいながら脂身をはさんで焼いたホーナタタを食べる.それは夕闇迫る時分であった.(後略)」(前掲書)。(田中修一)。
【付記】三度び、田中氏から題材に依る作詩の依頼が来た。今度は“ハラルト・シュテンプケの『鼻行類』”である。ハナアルキという、名前どおりの生物群を解説するフィクション。この奇妙な書物は、読んでいたものの所持していなかったので、さっそく求めた。そして、このような世界にひかれる田中氏の精神性に思いを至らせた。「ギターの友」に記した田中氏の言葉に、2億年後の世界に生きる架空の生物を考察した『フューチャー・イズ・ワイルド』を自分は好むが、木部氏も同じではないか、というものがある。そちらは読んでおらず、表紙は何度も見たが、手に取ることがなかった。田中氏は、ハナアルキや2億年後の生物が好きである。おそらく、形状にも惹かれているだろう。私にそのような精神性はない。だが、『鼻行類』をという求めがあった以上、それに応えたいと思った。そこで書いたのが、ハナアルキという言葉をまったく用いない詩だ。それは、次のように始まる。
「焼けた風に/黒髪をなびかせて/波打際を駈けてゆく(*駈ける)/女は/ヒトではなかった(中略)/火の山の下(もと)/死の果てに生まれた生命(いのち)/原生の密林に/奥深く住むという(*住む)/女は/ヒトではなかった」
田中氏は次のように改変した。
「焼けた風に/波打際を駈けてゆく(*駈ける)ものは/ヒトではなかった(中略)火の山の下(もと)/死の果てに生まれた生命(いのち)/原生の密林に/奥深く住むという(*住む)/ハナアルキ」
私は、ハナアルキという言葉を用いたら、『鼻行類』に依ることが明らかになると思い、架空の生き物の名を使わなかった。しかし田中氏は使った。よほど、ハナアルキに愛着を持っており、ハナアルキと歌わなければおさまらない、創作意欲を持っていたのだろう。仮に、である。架空の生き物を使いたいというなら、私は“私のハナアルキ”を創る。『第四間氷期』や『ブロディーの報告書』に依ってほしいと頼まれ、それを承知しつつ、それらの作品に現われる言葉なり設定をまったく用いていないのは、そのような理由からである。文学作品と音楽作品には隔たりがあるが、『第四間氷期』『ブロディーの報告書』『鼻行類』と私の詩は、言葉を用いた表現という点で、隔たりがない。ないなら、自分で隔たりを作ろうと思うのが、書き手の本能であろう(簡単にいえば、他人の世界ではない、自分の言語による世界を創ろうということだ)。
私はこの曲に出演している。「No.2」にも出演している。詩唱者として思うことは別にあるが、今は詩についてのみ記した。
*
『MOVEMENT No.5 ムーヴメントNo.5-木部与巴仁「亂譜 樂園」に依る』
MOVEMENT No.5 (poem by KIBE Yohani “RAN-FU”, PARADISE)
for Solo Voice,Oboe,Piano and Contrabass
■ 第14回 トロッタの会
2011年11月13日(日)18時30分開演 18時開場
会場・早稲田奉仕園 スコットホール
【解説】木部与巴仁氏がハラルト・シュテュンプケ著『鼻行類』(鼻行類は南太平洋のハイアイアイ群島に生息し、核実験の影響で島と共に沈んでしまったという哺乳類である。)に取材して2010年12月5日に詩「亂譜 楽園」を送ってくれたが、そのままになってしまっていた。後になって「樂園」という題名につよく惹かれて、新たに此の詩と向き合うと、別の意味を持って私に迫って来たのであった。一連の「MOVEMENT」はデフォルメされた音楽様式となっているが此の作品でもそれが顕著にあらわれている。(田中修一)
【付記】「No.5」のもとになった詩が『楽園』であり、これが田中氏の書斎を訪れた体験から生まれたものであることは、先に書いた。田中氏はもともと、『楽園』を曲にすることは無理だといっていた。彼は、人の私生活が透けてみえるような世界は苦手だという。私生活から生まれた世界だから、なるほど、それなら無理だろうと納得した。それが曲になったのは、私生活部分をまったくカットしたからだ。つまり、以下のくだり。
「いつからだろう/目覚まし時計の力を借りず/午前三時に目を醒ますようになったのは/孤独の荷を下ろした/ひとりの時間/窓から見える/あの山の向こうで/誰かが男を呼んでいた/妻と子は/何も知らない」
この前後にある、「わたしの声が聞こえたら/返事をください」「わたしの声が聞こえたら/あなたの目を閉じてください」で始まる詩の流れは、そのまま歌に生かされた。
次の改変も大きい。田中氏の詩−−
「見える/一羽の鳥が/氣流に乘って飛んでゆく/海といふ海の/風を集めて/ただひとつ殘された/樂園をめざし 幾千年」
しかし、もとの詩は、次のようだ。
「見える/一羽の男が/気流に乘って飛んでゆく/海という海の/風を集めて/ただひとつ殘された/楽園をめざし/千年」
飛ぶのが鳥と男では、まるで違う。私は田中氏を飛ばした。だが彼は、男は地上にいて、飛ぶのはあくまで鳥である見方を貫いた。もとの詩は次のように結ばれる。
「なりたいのになれなかった/それは男の/理想の形」
鳥になる、あるいは飛ぶのが男の理想なのだから、詩としては人に飛んでもらわなければならない。
私は人間が好きなのだとわれながら思う。奇妙な形をした生物よりも(彼らから見れば、人も相当、奇妙な形をしているかもしれない)。つまり人という生物の私生活に関心がある。田中氏は、さして私生活には関心がない、あるいは自分に触れたくない、それでいて(いや、だからこそ?)“水の女”死せるオフィーリアには関心がある。詩人と作曲者に隔たりがあればあるほど、おもしろいかもしれない。
MOVEMENT No.3 (poem by KIBE Yohani "RAN-FU", Myths in the future)
■ 第12回 トロッタの会
2010年11月6日(土)
会場・早稲田奉仕園 スコットホール
【解説】この詩で、木部与巴仁氏は未来における風景を描いた。遺跡「東京」は水底の瓦礫であった。安部公房氏は『未来は、それが未来だということで、すでに本来的に残酷なのである。』といった。其の責任は現代にあるのだが。
作品では各々の楽器に些かプリミティヴな奏法を求めた。(田中修一)
【付記】ギターに造詣の深い田中修一氏が、トロッタで初めてギターを使った曲になった。しかし当初は、ハープを使えないかという希望だった。ハープ奏者にあたったものの無理となったので、ギターになった。しかし私としては、ギターでよかったと思う。この曲については、雑誌「ギターの友」の連載、「ギターとランプ」に書くことができた。『亂譜』も『瓦礫の王』も、舞台として廃墟になった新宿を想い浮かべることができるが、『未來の神話』はいささか異なる。田中氏からはっきりと、安部公房の『第四間氷期』を題材にした詩を、という依頼があった。どんな詩が生まれるのかわからないのではない、作曲家と詩人が共通の認識に立って創作しよう、という働きかけと受け取れる。仮に、安部公房を私が好きではなかったら、この働きかけは不調に終わったかも知れない。『第四間氷期』を読んでなければ、戸惑いが生じたかも知れない。しかし私にとって安部公房は関心の中心にある存在で、とりわけ『第四間氷期』が好きなのだった。
書きながら思い出したが、「No.3」の『第四間氷期』と同様、「No.2」は、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの『ブロディーの報告書』を題材にしてほしいという依頼があった。このボルヘスも、私は好ましく思っている。つまり、私自身の奥底にある精神性に触れて来る作家だ。ボルヘスに続いて安部公房の名前が出た時、田中氏と私は関心の方角が一致するのかなと思った。彼は伊福部昭先生に学び、私は伊福部先生について文章を書いた。明らかにその流れでトロッタを運営し、彼は第一回から参加し続けている。
ちなみに、彼は19世紀イングランドの画家、ジョン・エヴァレット・ミレーの水死したオフィーリアの絵を好むという。これまた私も同様で、2008年に東京で行われた展覧会には足を運んだ。田中氏は、スコアの表紙にオフィーリアの絵をあしらっていた。ここまで関心が一致するのかと驚くとともに、彼には“水の女”に寄せる心があるのかとも意外だった。私は詩『水の女』を書き、酒井健吉氏によって作曲された。私なら、自分が“水の女”を描きたがるとわかっており、そればかりではいけないと、『未來の神話』は当初、“水底(みなぞこ)の若者”を書いたのだ。
詩は「涙を詰めた小瓶を海に/鱗をまとった/水底の青年が/揺れながら漂う/小さな光に/未来を感じる」となる。
これを田中氏は次に改変した。「涙を詰めた小瓶を海に/鱗をまとった/水底(みなそこ)の處女(をとめ)が/搖れながら漂ふ/小さな光に/未來を感じる」
彼の心にある、私の知らない浪漫性を想像したのである。
*
『MOVEMENT an extra 木部与巴仁「亂譜外傳・儀式」に依る』
MOVEMENT an extra(poem by KIBE Yohani "RAN-FU"an extra canonical, The Rite of Hooakha Huchy Tribes)for 2Voices,Bassoon,3Conga-drums and Piano
■ 第13回 トロッタの会
2011年5月29日(日)18時30分開演 18時開場
会場・早稲田奉仕園 スコットホール
【解説】この作品に登場するハナアルキ(鼻歩き)とは、南太平洋ハイアイアイ群島に棲息した、鼻で歩き鼻で捕食する哺乳類で、核実験の影響で島と共に沈んでしまった鼻行類Rhinogradentiaの別名である(ハラルト・シュテュンプケ著『鼻行類』参照)。その原産地である南海のハイアイアイ群島の発見者、シェムトクヴィストは原住民フアハ=ハチの儀式をいきいきと描写している。「フアハ=ハチ族は当時(ちょうど春分の頃だった)ホーナタタ(ハナアルキの別称*筆者註)祭を祝っていた.この祭礼のときには,彼らは村の集会所で祭礼の歌をうたいながら脂身をはさんで焼いたホーナタタを食べる.それは夕闇迫る時分であった.(後略)」(前掲書)。(田中修一)。
【付記】三度び、田中氏から題材に依る作詩の依頼が来た。今度は“ハラルト・シュテンプケの『鼻行類』”である。ハナアルキという、名前どおりの生物群を解説するフィクション。この奇妙な書物は、読んでいたものの所持していなかったので、さっそく求めた。そして、このような世界にひかれる田中氏の精神性に思いを至らせた。「ギターの友」に記した田中氏の言葉に、2億年後の世界に生きる架空の生物を考察した『フューチャー・イズ・ワイルド』を自分は好むが、木部氏も同じではないか、というものがある。そちらは読んでおらず、表紙は何度も見たが、手に取ることがなかった。田中氏は、ハナアルキや2億年後の生物が好きである。おそらく、形状にも惹かれているだろう。私にそのような精神性はない。だが、『鼻行類』をという求めがあった以上、それに応えたいと思った。そこで書いたのが、ハナアルキという言葉をまったく用いない詩だ。それは、次のように始まる。
「焼けた風に/黒髪をなびかせて/波打際を駈けてゆく(*駈ける)/女は/ヒトではなかった(中略)/火の山の下(もと)/死の果てに生まれた生命(いのち)/原生の密林に/奥深く住むという(*住む)/女は/ヒトではなかった」
田中氏は次のように改変した。
「焼けた風に/波打際を駈けてゆく(*駈ける)ものは/ヒトではなかった(中略)火の山の下(もと)/死の果てに生まれた生命(いのち)/原生の密林に/奥深く住むという(*住む)/ハナアルキ」
私は、ハナアルキという言葉を用いたら、『鼻行類』に依ることが明らかになると思い、架空の生き物の名を使わなかった。しかし田中氏は使った。よほど、ハナアルキに愛着を持っており、ハナアルキと歌わなければおさまらない、創作意欲を持っていたのだろう。仮に、である。架空の生き物を使いたいというなら、私は“私のハナアルキ”を創る。『第四間氷期』や『ブロディーの報告書』に依ってほしいと頼まれ、それを承知しつつ、それらの作品に現われる言葉なり設定をまったく用いていないのは、そのような理由からである。文学作品と音楽作品には隔たりがあるが、『第四間氷期』『ブロディーの報告書』『鼻行類』と私の詩は、言葉を用いた表現という点で、隔たりがない。ないなら、自分で隔たりを作ろうと思うのが、書き手の本能であろう(簡単にいえば、他人の世界ではない、自分の言語による世界を創ろうということだ)。
私はこの曲に出演している。「No.2」にも出演している。詩唱者として思うことは別にあるが、今は詩についてのみ記した。
*
『MOVEMENT No.5 ムーヴメントNo.5-木部与巴仁「亂譜 樂園」に依る』
MOVEMENT No.5 (poem by KIBE Yohani “RAN-FU”, PARADISE)
for Solo Voice,Oboe,Piano and Contrabass
■ 第14回 トロッタの会
2011年11月13日(日)18時30分開演 18時開場
会場・早稲田奉仕園 スコットホール
【解説】木部与巴仁氏がハラルト・シュテュンプケ著『鼻行類』(鼻行類は南太平洋のハイアイアイ群島に生息し、核実験の影響で島と共に沈んでしまったという哺乳類である。)に取材して2010年12月5日に詩「亂譜 楽園」を送ってくれたが、そのままになってしまっていた。後になって「樂園」という題名につよく惹かれて、新たに此の詩と向き合うと、別の意味を持って私に迫って来たのであった。一連の「MOVEMENT」はデフォルメされた音楽様式となっているが此の作品でもそれが顕著にあらわれている。(田中修一)
【付記】「No.5」のもとになった詩が『楽園』であり、これが田中氏の書斎を訪れた体験から生まれたものであることは、先に書いた。田中氏はもともと、『楽園』を曲にすることは無理だといっていた。彼は、人の私生活が透けてみえるような世界は苦手だという。私生活から生まれた世界だから、なるほど、それなら無理だろうと納得した。それが曲になったのは、私生活部分をまったくカットしたからだ。つまり、以下のくだり。
「いつからだろう/目覚まし時計の力を借りず/午前三時に目を醒ますようになったのは/孤独の荷を下ろした/ひとりの時間/窓から見える/あの山の向こうで/誰かが男を呼んでいた/妻と子は/何も知らない」
この前後にある、「わたしの声が聞こえたら/返事をください」「わたしの声が聞こえたら/あなたの目を閉じてください」で始まる詩の流れは、そのまま歌に生かされた。
次の改変も大きい。田中氏の詩−−
「見える/一羽の鳥が/氣流に乘って飛んでゆく/海といふ海の/風を集めて/ただひとつ殘された/樂園をめざし 幾千年」
しかし、もとの詩は、次のようだ。
「見える/一羽の男が/気流に乘って飛んでゆく/海という海の/風を集めて/ただひとつ殘された/楽園をめざし/千年」
飛ぶのが鳥と男では、まるで違う。私は田中氏を飛ばした。だが彼は、男は地上にいて、飛ぶのはあくまで鳥である見方を貫いた。もとの詩は次のように結ばれる。
「なりたいのになれなかった/それは男の/理想の形」
鳥になる、あるいは飛ぶのが男の理想なのだから、詩としては人に飛んでもらわなければならない。
私は人間が好きなのだとわれながら思う。奇妙な形をした生物よりも(彼らから見れば、人も相当、奇妙な形をしているかもしれない)。つまり人という生物の私生活に関心がある。田中氏は、さして私生活には関心がない、あるいは自分に触れたくない、それでいて(いや、だからこそ?)“水の女”死せるオフィーリアには関心がある。詩人と作曲者に隔たりがあればあるほど、おもしろいかもしれない。
2012年3月1日木曜日
トロッタ15全詩解説『MOVEMENT No.6 海猫』(作曲/田中修一).2
これまでの、『MOVEMENT』全6曲の歴史を振り返ってみよう。
『MOVEMENT 声と2台ピアノのためのムーヴメント~木部与巴仁「亂譜」に依る』
■ 第3回 トロッタの会
2007年5月27日(日)
会場・タカギクラヴィア 松濤サロン
【解説】MOVEMENTとは、「運動」「楽章」「詩の律動的な調子」と云った程の意の語です。此の作品では、7拍子を核とした律動により、詩の趣意を表現したいと考えました。
また、作詩者の提案をうけて、独唱歌曲の伴奏を2台ピアノとしたのは、危険な冒険であり、些かの不安を禁じ得ないのでした。(田中修一)
【付記】何といっても『MOVEMENT』はここから出発したので、思い出に残る。2台ピアノに対しては、何も2台使わなくてもという批判がある。私の提案なのだが、勘違いであれ、ものの量感を作ろうとする態度を認めたいと、常々思っている。それに応えてくれた田中氏に感謝している。再演できればと思う。--2台ピアノを提案したのは私だとすっかり思いこんでいたが、田中氏の発案であった。「洪水」第1号の、私、田中氏、橘川琢との話し合いで、田中氏が述べている。話し合いの日は、2007年5月28日、まさに『MOVEMENT』初演の翌日であった。田中氏がいうような言い方を私がしたか疑問だが、彼なりの受け止め方なので、私はそのままでいい。この貴重な記録を残してくださいました、「洪水」編集長の池田康さんにお礼を申し上げます。
「トロッタの会の第一回のときに『立つ鳥は』という、伊福部昭先生にささげる追悼の曲をやりましたが、そのリハーサルを終わった後、木部さんと一杯飲んで、そのときに『亂譜』書きます、少しずつスケッチを進めていますという話をして、だけどピアノだけだと物足りないなと言い、木部さんもなにか伴奏つけたらボリューム出るよねと言う。チェロとかコントラバスも面白いけど、打楽器とかもいいんじゃないかと一瞬思った。だけど打楽器だと練習で楽器を持ち込まなきゃいけないとか大変でコストがかかる。冗談半分で、二台ピアノというのも面白いねと僕が言ったんです。まさか二台ピアノの独唱歌曲なんていままで聞いたこともない、そんなものは絶対言わないだろうと思ったら、木部さんが、おう、それやろう、面白いじゃないかと。一台ピアノで書いたら手抜きしたと見なすぞと言うので、じゃあ二台ピアノでということになったんです。書いてみると、ああ面白いなと思うようになってきました」
*
『MOVEMENTムーヴメント~木部与巴仁「亂譜」に依る』
■ 第9回 トロッタの会
2009年9月27日(日)
会場・エレクトーンシティ渋谷
【解説】MOVEMENTとは、「運動」「楽章」「詩の律動的な調子」と云った程の意の語です。此の作品では、7拍子を核とした律動により、詩の趣意を表現したいと考えました。
この度、木部与巴仁氏より、電子オルガンを使用した作品を、と云う依頼をうけ、『声と2台ピアノのためのムーヴメント〜木部与巴仁「亂譜」に依る(2007年作曲)』を、声とピアノ、打楽器、電子オルガンのために編作しました。(田中修一)
【付記】思いがけず『MOVEMENT』が復活することになった。ただし2台ピアノ版ではなく、電子オルガン版として。エレクトーンシティでトロッタを開くという大前提があったので、田中氏も電子オルガンを使ったのだ。録音を改めて聴くと、これはすばらしい曲である。電子オルガンの音色が、世界を格段に大きくしている。生音の楽器で演奏できればなおいいのだろうが、電子オルガンの特性を、田中氏はよく生かしたと思う。編作だから、2台ピアノ版と同じ世界なのだが(詩はもちろん同じ)、別の世界が現われている。楽器によって違う世界が生じるという、当たり前のことを実感させてくれる。二曲の間に、2年と4か月の歳月があり、5回のトロッタがあった。田中氏とは、いろいろな思いの交錯があった。通じるところがあり、通じないところがあった。しかし、その上でつきあう努力をすれば、曲が生まれるということを、私自身、学んだ。仮に、たった今、トロッタが終わり何もかも断ち切られても、曲は残る。知らない時代に、知らないところで、知らない誰かが『MOVEMENT』を演奏するかもしれない。萩原朔太郎も、まさか一世紀近い後に、私たちが、自身の曲をめぐって会話しているなど、思いも寄らなかったであろう。不思議だ。
*
『MOVEMENT No.2 ムーヴメントNo.2 木部与巴仁「亂譜 瓦礫の王」に依る』
MOVEMENT No.2 (poem by Kibe Yohani “RAN-FU, Gwareki no Wau”)for 2Voices, Marimba and Piano
■ 第11回 トロッタの会
2010年3月5日(金)
会場・スタジオ ヴィルトゥオージ
【解説】「No.2」、第二番と名づけられたことで、『MOVEMENT』のシリーズ化が決まった。曲の世界が掘り下げられ、大きくなろうとしている。実のところ意外だったが、作曲家・田中修一氏に、そのような息の長い心の働きがあると知って、彼に対する認識を改めた。僭越だが、すばらしい。トロッタに、第一回から参加し続けているだけのことはある。一番の詩は『亂譜』、二番の詩は『亂譜 瓦礫の王』である。まず、荒涼とした都市の風景を詠み、さらには廃墟で舞う、ひとりの王の姿を詠んだ。力強くも美しい、極限の音楽世界が表現できればよい。(木部与巴仁)
【付記】“瓦礫の王”とは、私は学生時代から温めていた言葉だ。あるテーマを小説か評論にしたいと思っていたが、それができず、詩になった。初めに思っていた形ではものにならず、別の形を得て世に現われる、ということがしばしばあると思う。私の場合、同様の作品に、酒井健吉氏によって作曲された『水の女』がある。田中氏や酒井氏たち、トロッタの作曲家、そして演奏家たちによって、私は自分の思いを形にできた。感謝している。
前作の詩『亂譜』は、瓦礫になった、想像上の新宿を詠んでいる。荒涼とした美しさを表現したいと思った。今回はそこに、ひとりの王を立たせた。王という存在は、現実的には好きではない。支配者だからだ。しかし、支配者の孤独には関心がある。『MOVEMENT』が初演されたのと同じトロッタ3で、私は『大公は死んだ』という詩を発表した。これはトロッタ6において、田中氏の曲『「大公は死んだ」附 ルネサンス・リュートの為の「鳳舞」』になった。またトロッタ12では、ヘンリー八世の曲によった詩唱曲を発表した。大公の詩は、シリーズ化したいと思いながら果たせないでいる。音楽から美しさを想像できるか? 演奏の美しさではなく、視覚的な美を。私は、田中氏の『MOVEMENT』に、美を感じる。美を見ている。それは田中氏にとって本意ではないかもしれない。荒涼とした都市。廃虚としての新宿。そうしたものは、連想に過ぎないだろうから。だが、田中氏には申し訳ないながら、音響によって生じる視覚体験というものがあり、それは特に詩があるからだが、音の力によって実に具体的に、まざまざと見えてくる風景がある。『瓦礫の王』は、特にその相乗効果を意識して書いた。
『MOVEMENT 声と2台ピアノのためのムーヴメント~木部与巴仁「亂譜」に依る』
■ 第3回 トロッタの会
2007年5月27日(日)
会場・タカギクラヴィア 松濤サロン
【解説】MOVEMENTとは、「運動」「楽章」「詩の律動的な調子」と云った程の意の語です。此の作品では、7拍子を核とした律動により、詩の趣意を表現したいと考えました。
また、作詩者の提案をうけて、独唱歌曲の伴奏を2台ピアノとしたのは、危険な冒険であり、些かの不安を禁じ得ないのでした。(田中修一)
【付記】何といっても『MOVEMENT』はここから出発したので、思い出に残る。2台ピアノに対しては、何も2台使わなくてもという批判がある。私の提案なのだが、勘違いであれ、ものの量感を作ろうとする態度を認めたいと、常々思っている。それに応えてくれた田中氏に感謝している。再演できればと思う。--2台ピアノを提案したのは私だとすっかり思いこんでいたが、田中氏の発案であった。「洪水」第1号の、私、田中氏、橘川琢との話し合いで、田中氏が述べている。話し合いの日は、2007年5月28日、まさに『MOVEMENT』初演の翌日であった。田中氏がいうような言い方を私がしたか疑問だが、彼なりの受け止め方なので、私はそのままでいい。この貴重な記録を残してくださいました、「洪水」編集長の池田康さんにお礼を申し上げます。
「トロッタの会の第一回のときに『立つ鳥は』という、伊福部昭先生にささげる追悼の曲をやりましたが、そのリハーサルを終わった後、木部さんと一杯飲んで、そのときに『亂譜』書きます、少しずつスケッチを進めていますという話をして、だけどピアノだけだと物足りないなと言い、木部さんもなにか伴奏つけたらボリューム出るよねと言う。チェロとかコントラバスも面白いけど、打楽器とかもいいんじゃないかと一瞬思った。だけど打楽器だと練習で楽器を持ち込まなきゃいけないとか大変でコストがかかる。冗談半分で、二台ピアノというのも面白いねと僕が言ったんです。まさか二台ピアノの独唱歌曲なんていままで聞いたこともない、そんなものは絶対言わないだろうと思ったら、木部さんが、おう、それやろう、面白いじゃないかと。一台ピアノで書いたら手抜きしたと見なすぞと言うので、じゃあ二台ピアノでということになったんです。書いてみると、ああ面白いなと思うようになってきました」
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『MOVEMENTムーヴメント~木部与巴仁「亂譜」に依る』
■ 第9回 トロッタの会
2009年9月27日(日)
会場・エレクトーンシティ渋谷
【解説】MOVEMENTとは、「運動」「楽章」「詩の律動的な調子」と云った程の意の語です。此の作品では、7拍子を核とした律動により、詩の趣意を表現したいと考えました。
この度、木部与巴仁氏より、電子オルガンを使用した作品を、と云う依頼をうけ、『声と2台ピアノのためのムーヴメント〜木部与巴仁「亂譜」に依る(2007年作曲)』を、声とピアノ、打楽器、電子オルガンのために編作しました。(田中修一)
【付記】思いがけず『MOVEMENT』が復活することになった。ただし2台ピアノ版ではなく、電子オルガン版として。エレクトーンシティでトロッタを開くという大前提があったので、田中氏も電子オルガンを使ったのだ。録音を改めて聴くと、これはすばらしい曲である。電子オルガンの音色が、世界を格段に大きくしている。生音の楽器で演奏できればなおいいのだろうが、電子オルガンの特性を、田中氏はよく生かしたと思う。編作だから、2台ピアノ版と同じ世界なのだが(詩はもちろん同じ)、別の世界が現われている。楽器によって違う世界が生じるという、当たり前のことを実感させてくれる。二曲の間に、2年と4か月の歳月があり、5回のトロッタがあった。田中氏とは、いろいろな思いの交錯があった。通じるところがあり、通じないところがあった。しかし、その上でつきあう努力をすれば、曲が生まれるということを、私自身、学んだ。仮に、たった今、トロッタが終わり何もかも断ち切られても、曲は残る。知らない時代に、知らないところで、知らない誰かが『MOVEMENT』を演奏するかもしれない。萩原朔太郎も、まさか一世紀近い後に、私たちが、自身の曲をめぐって会話しているなど、思いも寄らなかったであろう。不思議だ。
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『MOVEMENT No.2 ムーヴメントNo.2 木部与巴仁「亂譜 瓦礫の王」に依る』
MOVEMENT No.2 (poem by Kibe Yohani “RAN-FU, Gwareki no Wau”)for 2Voices, Marimba and Piano
■ 第11回 トロッタの会
2010年3月5日(金)
会場・スタジオ ヴィルトゥオージ
【解説】「No.2」、第二番と名づけられたことで、『MOVEMENT』のシリーズ化が決まった。曲の世界が掘り下げられ、大きくなろうとしている。実のところ意外だったが、作曲家・田中修一氏に、そのような息の長い心の働きがあると知って、彼に対する認識を改めた。僭越だが、すばらしい。トロッタに、第一回から参加し続けているだけのことはある。一番の詩は『亂譜』、二番の詩は『亂譜 瓦礫の王』である。まず、荒涼とした都市の風景を詠み、さらには廃墟で舞う、ひとりの王の姿を詠んだ。力強くも美しい、極限の音楽世界が表現できればよい。(木部与巴仁)
【付記】“瓦礫の王”とは、私は学生時代から温めていた言葉だ。あるテーマを小説か評論にしたいと思っていたが、それができず、詩になった。初めに思っていた形ではものにならず、別の形を得て世に現われる、ということがしばしばあると思う。私の場合、同様の作品に、酒井健吉氏によって作曲された『水の女』がある。田中氏や酒井氏たち、トロッタの作曲家、そして演奏家たちによって、私は自分の思いを形にできた。感謝している。
前作の詩『亂譜』は、瓦礫になった、想像上の新宿を詠んでいる。荒涼とした美しさを表現したいと思った。今回はそこに、ひとりの王を立たせた。王という存在は、現実的には好きではない。支配者だからだ。しかし、支配者の孤独には関心がある。『MOVEMENT』が初演されたのと同じトロッタ3で、私は『大公は死んだ』という詩を発表した。これはトロッタ6において、田中氏の曲『「大公は死んだ」附 ルネサンス・リュートの為の「鳳舞」』になった。またトロッタ12では、ヘンリー八世の曲によった詩唱曲を発表した。大公の詩は、シリーズ化したいと思いながら果たせないでいる。音楽から美しさを想像できるか? 演奏の美しさではなく、視覚的な美を。私は、田中氏の『MOVEMENT』に、美を感じる。美を見ている。それは田中氏にとって本意ではないかもしれない。荒涼とした都市。廃虚としての新宿。そうしたものは、連想に過ぎないだろうから。だが、田中氏には申し訳ないながら、音響によって生じる視覚体験というものがあり、それは特に詩があるからだが、音の力によって実に具体的に、まざまざと見えてくる風景がある。『瓦礫の王』は、特にその相乗効果を意識して書いた。
トロッタ15全詩解説『MOVEMENT No.6 海猫』(作曲/田中修一).1
田中修一氏の『ムーヴメント6 海猫』について、書く。この曲が、6曲目となる「ムーヴメント」シリーズの最新作だと思うと、どうしても過去を振り返っておく必要にかられる。昨年来、田中氏の作品を整理したり、「ムーヴメント」全曲を収めたDVDを創るなどしたことも、その全体性を考えようとする態度につながっているのだろう。「ムーヴメント」の歩みを、田中氏の作品一覧から抜粋する(酒井健吉氏の表と同じく、クリックすると拡大される)。
誰にとっても同じだが、作曲をする風景、場所というものがある。
私は「ギターの友」の連載原稿のため、田中修一氏の家を訪れた。
書斎に通された。
彼は引っ越しをしたから、二か所を訪ねたのだが、どちらの部屋も似ていた。
大きな窓に面して机がある。
見晴らしがよく、実に整然と片づけられている。
余分なものがひとつもない。
散らかっていて余分なものだらけの私の部屋とはまるで異なる。
うらやましいと思ったが、私が田中氏の部屋に住めば、たちまち散らかってしまうだろうから同じだ。
その感銘を書いた詩が、『樂園』である。
ここに描写した、ある男の部屋の風景は、そのまま田中氏の書斎だ。
「詩の通信V」第10号に掲載した。
田中氏はその詩を使って、『MOVEMENT ムーヴメントNo.5-木部与巴仁「亂譜 樂園」に依る』を書いた。
田中氏の手法によって、南海の島を描いた詩と音楽になったが、もとの詩は、横浜にある彼の書斎を描写している。
このような極端な違いを、私はおもしろいと思っている。
詩はもはや詩人のものではない。
作曲家によって彼自身のもの、聴く人のものになる。
解釈の違いというより、作曲家が自由になるための、詩は力なのだと思う。
誰にとっても同じだが、作曲をする風景、場所というものがある。
私は「ギターの友」の連載原稿のため、田中修一氏の家を訪れた。
書斎に通された。
彼は引っ越しをしたから、二か所を訪ねたのだが、どちらの部屋も似ていた。
大きな窓に面して机がある。
見晴らしがよく、実に整然と片づけられている。
余分なものがひとつもない。
散らかっていて余分なものだらけの私の部屋とはまるで異なる。
うらやましいと思ったが、私が田中氏の部屋に住めば、たちまち散らかってしまうだろうから同じだ。
その感銘を書いた詩が、『樂園』である。
ここに描写した、ある男の部屋の風景は、そのまま田中氏の書斎だ。
「詩の通信V」第10号に掲載した。
田中氏はその詩を使って、『MOVEMENT ムーヴメントNo.5-木部与巴仁「亂譜 樂園」に依る』を書いた。
田中氏の手法によって、南海の島を描いた詩と音楽になったが、もとの詩は、横浜にある彼の書斎を描写している。
このような極端な違いを、私はおもしろいと思っている。
詩はもはや詩人のものではない。
作曲家によって彼自身のもの、聴く人のものになる。
解釈の違いというより、作曲家が自由になるための、詩は力なのだと思う。
2012年2月24日金曜日
トロッタ15全詩解説『美粒子』(作曲/酒井健吉).4
酒井健吉氏の表現ジャンルに、“室内楽劇”がある。酒井氏によると、それは「物語性が強い内容を持ち、詩唱とともに歌唱が非常に重要な作品」である。
2008年8月22日(金)に『海の幸 青木繁に捧ぐ』を長崎で初演した折り、私が書いた文章があるので掲載する。トロッタ15の『美粒子』は室内楽劇ではないようだが、酒井氏の作曲態度を知る手がかりにはなるだろう。(8月22日に配布した文章のうち、作曲一覧に手を加えて最新版とした。8月22日以降の作品も掲載してある)
室内楽劇の歩み 詩作者の視点
木部与巴仁
八篇で構成される詩『海の幸 青木繁に捧ぐ』を完成させたのは、ほぼ一年前である。2007年8月17日(金)に第一篇「放浪 *『大穴牟知命』に寄せて」を、8月24日(金)に最終篇「終 *『女の顔』」を書いた。一日一篇の進行であった。『海の幸』が“室内楽劇”として初演されるのは、詩の完成からほぼ一年を経てのこととなる。
“室内楽劇”。作曲の酒井健吉氏が命名した、音楽の様式である。『海の幸』初演のチラシに、酒井氏の言葉がある。
室内楽劇について 。
「名前だけ見るとただの室内オペラではないかと思われるだろう。しかし通常のオペラと決定的に違う点がある。それは全編に朗読が入っていて非常に重要な役割を担っていることである。(中略)私や詩を書いた木部さんは朗読も音楽の一部、朗読者は楽器と考える。この歌手と朗読、器楽アンサンブルのスタイルは私にとって物語性のあるものを表現するのにとても自然体に作曲ができるものになった」
酒井氏が初めて“室内楽劇”という言葉を用いたのは、2007年7月22日(日)、名古屋市音楽プラザで行なわれた名フィル・サロンコンサート「詩と音楽2007」において、『天の川』を初演した時である。現在に至るまでの、私と酒井氏の共同作業を見よう。大幅な改訂を施さない再演は省略した。
朗読を伴う作品は10曲、歌を伴う作品は5曲になる。
東京を舞台に、作曲家や演奏家と、「トロッタの会」を共同で運営している。“詩と音楽を歌い、奏でる”と銘打つもので、酒井氏の他、これまでに橘川琢、清道洋一、田中修一、松木敏晃、宮﨑文香、Fabrizio FESTAの各作曲家が参加した。そのどなたもが、朗読か歌を伴う曲を創っている。2007年2月25日(日)、第一回演奏会のチラシに記しておいた。
「詩は、歌うものでしょうか? 奏でるものでしょうか? 答えは出ませんが、ただ読むだけのものにはしたくありません。少なくとも黙読には終わらせたくない。声に出して詠むうち、詠み手だけのリズムが生まれ、原初のリズムが生じる。そして楽器とともに詠み、あるいは他の声と重ねることで、ハーモニーもまた生まれる。それは音楽と呼べないのでしょうか、と問いたいのです」
この答えは出ていない。しかし、問う前から出ているともいえる。音楽と呼べるのだ。酒井氏との実践、「トロッタの会」を通じた作曲家たちとの実践が、すでに答えである。演奏会を開いているのだから。その過程で、酒井氏は“室内楽劇”という言葉を発想し、他にも橘川琢氏は“詩歌曲”という言葉を用い、自身の様式とした。さらにいえば、そうした言葉を用いないことが、ある作曲家にとっては答え。様式化するまでもない、ということになる。
厳密にいえば、トロッタの問いに答えは出ているものの、言葉による裏づけ、こうだから詩は音楽になるという他者への説得性は、いまだ持ちえていないと感じる。しかし、それは必要だろうか。私や作曲家、演奏家が考えるものだろうか。時間が回答するに違いない。また、裏づけに時間を費やすくらいなら、私は一つでも多くの曲で詠み、詠(うた)いたい。酒井氏との新たな共同作品として、9月には『水にかえる女』の、演奏を弦楽四重奏にした改訂版。11月には朗読を伴う新曲『庭鳥、飛んだ』。2009年1月には『祈り 鳥になったら』のオーケストラによる改訂版を演奏する。さらに『海の幸』は、2009年の夏、東京での演奏を予定している。
この原稿を書いている間、酒井健吉氏は“室内楽劇”の作曲を行なっている。私もまた、いつかは音楽になるための詩を構想し、書いている。そのための紙上の舞台、「詩の通信III」の、今日は発行日である。これから先、どんな“室内楽劇”が生まれるか。私も知らない私自身の心に、まだ見たことのない形がある。
2008.8.18(月)
2008年8月22日(金)に『海の幸 青木繁に捧ぐ』を長崎で初演した折り、私が書いた文章があるので掲載する。トロッタ15の『美粒子』は室内楽劇ではないようだが、酒井氏の作曲態度を知る手がかりにはなるだろう。(8月22日に配布した文章のうち、作曲一覧に手を加えて最新版とした。8月22日以降の作品も掲載してある)
室内楽劇の歩み 詩作者の視点
木部与巴仁
八篇で構成される詩『海の幸 青木繁に捧ぐ』を完成させたのは、ほぼ一年前である。2007年8月17日(金)に第一篇「放浪 *『大穴牟知命』に寄せて」を、8月24日(金)に最終篇「終 *『女の顔』」を書いた。一日一篇の進行であった。『海の幸』が“室内楽劇”として初演されるのは、詩の完成からほぼ一年を経てのこととなる。
“室内楽劇”。作曲の酒井健吉氏が命名した、音楽の様式である。『海の幸』初演のチラシに、酒井氏の言葉がある。
室内楽劇について 。
「名前だけ見るとただの室内オペラではないかと思われるだろう。しかし通常のオペラと決定的に違う点がある。それは全編に朗読が入っていて非常に重要な役割を担っていることである。(中略)私や詩を書いた木部さんは朗読も音楽の一部、朗読者は楽器と考える。この歌手と朗読、器楽アンサンブルのスタイルは私にとって物語性のあるものを表現するのにとても自然体に作曲ができるものになった」
酒井氏が初めて“室内楽劇”という言葉を用いたのは、2007年7月22日(日)、名古屋市音楽プラザで行なわれた名フィル・サロンコンサート「詩と音楽2007」において、『天の川』を初演した時である。現在に至るまでの、私と酒井氏の共同作業を見よう。大幅な改訂を施さない再演は省略した。
朗読を伴う作品は10曲、歌を伴う作品は5曲になる。
東京を舞台に、作曲家や演奏家と、「トロッタの会」を共同で運営している。“詩と音楽を歌い、奏でる”と銘打つもので、酒井氏の他、これまでに橘川琢、清道洋一、田中修一、松木敏晃、宮﨑文香、Fabrizio FESTAの各作曲家が参加した。そのどなたもが、朗読か歌を伴う曲を創っている。2007年2月25日(日)、第一回演奏会のチラシに記しておいた。
「詩は、歌うものでしょうか? 奏でるものでしょうか? 答えは出ませんが、ただ読むだけのものにはしたくありません。少なくとも黙読には終わらせたくない。声に出して詠むうち、詠み手だけのリズムが生まれ、原初のリズムが生じる。そして楽器とともに詠み、あるいは他の声と重ねることで、ハーモニーもまた生まれる。それは音楽と呼べないのでしょうか、と問いたいのです」
この答えは出ていない。しかし、問う前から出ているともいえる。音楽と呼べるのだ。酒井氏との実践、「トロッタの会」を通じた作曲家たちとの実践が、すでに答えである。演奏会を開いているのだから。その過程で、酒井氏は“室内楽劇”という言葉を発想し、他にも橘川琢氏は“詩歌曲”という言葉を用い、自身の様式とした。さらにいえば、そうした言葉を用いないことが、ある作曲家にとっては答え。様式化するまでもない、ということになる。
厳密にいえば、トロッタの問いに答えは出ているものの、言葉による裏づけ、こうだから詩は音楽になるという他者への説得性は、いまだ持ちえていないと感じる。しかし、それは必要だろうか。私や作曲家、演奏家が考えるものだろうか。時間が回答するに違いない。また、裏づけに時間を費やすくらいなら、私は一つでも多くの曲で詠み、詠(うた)いたい。酒井氏との新たな共同作品として、9月には『水にかえる女』の、演奏を弦楽四重奏にした改訂版。11月には朗読を伴う新曲『庭鳥、飛んだ』。2009年1月には『祈り 鳥になったら』のオーケストラによる改訂版を演奏する。さらに『海の幸』は、2009年の夏、東京での演奏を予定している。
この原稿を書いている間、酒井健吉氏は“室内楽劇”の作曲を行なっている。私もまた、いつかは音楽になるための詩を構想し、書いている。そのための紙上の舞台、「詩の通信III」の、今日は発行日である。これから先、どんな“室内楽劇”が生まれるか。私も知らない私自身の心に、まだ見たことのない形がある。
2008.8.18(月)
トロッタ日記日記120213-16(*前回投稿の日記に先立つ)
2月13日(月)、(*kibeyohaniのツイッターと重複するが音楽関係にしぼって記す)ギタリスト深沢七郎との出会い。代々木上原の古書店ロスパペロテスで、深沢七郎の『深沢ギター教室』を初めて手にした。アリステア・マクラウドの本を買いに行ったがそれはなく、代わりが深沢七郎(マクラウドの本3冊はamazonで古書を注文した)。深沢七郎がギターを弾いて日劇ミュージックホールに出ていたことは知っていたが、このようなクラシックギターの教本を著すほどのギタリストとはまったく知らなかった。昨年は山梨県立文学館で深沢七郎の企画展が開催され、何度もチラシを手にしていたのに、自分には関係ないと思い、行かなかった(深沢七郎について知っていたら、間違いなく文学館に行っただろう)。『深沢ギター教室』は2100円だったので、この日は買わず。しかし、オークションや古書店のネット販売を見ると、軽く4000円以上するもの。2100円は安いとわかり、買うしかないと思う。
萩原朔太郎の“詩と音楽”演奏会準備のため、前橋文学館に行かなければと思う。演奏会の準備というより、まだ考えをあたためる過程である。早ければ明日14日(火)に行けると思うが、ほとんど準備していないので、それは取りやめ。前橋に行くなら、市中をまわりたい。朔太郎の詩が生まれた土地を肌で感じたい。深沢七郎同様、朔太郎もギタリストであった。マンドリンと一緒に弾いた。演奏会プログラムには「ギター 萩原氏」などと出ている。ギターやマンドリンを弾きながら詩を詠むこともあったかもしれない。室生犀星の『野火』は、朔太郎自身が旋律化しているほどだ。自作の詩を歌などにした記録はないと思うが、遠く時間が経って、田中修一氏が作曲しているので、朔太郎の“詩と音楽”は、彼の手は直接加わっていないが、間接的にせよ、絶えずに継続されているテーマだといえる。継続されているということを、演奏会で打ち出したい。
2月14日(火)、久しぶりとなる花の新作詩『花首』を完成させ、上野雄次氏と橘川琢氏に送信。曲になればいいが、ならなくてもよい(約束はしていないという意味)。作曲されればもちろんよい。詩の自立性を考えれば、旋律やリズムのために、言葉をゆがめることはない。ただ、共同作業が前提であるなら、あえて言葉への制限を引き受けようと思う。旋律に乗せるのが苦しい言葉に固執しようとは思わない。作曲家に苦しみを引き受けさせようとは思わない。花の詩は、次々に書いていきたい。しかし、無理な状況だ。新鮮さが失われているのかと思っている。その反省もあって、何か書きたいと思ったのだ。上野氏が関係するふたつのイベント、花のバトルと花会を経て、詩になった。上野氏以前に意識していた花道家、中川幸夫のこと、花だけでなく美術作品から受ける詩への影響など、考えることは無数にある(船越桂、有元利夫の作品も、私に詩が書けるかもしれないという気持ちを強く起こさせる)。
結局、この日は前橋に行かず、部屋の整理を始める。明日のレッスンの準備すらしていない。ロルカについても勉強しなければ。“Zorongo”の詩はロルカが書いたというが、詩集に載っているのか? 載っているという話だが、全集をめくっても見つからない。ロルカ伴奏によるアルヘンティーナの歌唱の、早口言葉のように速いこと! これを私はどう歌う? テーマだけ増えて、ひとつひとつが深まらない焦り。午前2時過ぎまで起きていたが、何も進まなかった。
2月15日(水)、練習不足のまま、ロルカの“Zorongo”をレッスンしていただく。全然駄目だと思う。このような歌は、ばかにする意味ではなくできるはずもないが、ギターを弾きながらさっと歌いたいものだ。それでこそ味わいが生まれる歌であるはず(考え違いかもしれない。練習はしているが、すればするほど、本来の形から離れていく気がする。しかし、民謡の歌い手も、世界のどこであれ練習しているわけで、その上で他人に聴いてもらっているので、練習が不要のはずはない。練習の仕方が違っているのか? 私の心構えが違っているのか?)。
『深沢ギター教室』がどうしても欲しくなり、古書店ロスパペロテスに予約。気がつけば、ロスパペロテスはロルカの朗唱者、天本英世氏が連絡場所にしていた喫茶店があるビルに入っていた。この店で何度か、天本氏と打ち合わせさせていただいた。形にできなかったが。それは無念だ。無念さを、自分で晴らそうとする。それがトロッタの根にある。ロスパペロテスの玄関まで50cmと接近した瞬間、ギタリストの萩野谷英成氏からメールが届く。文面は、『深沢ギター教室』を代わりに買ってほしい、というもの。彼が注目するのは当然だが、このタイミングでメールが届いたことに驚く。思いが一致したわけで、このような偶然、必然は逃したくない。
これに先立ち、山梨県立文学館に電話して、展覧会「深沢七郎の文学 『楢山節考』ギターの調べとともに」の図録と関連資料1点を注文。料金も、即刻支払った。気分が高揚し、田中修一氏の歌曲『鳥ならで』を弾く。田中氏が、私にこの曲を与えてくれたことを奇跡のように思う。いや、私の詩による詩唱曲、歌曲は、すべて奇跡のようなもので、作曲の皆さんには感謝してもしきれないのだが(同時に、詩を書いた者として背負うべき荷であると思っている。負うことを引き受けるべき荷だ)、『鳥ならで』はギター曲であるだけにありがたいと思う。難しいと弾けないのだが、『鳥ならで』なら何とか、いや、この曲すら駄目なのだ。『鳥ならで』が弾けるようになれば、次は朔太郎の詩による『遺傳』。さらには朔太郎の『ぎたる弾くひと』に触発されて書いた、ギタリスト石井康史氏の追悼曲『ギター弾く人』も。道は遠いが、どこかで加速させ、次々に弾いていきたい。西荻窪・奇聞屋の朗読会が行われた日だが、忘れて行けなかった。たるんでいると思う。私にとって、大事な拠点ではないか。だが、たった今あるすべてをこなしきれないのも事実。言い訳だろう。前橋文学館学芸員の小林氏とメールで連絡を取り合い、明日16日(木)に、おそらく、行くことにする。深夜になっても態度決まらず。しかし、準備不足でも行ける時に行くしかない。
2月16日(木)、8時32分、阿佐ケ谷から中央線で上野をめざす。9時37分、上野発高崎行きに乗車。高崎には11時16分に着く予定。10時05分、大宮発。友人のいる上尾を経て、10時22分鴻巣着。熊谷、岡部、本庄を経て、籠原で車輛切り離しのため乗り換え。榛名山を遠望する。竹下夢二で親しんだ山だが、遠くてもきちんと見るのは初めてかもしれない。11時26分高崎発、両毛線伊勢崎行きに乗り換えて前橋へ。46分前橋着。シャトルバスに乗って中央前橋駅に行く。広瀬川沿いを歩いて文学館へ。小林氏の導きを受け、展示室、ホールを見学。閲覧室にて、朔太郎の自筆譜、プログラム、メモ、ノートなど、音楽資料をすべて撮影。15時半ごろ終了。3時間半の作業だったが、空腹も手伝ってふらふらになる。市中をめぐるのは次の機会にしよう。車がなく、バスは頻繁になく、タクシーをやとうお金もない(いっそ、一泊した方が安いかもしれない)。道がわかったので、徒歩で前橋駅まで戻る。16時04分発の電車で高崎に戻り、21分発の上野行きに乗った。今度は上野回りでなく、赤羽で乗り換えて新宿に向かう。16時54分に籠原発。日が長くなって、まだ外は明るい。
萩原朔太郎の“詩と音楽”演奏会準備のため、前橋文学館に行かなければと思う。演奏会の準備というより、まだ考えをあたためる過程である。早ければ明日14日(火)に行けると思うが、ほとんど準備していないので、それは取りやめ。前橋に行くなら、市中をまわりたい。朔太郎の詩が生まれた土地を肌で感じたい。深沢七郎同様、朔太郎もギタリストであった。マンドリンと一緒に弾いた。演奏会プログラムには「ギター 萩原氏」などと出ている。ギターやマンドリンを弾きながら詩を詠むこともあったかもしれない。室生犀星の『野火』は、朔太郎自身が旋律化しているほどだ。自作の詩を歌などにした記録はないと思うが、遠く時間が経って、田中修一氏が作曲しているので、朔太郎の“詩と音楽”は、彼の手は直接加わっていないが、間接的にせよ、絶えずに継続されているテーマだといえる。継続されているということを、演奏会で打ち出したい。
2月14日(火)、久しぶりとなる花の新作詩『花首』を完成させ、上野雄次氏と橘川琢氏に送信。曲になればいいが、ならなくてもよい(約束はしていないという意味)。作曲されればもちろんよい。詩の自立性を考えれば、旋律やリズムのために、言葉をゆがめることはない。ただ、共同作業が前提であるなら、あえて言葉への制限を引き受けようと思う。旋律に乗せるのが苦しい言葉に固執しようとは思わない。作曲家に苦しみを引き受けさせようとは思わない。花の詩は、次々に書いていきたい。しかし、無理な状況だ。新鮮さが失われているのかと思っている。その反省もあって、何か書きたいと思ったのだ。上野氏が関係するふたつのイベント、花のバトルと花会を経て、詩になった。上野氏以前に意識していた花道家、中川幸夫のこと、花だけでなく美術作品から受ける詩への影響など、考えることは無数にある(船越桂、有元利夫の作品も、私に詩が書けるかもしれないという気持ちを強く起こさせる)。
結局、この日は前橋に行かず、部屋の整理を始める。明日のレッスンの準備すらしていない。ロルカについても勉強しなければ。“Zorongo”の詩はロルカが書いたというが、詩集に載っているのか? 載っているという話だが、全集をめくっても見つからない。ロルカ伴奏によるアルヘンティーナの歌唱の、早口言葉のように速いこと! これを私はどう歌う? テーマだけ増えて、ひとつひとつが深まらない焦り。午前2時過ぎまで起きていたが、何も進まなかった。
2月15日(水)、練習不足のまま、ロルカの“Zorongo”をレッスンしていただく。全然駄目だと思う。このような歌は、ばかにする意味ではなくできるはずもないが、ギターを弾きながらさっと歌いたいものだ。それでこそ味わいが生まれる歌であるはず(考え違いかもしれない。練習はしているが、すればするほど、本来の形から離れていく気がする。しかし、民謡の歌い手も、世界のどこであれ練習しているわけで、その上で他人に聴いてもらっているので、練習が不要のはずはない。練習の仕方が違っているのか? 私の心構えが違っているのか?)。
『深沢ギター教室』がどうしても欲しくなり、古書店ロスパペロテスに予約。気がつけば、ロスパペロテスはロルカの朗唱者、天本英世氏が連絡場所にしていた喫茶店があるビルに入っていた。この店で何度か、天本氏と打ち合わせさせていただいた。形にできなかったが。それは無念だ。無念さを、自分で晴らそうとする。それがトロッタの根にある。ロスパペロテスの玄関まで50cmと接近した瞬間、ギタリストの萩野谷英成氏からメールが届く。文面は、『深沢ギター教室』を代わりに買ってほしい、というもの。彼が注目するのは当然だが、このタイミングでメールが届いたことに驚く。思いが一致したわけで、このような偶然、必然は逃したくない。
これに先立ち、山梨県立文学館に電話して、展覧会「深沢七郎の文学 『楢山節考』ギターの調べとともに」の図録と関連資料1点を注文。料金も、即刻支払った。気分が高揚し、田中修一氏の歌曲『鳥ならで』を弾く。田中氏が、私にこの曲を与えてくれたことを奇跡のように思う。いや、私の詩による詩唱曲、歌曲は、すべて奇跡のようなもので、作曲の皆さんには感謝してもしきれないのだが(同時に、詩を書いた者として背負うべき荷であると思っている。負うことを引き受けるべき荷だ)、『鳥ならで』はギター曲であるだけにありがたいと思う。難しいと弾けないのだが、『鳥ならで』なら何とか、いや、この曲すら駄目なのだ。『鳥ならで』が弾けるようになれば、次は朔太郎の詩による『遺傳』。さらには朔太郎の『ぎたる弾くひと』に触発されて書いた、ギタリスト石井康史氏の追悼曲『ギター弾く人』も。道は遠いが、どこかで加速させ、次々に弾いていきたい。西荻窪・奇聞屋の朗読会が行われた日だが、忘れて行けなかった。たるんでいると思う。私にとって、大事な拠点ではないか。だが、たった今あるすべてをこなしきれないのも事実。言い訳だろう。前橋文学館学芸員の小林氏とメールで連絡を取り合い、明日16日(木)に、おそらく、行くことにする。深夜になっても態度決まらず。しかし、準備不足でも行ける時に行くしかない。
2月16日(木)、8時32分、阿佐ケ谷から中央線で上野をめざす。9時37分、上野発高崎行きに乗車。高崎には11時16分に着く予定。10時05分、大宮発。友人のいる上尾を経て、10時22分鴻巣着。熊谷、岡部、本庄を経て、籠原で車輛切り離しのため乗り換え。榛名山を遠望する。竹下夢二で親しんだ山だが、遠くてもきちんと見るのは初めてかもしれない。11時26分高崎発、両毛線伊勢崎行きに乗り換えて前橋へ。46分前橋着。シャトルバスに乗って中央前橋駅に行く。広瀬川沿いを歩いて文学館へ。小林氏の導きを受け、展示室、ホールを見学。閲覧室にて、朔太郎の自筆譜、プログラム、メモ、ノートなど、音楽資料をすべて撮影。15時半ごろ終了。3時間半の作業だったが、空腹も手伝ってふらふらになる。市中をめぐるのは次の機会にしよう。車がなく、バスは頻繁になく、タクシーをやとうお金もない(いっそ、一泊した方が安いかもしれない)。道がわかったので、徒歩で前橋駅まで戻る。16時04分発の電車で高崎に戻り、21分発の上野行きに乗った。今度は上野回りでなく、赤羽で乗り換えて新宿に向かう。16時54分に籠原発。日が長くなって、まだ外は明るい。
トロッタ15全詩解説『美粒子』(作曲/酒井健吉).3
酒井健吉氏との、『美粒子』をめぐる架空の対話。
【木部】 私が『美粒子』を発行したのは、2006年の10月です。当時の電子メールを確認したら、10月28日に印刷所から手元に送られて来ていました。写真家で、映像集団ゴールデンシットの一員だった木村恵多さんの写真4点を見ることで、詩の気持ちをかきたてて行きました。木村さんは、『新宿に安土城が建つ』を一緒に公演した仲間です。私が日本工学院専門学校で教えていた時の学生だったのですが、卒業したら、古い関係はもう捨てて、表現者同志で何ができるかを考えました。先日、『美粒子』を書いていたころのメモが出てきたのです。木村さんの写真をカラーコピーし、それに白紙を貼り足して、詩の言葉をいっぱいに書いていました。その言葉を削って、最終的な形にしたということを思い出しました。
【酒井】 2006年というと、木部さんの詩による『トロッタで見た夢』は、前の年の2005年に、もう書きあげて8月に初演していました。続いて、2006年の2月には、やはり木部さんの詩で『夜が吊るした命』を初演。7月には『兎が月にいたころ』と『ひよどりが見たもの』を初演しています。そうした流れの中で、秋に送っていただいた『美粒子』も、曲にしたいと思っていましたね。トロッタが始まるのは2007年2月です。1月には、やはり木部さんの詩で『雪迎え/蜘蛛』を初演しています。“詩と音楽”の活動が始まろうとするころの詩なんですね。
【木部】 詩を書いてから、7年経って、トロッタ15で曲になるわけです。この詩は、さっきいったように、写真を見て書いたもので、私の中に何かがすでにあってできたものではありません。視覚的に反応して生まれた、純粋な言葉といえるでしょう。不純な言葉とは何かというと、先にいいたいことがあって、それを説明する道具になってしまった言葉です。言葉には説明の役目も大きいので、否定はしませんが、やはり純粋な言葉こそ、拙くても美しいといえましょう。存在の仕方が美しいと思います。伊福部昭先生がよくおっしゃっていた言葉に純音楽というものがあって、じゃあ不純な音楽とは? とよく質問して、いまだにはっきりした答えは出てないと思いますが、それが自分のことだと、純粋な言葉などといってしまいます。でも、そうとしかいえないと思います
【酒井】 『美粒子』がどのような作品になるか、作曲者の僕にも最終的なことはわかりません。できるだけ早く書きたいと思いますが。今は、次のような点に注意して作曲をしているところです。まず、木部さんによる詩唱パートがあり、独自の相対的記譜法によって、曲全体に変化を与えてゆくものとします。そして詩唱には、母音唱法による歌唱があります。
【木部】 私は歌うわけですか!?
【酒井】 歌ってください。『天の川』でも、かささぎの歌を歌ったじゃありませんか。
【木部】 努力しましょう。
【酒井】 器楽パートについては、まずオーボエには独奏楽器としての役割を持たせます。オーボエが、ヴァイオリン2挺、ヴィオラ、チェロ、コントラバスとピアノによるピアノ六重奏と協奏し、これを軸にしながら詩唱がからんでゆくことで、ふたつのソロパートを持つ、ドッペルコンチェルトとしての性格を明らかにしてゆくのです。
【木部】 オーボエは、酒井さんが長崎から呼んでくださる、西川千穂さんですね。長崎には懐かしさがあります。それこそ“詩と音楽”の初期にはよく行きました。酒井さんと同じく宮﨑文香さんも長崎で、トロッタは長崎に縁が深いと思っています。もう一方で縁が深いのは、北海道ですが。
【酒井】 西川さんのことは楽しみにしていてください。上手なオーボエ奏者ですよ。作曲者の心構えとしては、『美粒子』を詩唱パートのある純音楽として作っています。木部さんが先ほど、詩の『美粒子』は純粋な言葉として書いたとおっしゃいましたが……。
【木部】 誤解を生むかもしれませんが、純粋じゃない詩は、ありえないでしょうね。
【酒井】 僕の曲も、純粋な音楽です。決して、何かを説明するためにあるのではありません。
【木部】 『天の川』のような曲だと物語がありますから、それを説明するための詩、言葉という側面もあるのですが、『美粒子』は視覚性だけで物語がありませんから、純粋性は高いでしょうね。本当に、説明のための言葉は嫌です。目的することが説明になってしまいます。詩に中身など、なくていいと思います。言葉だから意味はあるのですが、意味からも自由になった言葉が並んでいればいい。言葉が意味をなくした時、生まれてくる意味は、読み手や聴き手という、受け手側が自由に抱くものになるでしょうね。それこそ美粒子のような言葉が、生まれて消えればいいんじゃないかと思います。
【酒井】 僕が今いえることは、こんなところですね。どんな形になるか、僕自身が楽しみですよ。
【木部】 私が『美粒子』を発行したのは、2006年の10月です。当時の電子メールを確認したら、10月28日に印刷所から手元に送られて来ていました。写真家で、映像集団ゴールデンシットの一員だった木村恵多さんの写真4点を見ることで、詩の気持ちをかきたてて行きました。木村さんは、『新宿に安土城が建つ』を一緒に公演した仲間です。私が日本工学院専門学校で教えていた時の学生だったのですが、卒業したら、古い関係はもう捨てて、表現者同志で何ができるかを考えました。先日、『美粒子』を書いていたころのメモが出てきたのです。木村さんの写真をカラーコピーし、それに白紙を貼り足して、詩の言葉をいっぱいに書いていました。その言葉を削って、最終的な形にしたということを思い出しました。
【酒井】 2006年というと、木部さんの詩による『トロッタで見た夢』は、前の年の2005年に、もう書きあげて8月に初演していました。続いて、2006年の2月には、やはり木部さんの詩で『夜が吊るした命』を初演。7月には『兎が月にいたころ』と『ひよどりが見たもの』を初演しています。そうした流れの中で、秋に送っていただいた『美粒子』も、曲にしたいと思っていましたね。トロッタが始まるのは2007年2月です。1月には、やはり木部さんの詩で『雪迎え/蜘蛛』を初演しています。“詩と音楽”の活動が始まろうとするころの詩なんですね。
【木部】 詩を書いてから、7年経って、トロッタ15で曲になるわけです。この詩は、さっきいったように、写真を見て書いたもので、私の中に何かがすでにあってできたものではありません。視覚的に反応して生まれた、純粋な言葉といえるでしょう。不純な言葉とは何かというと、先にいいたいことがあって、それを説明する道具になってしまった言葉です。言葉には説明の役目も大きいので、否定はしませんが、やはり純粋な言葉こそ、拙くても美しいといえましょう。存在の仕方が美しいと思います。伊福部昭先生がよくおっしゃっていた言葉に純音楽というものがあって、じゃあ不純な音楽とは? とよく質問して、いまだにはっきりした答えは出てないと思いますが、それが自分のことだと、純粋な言葉などといってしまいます。でも、そうとしかいえないと思います
【酒井】 『美粒子』がどのような作品になるか、作曲者の僕にも最終的なことはわかりません。できるだけ早く書きたいと思いますが。今は、次のような点に注意して作曲をしているところです。まず、木部さんによる詩唱パートがあり、独自の相対的記譜法によって、曲全体に変化を与えてゆくものとします。そして詩唱には、母音唱法による歌唱があります。
【木部】 私は歌うわけですか!?
【酒井】 歌ってください。『天の川』でも、かささぎの歌を歌ったじゃありませんか。
【木部】 努力しましょう。
【酒井】 器楽パートについては、まずオーボエには独奏楽器としての役割を持たせます。オーボエが、ヴァイオリン2挺、ヴィオラ、チェロ、コントラバスとピアノによるピアノ六重奏と協奏し、これを軸にしながら詩唱がからんでゆくことで、ふたつのソロパートを持つ、ドッペルコンチェルトとしての性格を明らかにしてゆくのです。
【木部】 オーボエは、酒井さんが長崎から呼んでくださる、西川千穂さんですね。長崎には懐かしさがあります。それこそ“詩と音楽”の初期にはよく行きました。酒井さんと同じく宮﨑文香さんも長崎で、トロッタは長崎に縁が深いと思っています。もう一方で縁が深いのは、北海道ですが。
【酒井】 西川さんのことは楽しみにしていてください。上手なオーボエ奏者ですよ。作曲者の心構えとしては、『美粒子』を詩唱パートのある純音楽として作っています。木部さんが先ほど、詩の『美粒子』は純粋な言葉として書いたとおっしゃいましたが……。
【木部】 誤解を生むかもしれませんが、純粋じゃない詩は、ありえないでしょうね。
【酒井】 僕の曲も、純粋な音楽です。決して、何かを説明するためにあるのではありません。
【木部】 『天の川』のような曲だと物語がありますから、それを説明するための詩、言葉という側面もあるのですが、『美粒子』は視覚性だけで物語がありませんから、純粋性は高いでしょうね。本当に、説明のための言葉は嫌です。目的することが説明になってしまいます。詩に中身など、なくていいと思います。言葉だから意味はあるのですが、意味からも自由になった言葉が並んでいればいい。言葉が意味をなくした時、生まれてくる意味は、読み手や聴き手という、受け手側が自由に抱くものになるでしょうね。それこそ美粒子のような言葉が、生まれて消えればいいんじゃないかと思います。
【酒井】 僕が今いえることは、こんなところですね。どんな形になるか、僕自身が楽しみですよ。
トロッタ日記120214-23
2月14日(火)、橘川琢氏と上野雄次氏に花の詩『花首』を書いて送った。
2月15日(水)、歌のレッスン。酒井健吉さんが『美粒子』の作曲方針を送ってくれる。前橋文学館学芸員の小林氏に、氏が教えてくれた日程にもとづき、明日の訪問は無理か尋ねる。明日でもさしつかえなし。
2月16日(木)、萩原朔太郎の“詩と音楽”を求めて前橋に行く。トロッタから派生する、どんな演奏会が開けるか。朔太郎の“詩と音楽”を、(トロッタをよりどころにする)私たちとして、どこまで追究できるか、“詩と音楽”の実践の場にできるか。学芸員の方との打ち合わせ、資料の撮影はしたが、前橋市内の実地調査はできなかった。慣れない遠出で昂奮してしまい、眠れない。無理に寝た。トロッタ15には無縁だが、朔太郎を知ることは、必ずトロッタに生きる。彼は“詩と音楽”の先達だ。
2月17日(金)、お金の支払いが滞っているという連絡がある。愛媛県に出張中の清道洋一氏から、『革命幻想歌2』の稽古をしたいという連絡がある。トロッタ15ご出演の松本満紀子さんから、グループえんのチラシ作りについて相談の連絡がある。それらすべてがトロッタに反映する。日本音楽舞踊会議演奏会のため、清道洋一氏作曲『革命幻想歌2』の準備を始める。遅い?(この日に清道氏から稽古の申し入れがあったのはシンクロ)横滑ナナさんの踊りを観に横浜へ行った。思うこと多し。舞踏に接し続けた20代前半の日々が、今の土台にある。
2月18日(土)、日本音楽舞踊会議演奏会のため、『革命幻想歌2』の稽古を、清道洋一氏、堀江麗奈さんと秋葉原で行う。久しぶりの、芝居の動きだ。早朝に清道洋一氏からメールがあり、10時に秋葉原駅改札口に集合して、『革命幻想歌2』の稽古をしたいという申し入れ。望むところである。ソプラノ大久保雅代さん、ピアノ徳田絵里子さん。トロッタ15に出演する二人の演奏会が、雑司が谷音楽堂で行われた。トロッタの会場として、何度も検討した会場である。今のトロッタはスコットホールで行うが、検討したことも歴史にあってのスコットホールなのだ。つまり、ことの大小を問わず、行った一つ一つが礎となって、トロッタを形成しているということ。何かをすればもちろん、何もしなければ、それがそのままトロッタに反映される。本当は日常のすべてをトロッタに使いたいと思うが、それは不可能。そこに問題がある。清道洋一氏が『革命幻想歌2』の稽古を終えていったこと。トロッタの練習も、これくらい(前から? あるいは細かく? 両方だろう)したい、と。その通りである。間際になっての練習が多すぎる。原因はいろいろだが、日常の行い一つ一つを振り返れば反省できる。トロッタ15についても、本番はまだ先だが、準備、練習ということでは、もう取り返せない遅れが出ていると思う。目に見えなくても。逆に、例えば萩原朔太郎の“詩と音楽”のため前橋に行ったことが、関係なさそうでもトロッタに生きる、というようなことはある筈。山梨県立文学館から深沢七郎展の図録など届く。ギタリストとしての深沢七郎を知ること。これもトロッタに通じる筈。
2月19日(日)、昨日の『革命幻想歌2』の稽古で、喉をいためた。声の出し方がまずいのだ。喉をいためるように出してしまっている。風邪に注意。台詞を覚えなければ。覚えて心と身体から発声し、動きを伴わせれば、喉をいためないと思う。何もできない一日。特に「詩の通信VI」2号分の発行が滞っている。明日は月曜日だが、出せるか? 駄目なら3号分が停滞する。詩はできているというのに。
2月20日(月)土曜日の、『革命幻想歌2』の稽古でいためた喉が少しよくなっている。よくなってほしい。誰のせいでもない。私がいけない。言葉が身体に入っていないのに、大きな声をはりあげたから。歌と芝居の声の出し方は違うと自覚しなければ。誰がしても、同じではないと思う。トロッタの表現についてもいえること。私は歌い、詩唱している。どちらも、私の表現としては詩唱だが、逃げるつもりはない。歌として、まずいと、評価してほしい。かつて、田中修一氏の『遺傳』を歌った時、歌の後の朗読はよい、と書かれた。歌はまずいということだ。
2月21日(火)ほとんど何もできない日。花粉の影響もあって集中できない。部屋を少しだけ整理したら、トロッタ15で初演する、酒井健吉さん作曲『美粒子』の詩を書いていたころのメモが出てきた。木村恵多さんの写真4点を原寸でカラーコピーし、周囲に詩をびっしりと書いていた。酒井健吉さんに、『美粒子』の作曲メモを送ってほしい、原稿にして紹介するからといい、送ってもらったのに肝心の原稿を書いていない。前橋に行くなどするうち、気持ちがばらばらになってしまった。申し訳ない。『美粒子』のメモが出てきたので、これを契機に書こう。トロッタのことではないが、田中修一さんに、山梨県立文学館から届いた深沢七郎の資料をコピーして郵送。深沢七郎について考え、彼が尊敬した作曲家・小栗孝之について考えるなどするうち、ギターを弾きたい気持ちが強まり、田中氏が私の詩をもとに書いてくれた『鳥ならで』を弾いて歌い続ける(下手に)。音はまずいが、時にぞくっとする瞬間がある。曲がいいから。多少ともうまく弾けるようになれば、もっとぞくっとするであろう。これで聴く人をぞくっとさせられればよい。今は、ぞっとさせる段階。できないことが多すぎる。
2月22日(水)ファゴット奏者のTさんと東京音大で会う。出演を引き受けてくださる(新メンバーの名前は、すべて確定するまで匿名とする)。コントラバスの丹野敏広さんと引き合わせる。民族音楽研究所の甲田潤さんとも。新しい方々の演奏の場が広がるなら、私にとっても、新しいメンバーと出会うことで、自分の可能性が広がるのだと思う。次回に出られない方々とも、いつかまた共演したい。生きている限り、共演の機会はやって来るはず。トロッタでなくてもいい。例えば計画中の、萩原朔太郎の“詩と音楽”演奏会でもいい。
2月23日(木)ヴィオラ奏者のHさんと会う相談。これまでヴィオラを弾いてくれていた仁科拓也さんが、次回の出演が無理となったので新たな方を迎える。昨日はファゴットのTさんと会った。いつまでも同じメンバーとはできない、それはまったく好まないのだが。変化を受け入れよう。
2月15日(水)、歌のレッスン。酒井健吉さんが『美粒子』の作曲方針を送ってくれる。前橋文学館学芸員の小林氏に、氏が教えてくれた日程にもとづき、明日の訪問は無理か尋ねる。明日でもさしつかえなし。
2月16日(木)、萩原朔太郎の“詩と音楽”を求めて前橋に行く。トロッタから派生する、どんな演奏会が開けるか。朔太郎の“詩と音楽”を、(トロッタをよりどころにする)私たちとして、どこまで追究できるか、“詩と音楽”の実践の場にできるか。学芸員の方との打ち合わせ、資料の撮影はしたが、前橋市内の実地調査はできなかった。慣れない遠出で昂奮してしまい、眠れない。無理に寝た。トロッタ15には無縁だが、朔太郎を知ることは、必ずトロッタに生きる。彼は“詩と音楽”の先達だ。
2月17日(金)、お金の支払いが滞っているという連絡がある。愛媛県に出張中の清道洋一氏から、『革命幻想歌2』の稽古をしたいという連絡がある。トロッタ15ご出演の松本満紀子さんから、グループえんのチラシ作りについて相談の連絡がある。それらすべてがトロッタに反映する。日本音楽舞踊会議演奏会のため、清道洋一氏作曲『革命幻想歌2』の準備を始める。遅い?(この日に清道氏から稽古の申し入れがあったのはシンクロ)横滑ナナさんの踊りを観に横浜へ行った。思うこと多し。舞踏に接し続けた20代前半の日々が、今の土台にある。
2月18日(土)、日本音楽舞踊会議演奏会のため、『革命幻想歌2』の稽古を、清道洋一氏、堀江麗奈さんと秋葉原で行う。久しぶりの、芝居の動きだ。早朝に清道洋一氏からメールがあり、10時に秋葉原駅改札口に集合して、『革命幻想歌2』の稽古をしたいという申し入れ。望むところである。ソプラノ大久保雅代さん、ピアノ徳田絵里子さん。トロッタ15に出演する二人の演奏会が、雑司が谷音楽堂で行われた。トロッタの会場として、何度も検討した会場である。今のトロッタはスコットホールで行うが、検討したことも歴史にあってのスコットホールなのだ。つまり、ことの大小を問わず、行った一つ一つが礎となって、トロッタを形成しているということ。何かをすればもちろん、何もしなければ、それがそのままトロッタに反映される。本当は日常のすべてをトロッタに使いたいと思うが、それは不可能。そこに問題がある。清道洋一氏が『革命幻想歌2』の稽古を終えていったこと。トロッタの練習も、これくらい(前から? あるいは細かく? 両方だろう)したい、と。その通りである。間際になっての練習が多すぎる。原因はいろいろだが、日常の行い一つ一つを振り返れば反省できる。トロッタ15についても、本番はまだ先だが、準備、練習ということでは、もう取り返せない遅れが出ていると思う。目に見えなくても。逆に、例えば萩原朔太郎の“詩と音楽”のため前橋に行ったことが、関係なさそうでもトロッタに生きる、というようなことはある筈。山梨県立文学館から深沢七郎展の図録など届く。ギタリストとしての深沢七郎を知ること。これもトロッタに通じる筈。
2月19日(日)、昨日の『革命幻想歌2』の稽古で、喉をいためた。声の出し方がまずいのだ。喉をいためるように出してしまっている。風邪に注意。台詞を覚えなければ。覚えて心と身体から発声し、動きを伴わせれば、喉をいためないと思う。何もできない一日。特に「詩の通信VI」2号分の発行が滞っている。明日は月曜日だが、出せるか? 駄目なら3号分が停滞する。詩はできているというのに。
2月20日(月)土曜日の、『革命幻想歌2』の稽古でいためた喉が少しよくなっている。よくなってほしい。誰のせいでもない。私がいけない。言葉が身体に入っていないのに、大きな声をはりあげたから。歌と芝居の声の出し方は違うと自覚しなければ。誰がしても、同じではないと思う。トロッタの表現についてもいえること。私は歌い、詩唱している。どちらも、私の表現としては詩唱だが、逃げるつもりはない。歌として、まずいと、評価してほしい。かつて、田中修一氏の『遺傳』を歌った時、歌の後の朗読はよい、と書かれた。歌はまずいということだ。
2月21日(火)ほとんど何もできない日。花粉の影響もあって集中できない。部屋を少しだけ整理したら、トロッタ15で初演する、酒井健吉さん作曲『美粒子』の詩を書いていたころのメモが出てきた。木村恵多さんの写真4点を原寸でカラーコピーし、周囲に詩をびっしりと書いていた。酒井健吉さんに、『美粒子』の作曲メモを送ってほしい、原稿にして紹介するからといい、送ってもらったのに肝心の原稿を書いていない。前橋に行くなどするうち、気持ちがばらばらになってしまった。申し訳ない。『美粒子』のメモが出てきたので、これを契機に書こう。トロッタのことではないが、田中修一さんに、山梨県立文学館から届いた深沢七郎の資料をコピーして郵送。深沢七郎について考え、彼が尊敬した作曲家・小栗孝之について考えるなどするうち、ギターを弾きたい気持ちが強まり、田中氏が私の詩をもとに書いてくれた『鳥ならで』を弾いて歌い続ける(下手に)。音はまずいが、時にぞくっとする瞬間がある。曲がいいから。多少ともうまく弾けるようになれば、もっとぞくっとするであろう。これで聴く人をぞくっとさせられればよい。今は、ぞっとさせる段階。できないことが多すぎる。
2月22日(水)ファゴット奏者のTさんと東京音大で会う。出演を引き受けてくださる(新メンバーの名前は、すべて確定するまで匿名とする)。コントラバスの丹野敏広さんと引き合わせる。民族音楽研究所の甲田潤さんとも。新しい方々の演奏の場が広がるなら、私にとっても、新しいメンバーと出会うことで、自分の可能性が広がるのだと思う。次回に出られない方々とも、いつかまた共演したい。生きている限り、共演の機会はやって来るはず。トロッタでなくてもいい。例えば計画中の、萩原朔太郎の“詩と音楽”演奏会でもいい。
2月23日(木)ヴィオラ奏者のHさんと会う相談。これまでヴィオラを弾いてくれていた仁科拓也さんが、次回の出演が無理となったので新たな方を迎える。昨日はファゴットのTさんと会った。いつまでも同じメンバーとはできない、それはまったく好まないのだが。変化を受け入れよう。
2012年2月14日火曜日
トロッタ日記120213
次回に参加してくださるかも知れないファゴット奏者を紹介される。メールで連絡を取る。ぜひお願いしたい。新しい個性と出会うこと。大げさな表現だが、身を投じる方にとっても、迎える側にとっても、大変なことだ。仮に無理となっても、話を聞いてくださるだけでありがたい。
参加していただいているメンバーにも、常に連絡を取っていたいと思いながら、用がある時しか連絡していない現実。皆さん、演奏会をしているのだから、そのすべてに足を運びたいと思いながら、事実は無理に終わっている。よくないと思う。結局、その日暮らしに終わっているから。
トロッタ15に参加してくださる松本満紀子さんたちの「グループえん」第三回演奏会のチラシを作成。「詩人・堀内幸枝の世界」と題されている。統一されたテーマで演奏会を開くのもひとつの方法だろう。目下、萩原朔太郎の“詩と音楽”をテーマにした演奏会を考えているように。
ここ数日、花をテーマにした詩を書いている。早く完成させたいが、読み直すたびに別の表現が見つかる。気分によって変わるのはいけない。しかし、気分によって変わることを肯定したいとも思う。生きているのだから。詩も、生きているのだから。どこかで形を決める思い切りが必要だ。
参加していただいているメンバーにも、常に連絡を取っていたいと思いながら、用がある時しか連絡していない現実。皆さん、演奏会をしているのだから、そのすべてに足を運びたいと思いながら、事実は無理に終わっている。よくないと思う。結局、その日暮らしに終わっているから。
トロッタ15に参加してくださる松本満紀子さんたちの「グループえん」第三回演奏会のチラシを作成。「詩人・堀内幸枝の世界」と題されている。統一されたテーマで演奏会を開くのもひとつの方法だろう。目下、萩原朔太郎の“詩と音楽”をテーマにした演奏会を考えているように。
ここ数日、花をテーマにした詩を書いている。早く完成させたいが、読み直すたびに別の表現が見つかる。気分によって変わるのはいけない。しかし、気分によって変わることを肯定したいとも思う。生きているのだから。詩も、生きているのだから。どこかで形を決める思い切りが必要だ。
2012年2月13日月曜日
トロッタ日記120211 & 12
2月11日(土)
上野雄次氏の「花会」に、世田谷区深沢のjikonoka TOKIOへ赴く。ここしばらく書いていない、花の詩を書きたいと思っている。先日の「花いけバトル」を観に行った背景にも、花の詩を書きたい気持ちがあった。桜新町駅から初めて歩く。桜並木が続く。ここは花の道だ。
上野氏とは3月12日(月)、日本音楽舞踊協会演奏会の橘川琢作品『春告花』で共演する。トロッタ15での共演はない。会場に入ったとたん詩が書けると思う。私が求めていることに加え、花の強さを感じた。なぜ「花いけバトル」をするのかを弁じる上野氏。願いがかなうことを祈る。
トロッタのブログに、少しだけ手を加えた。twitterのアカウントを2つ持っている。ひとつはトロッタのこと、ひとつは私自身のことを書いている。後の方はfacebookに直結する。後の方にもリンクをはった。分けたことで煩雑さを招いたと思うが、使い分ければよい。
アリステア・マクラウドに共感する先に、ガルシア・ロルカへの共感があると思う。ロルカが注目したのも、芸術音楽ではない、ロマ人(ジプシー)の、生きるための音楽だった。私は芸術音楽を否定しない。同時に、生きるための“詩と音楽”に共感している。両者を分けたくないと思う。
2月12日(日)
日本音楽舞踊会議演奏会「動き、舞踊、所作と音楽」の、本番一か月前。橘川琢氏の『春告花』と清道洋一氏の『革命幻想歌2』に出演予定。準備することはいくらでもあるが、今日は仕事の書評原稿を書く一日。しかし夜になって、トロッタの過去と現在について考えることになった。
毎回反省しながら開催してきたトロッタである。毎回同じメンバーで開催していきたいとも思ってきた。それは基本だが、何にでも変化というものはあり、同じまま永久に歩み続けることは不可能だ。変化を受け入れなければならない。トロッタで何をしたかったのかわかっていれば……
どんな変化が起きても平気なはずだ。夢を見た。トロッタ15一か月前に試演会を行い、お客さんもそれなりに来てくれた。ところがある作曲家の曲が半分しかできておらず、彼は指揮を途中でやめてしまう。楽譜を見ると、そこまでしかないのである。お客さんも大半が帰ってしまった。
こんなことをしていては駄目だと思った。お客さんに申し訳なく自分たちにも不甲斐がない。夢だが現実であろう。私は実際に、試演会場にいた。その作曲家がつっぷして悶える姿も見た。同様の可能性はいつでもあり、これまでは潜り抜け抜けてきたが、いつの日か直面する可能性がある。
上野雄次氏の「花会」に、世田谷区深沢のjikonoka TOKIOへ赴く。ここしばらく書いていない、花の詩を書きたいと思っている。先日の「花いけバトル」を観に行った背景にも、花の詩を書きたい気持ちがあった。桜新町駅から初めて歩く。桜並木が続く。ここは花の道だ。
上野氏とは3月12日(月)、日本音楽舞踊協会演奏会の橘川琢作品『春告花』で共演する。トロッタ15での共演はない。会場に入ったとたん詩が書けると思う。私が求めていることに加え、花の強さを感じた。なぜ「花いけバトル」をするのかを弁じる上野氏。願いがかなうことを祈る。
トロッタのブログに、少しだけ手を加えた。twitterのアカウントを2つ持っている。ひとつはトロッタのこと、ひとつは私自身のことを書いている。後の方はfacebookに直結する。後の方にもリンクをはった。分けたことで煩雑さを招いたと思うが、使い分ければよい。
アリステア・マクラウドに共感する先に、ガルシア・ロルカへの共感があると思う。ロルカが注目したのも、芸術音楽ではない、ロマ人(ジプシー)の、生きるための音楽だった。私は芸術音楽を否定しない。同時に、生きるための“詩と音楽”に共感している。両者を分けたくないと思う。
2月12日(日)
日本音楽舞踊会議演奏会「動き、舞踊、所作と音楽」の、本番一か月前。橘川琢氏の『春告花』と清道洋一氏の『革命幻想歌2』に出演予定。準備することはいくらでもあるが、今日は仕事の書評原稿を書く一日。しかし夜になって、トロッタの過去と現在について考えることになった。
毎回反省しながら開催してきたトロッタである。毎回同じメンバーで開催していきたいとも思ってきた。それは基本だが、何にでも変化というものはあり、同じまま永久に歩み続けることは不可能だ。変化を受け入れなければならない。トロッタで何をしたかったのかわかっていれば……
どんな変化が起きても平気なはずだ。夢を見た。トロッタ15一か月前に試演会を行い、お客さんもそれなりに来てくれた。ところがある作曲家の曲が半分しかできておらず、彼は指揮を途中でやめてしまう。楽譜を見ると、そこまでしかないのである。お客さんも大半が帰ってしまった。
こんなことをしていては駄目だと思った。お客さんに申し訳なく自分たちにも不甲斐がない。夢だが現実であろう。私は実際に、試演会場にいた。その作曲家がつっぷして悶える姿も見た。同様の可能性はいつでもあり、これまでは潜り抜け抜けてきたが、いつの日か直面する可能性がある。
2012年2月12日日曜日
トロッタ15全詩解説『美粒子』(作曲/酒井健吉).2
“美粒子”という言葉は美しいが、木村恵多、小松史明の両氏と相談しながら考えたのである。少なくとも、私がすべて考えたわけではない。他の個性と出会い、この言葉に行き着いたことをありがたく思う。
トロッタの会を始めたころから、酒井健吉氏は『美粒子』を曲にする希望を述べてくれていた。トロッタ15での初演は、詩ができて7年目ということになる。その歳月を思っているうち、当時の私が何を考えていたか、振り返った(ほとんど振り返るということをしないが、意義は認めている。トロッタについては、それをしなければと痛感している)。思い至ったのが、アリステア・マクラウドの長編小説『彼方なる歌に耳を澄ませよ』を書評したこと。2005年の3月、「サンデー毎日」の書評欄に掲載された。
マクラウドはカナダ人作家で、スコットランドからの移民の子孫。マクラウドは非常に寡作な人で、2005年の時点で、日本では短編集二冊、長編が一冊あるだけだった。今でも事情は変わっていないと思う。書評には、当時の私が、“詩と音楽”に対してどんな考えを持っていたか表われている。1997年の『音楽家の誕生』以来、伊福部昭先生と更科源蔵氏を通じて考えてきたことである。マクラウドの作品には、“詩と音楽”の切実な関係が記されている。芸術のためというより、生活のためにある“詩と音楽”である。生活の心配がない人がする音楽ではない。生活の心配がある人が、生きるために必要だとしてする音楽である。
それのみがいいわけではなく、生活の心配がない人もそれなりに、切実さを持って音楽をしていることだろう。それぞれの立場で切実であればよい。私にも私なりの理由があって『音楽家の誕生』を書き、書評に書いたようなことを思い、2006年に「ボッサ 声と音の会」を、2007年に「トロッタの会」を始めた。すべてが延長線上にあって、今は萩原朔太郎の“詩と音楽”について、考えている。
アリステア・マクラウド
中野恵津子/訳
『彼方なる歌に耳を澄ませよ』
(新潮クレスト・ブックス)
「マクドナルドの一族は常とした、
苦難には豪胆に立ち向かい、
厳しく敵を追いつめ敗走させ、
逆境で信義に厚く勇猛果敢であることを」
物語が終わりに近づくころ、読者は一編の詩に出会う。歌われているのは、『彼方なる歌に耳を澄ませよ』の主人公、スコットランドからカナダに渡ったマクドナルド一族の姿である。
先祖代々が暮らしたスコットランドのハイランド地方を離れ、新世界が待っているという希望を抱いて、一族はカナダ東部のケープ・ブレトン島に移り住む。移住を指揮した族長キャラム・ルーアの身体的特徴ゆえに、“赤毛のキャラムの子供たち”と呼ばれた彼らは、高地人ハイランダーの誇りを持ち、移住に伴う苦難を心に刻み、さらにはゲール語で語り、歌い、思考することを忘れず、未知の土地で生き続けた。物語は、二〇世紀が幕を下ろそうとしていた時期の視点で書かれているが、一族がカナダに移り住んだのは一七七九年であり、作者は六代の歴史に筆を及ばせているから、およそ二百年という歳月を、『彼方なる歌に耳を澄ませよ』は背景にしていることになる。
長い、実に長い一族の歩み。それを書こうとした、作者アリステア・マクラウドの態度も息が長い。この長編には十三年をかけ、日本では二分冊して刊行された短編集は、三十一年間に書かれた十六編を収めている。目先のことにとらわれ、汲々とした日々を送っている人間には、とてものこと、そんな辛抱強さはない。しかし、物語に登場する“赤毛のキャラムの子供たち”は、ほとんどの移民がそうであろうが、耐え、闘い、待ち、そして闘うことでしか生き延びてゆけなかった。作者マクラウドもまた、耐え、書き、待ち、そして書くという態度を貫いて、この長編を完成させたのである。
「音楽は貧乏人の潤滑油だ。世界中どこでも、いろんな言葉で」
印象的な言葉があった。冒頭にマクドナルド一族の歌を引いたが、軽くなく、明るくもないこの物語を読み進める上で、私たち読者を導いてくれるのは、各所に現れる歌であり、詩だ。金や名誉や地位ではない、歌こそが、どんなに苦しくても人間を生かしてくれるという確信を、ページを繰りながら、読者は持つだろう。あえて言うなら、金や名誉や地位を失った人が最後にすがるものこそ歌なのだという、これも確信。
「わたしははるか彼方を見つめる。
時の流れのはるか彼方を見つめる。
わたしが見つめるのは、
海のはるか彼方の、
愛するケープ・ブレトン」
物語中、哀歌、エレジーとして歌われる歌だ。移住から二百年がたった現代、“赤毛のキャラムの子供たち”も日常会話の多くは英語で行うのかもしれないが、一族に伝わるこのような歌には、ゲール語を用いる。一人でも歌い、大勢でも歌う。その場の人々だけで歌詞がおぼつかなくなると、夜遅くても詩を記憶している人を呼び出して歌い切る。歌うということは心を豊かにする遊びなのだが、祖先の魂と結びあう行為でもある。だからこそ、現世の金や名誉や地位を失っても、人は歌にすがれる。拠りどころにできると思うのだ。
生きる上で、これこそが自分の歌だといえるものを、私たちは持っているのか? 本を閉じた後、我が身を省みずにはいられなかった。 *「サンデー毎日」2005年3月27日
トロッタの会を始めたころから、酒井健吉氏は『美粒子』を曲にする希望を述べてくれていた。トロッタ15での初演は、詩ができて7年目ということになる。その歳月を思っているうち、当時の私が何を考えていたか、振り返った(ほとんど振り返るということをしないが、意義は認めている。トロッタについては、それをしなければと痛感している)。思い至ったのが、アリステア・マクラウドの長編小説『彼方なる歌に耳を澄ませよ』を書評したこと。2005年の3月、「サンデー毎日」の書評欄に掲載された。
マクラウドはカナダ人作家で、スコットランドからの移民の子孫。マクラウドは非常に寡作な人で、2005年の時点で、日本では短編集二冊、長編が一冊あるだけだった。今でも事情は変わっていないと思う。書評には、当時の私が、“詩と音楽”に対してどんな考えを持っていたか表われている。1997年の『音楽家の誕生』以来、伊福部昭先生と更科源蔵氏を通じて考えてきたことである。マクラウドの作品には、“詩と音楽”の切実な関係が記されている。芸術のためというより、生活のためにある“詩と音楽”である。生活の心配がない人がする音楽ではない。生活の心配がある人が、生きるために必要だとしてする音楽である。
それのみがいいわけではなく、生活の心配がない人もそれなりに、切実さを持って音楽をしていることだろう。それぞれの立場で切実であればよい。私にも私なりの理由があって『音楽家の誕生』を書き、書評に書いたようなことを思い、2006年に「ボッサ 声と音の会」を、2007年に「トロッタの会」を始めた。すべてが延長線上にあって、今は萩原朔太郎の“詩と音楽”について、考えている。
アリステア・マクラウド
中野恵津子/訳
『彼方なる歌に耳を澄ませよ』
(新潮クレスト・ブックス)
「マクドナルドの一族は常とした、
苦難には豪胆に立ち向かい、
厳しく敵を追いつめ敗走させ、
逆境で信義に厚く勇猛果敢であることを」
物語が終わりに近づくころ、読者は一編の詩に出会う。歌われているのは、『彼方なる歌に耳を澄ませよ』の主人公、スコットランドからカナダに渡ったマクドナルド一族の姿である。
先祖代々が暮らしたスコットランドのハイランド地方を離れ、新世界が待っているという希望を抱いて、一族はカナダ東部のケープ・ブレトン島に移り住む。移住を指揮した族長キャラム・ルーアの身体的特徴ゆえに、“赤毛のキャラムの子供たち”と呼ばれた彼らは、高地人ハイランダーの誇りを持ち、移住に伴う苦難を心に刻み、さらにはゲール語で語り、歌い、思考することを忘れず、未知の土地で生き続けた。物語は、二〇世紀が幕を下ろそうとしていた時期の視点で書かれているが、一族がカナダに移り住んだのは一七七九年であり、作者は六代の歴史に筆を及ばせているから、およそ二百年という歳月を、『彼方なる歌に耳を澄ませよ』は背景にしていることになる。
長い、実に長い一族の歩み。それを書こうとした、作者アリステア・マクラウドの態度も息が長い。この長編には十三年をかけ、日本では二分冊して刊行された短編集は、三十一年間に書かれた十六編を収めている。目先のことにとらわれ、汲々とした日々を送っている人間には、とてものこと、そんな辛抱強さはない。しかし、物語に登場する“赤毛のキャラムの子供たち”は、ほとんどの移民がそうであろうが、耐え、闘い、待ち、そして闘うことでしか生き延びてゆけなかった。作者マクラウドもまた、耐え、書き、待ち、そして書くという態度を貫いて、この長編を完成させたのである。
「音楽は貧乏人の潤滑油だ。世界中どこでも、いろんな言葉で」
印象的な言葉があった。冒頭にマクドナルド一族の歌を引いたが、軽くなく、明るくもないこの物語を読み進める上で、私たち読者を導いてくれるのは、各所に現れる歌であり、詩だ。金や名誉や地位ではない、歌こそが、どんなに苦しくても人間を生かしてくれるという確信を、ページを繰りながら、読者は持つだろう。あえて言うなら、金や名誉や地位を失った人が最後にすがるものこそ歌なのだという、これも確信。
「わたしははるか彼方を見つめる。
時の流れのはるか彼方を見つめる。
わたしが見つめるのは、
海のはるか彼方の、
愛するケープ・ブレトン」
物語中、哀歌、エレジーとして歌われる歌だ。移住から二百年がたった現代、“赤毛のキャラムの子供たち”も日常会話の多くは英語で行うのかもしれないが、一族に伝わるこのような歌には、ゲール語を用いる。一人でも歌い、大勢でも歌う。その場の人々だけで歌詞がおぼつかなくなると、夜遅くても詩を記憶している人を呼び出して歌い切る。歌うということは心を豊かにする遊びなのだが、祖先の魂と結びあう行為でもある。だからこそ、現世の金や名誉や地位を失っても、人は歌にすがれる。拠りどころにできると思うのだ。
生きる上で、これこそが自分の歌だといえるものを、私たちは持っているのか? 本を閉じた後、我が身を省みずにはいられなかった。 *「サンデー毎日」2005年3月27日
2012年2月11日土曜日
トロッタ15全詩解説『美粒子』(作曲/酒井健吉).1
酒井健吉の『美粒子』は、同名の詩による詩唱曲である。
編成は、詩唱、オーボエ、ヴァイオリン(2)、ヴィオラ、チェロ、コントラバス、ピアノ。
曲は新しいが、詩は2006年の作品だ。トロッタがスタートする前年のもので、写真家・木村恵多、美術家・小松史明との共同作業として書いた。
木村は、小石川図書館ホールにて『新宿に安土城が建つ』を共同製作した仲間である。当時の彼は映像集団ゴールデンシットに属しており、『新宿に安土城が建つ』には、映像の立場からの参加であった。それを終えて、新たな共同作業ができないかと考えた。『安土城』は、まず私の詩があって、それをもとに創った舞台である。次は、他のジャンルの作品を先行させ、後から詩を書こうということになった。そこで木村の写真が候補になり、詩『美粒子』を書いたのである。写真と詩を小松史明に託し、小松はA3判両面にデザインしてくれた。小松史明が、その後、トロッタのチラシを作り続けてくれていることはいうまでもない。
詩に添えた解説に、当時の経緯が書かれている。掲げた画像をお読みいただきたい。
繰り返すが、これは私ではない他の個性による視覚表現に反応して書いた、理屈のない詩である。その意味で、言葉として純粋といえるかもしれない。
編成は、詩唱、オーボエ、ヴァイオリン(2)、ヴィオラ、チェロ、コントラバス、ピアノ。
曲は新しいが、詩は2006年の作品だ。トロッタがスタートする前年のもので、写真家・木村恵多、美術家・小松史明との共同作業として書いた。
木村は、小石川図書館ホールにて『新宿に安土城が建つ』を共同製作した仲間である。当時の彼は映像集団ゴールデンシットに属しており、『新宿に安土城が建つ』には、映像の立場からの参加であった。それを終えて、新たな共同作業ができないかと考えた。『安土城』は、まず私の詩があって、それをもとに創った舞台である。次は、他のジャンルの作品を先行させ、後から詩を書こうということになった。そこで木村の写真が候補になり、詩『美粒子』を書いたのである。写真と詩を小松史明に託し、小松はA3判両面にデザインしてくれた。小松史明が、その後、トロッタのチラシを作り続けてくれていることはいうまでもない。
詩に添えた解説に、当時の経緯が書かれている。掲げた画像をお読みいただきたい。
繰り返すが、これは私ではない他の個性による視覚表現に反応して書いた、理屈のない詩である。その意味で、言葉として純粋といえるかもしれない。
トロッタ日記120210
清道洋一、橘川琢の両氏から、3月12日(月)に行われる日本音楽舞踊会議・演奏会「動き、舞踊、所作と音楽」練習時期の打診がある。およそ1月前となり、曲を具体化させなければいけない。練習はいつでもいい。他の方々に合わせよう。橘川氏からプロフィールの提出依頼があったので書き下ろした。
「木部与巴仁 KIBE Yohani/詩唱者。詩と音楽を歌い、奏でる『トロッタの会』などを通じ、作曲家、演奏家と共同作業を行う。詩唱とは、朗読と歌を合わせた音楽としての発声。それは音楽作品として作曲される。「トロッタの会」は、橘川琢、清道洋一、酒井健吉、田中修一、堀井友徳、……
松木敏晃、宮﨑文香、山本和智、今井重幸、大谷歩、田中隆司、成澤真由美、長谷部二郎、Fabrizio FESTAらによって、詩唱を含む曲を発表してきた。第15回『トロッタの会』は5月13日(月)、早稲田奉仕園スコットホールで開催予定』(その後、不備に気づく。これは改訂途中の原稿)
前橋文学館の学芸員の方からメールをいただく。萩原朔太郎をテーマに、田中修一氏の歌曲を中心にする演奏会について、検討していただければということ。もちろん、いつ、どういう形で実現するかどうか未定だが、前向きに考えていきたい。朔太郎という一点を追究することで普遍のテーマにつなげられる。
伊福部昭先生と更科源蔵氏についても、同様の演奏会が開けよう。更科氏の詩による伊福部先生の歌曲を中心に、一夜の演奏会が企画できる。それは前から思っていることだが(トロッタでは『知床半島の漁夫の歌』など、4曲中3曲まで演奏している)、自分たちで創るものとして朔太郎作品を取り上げたい。
いや、自分たちのものというなら、偉そうにいうのではなく、私の詩で、作曲の皆さんが曲を書いてくださっているという、ありがたい状況がある。私はそれに応える。そこに、朔太郎の詩や更科氏の詩を加え、もちろんロルカも加えて、確かな方向にしつつあると思う。自分の詩だと夢中になってしまうが……
朔太郎という先人の詩を扱う場合、客観性が生まれる。自分は自分で研究できないが、朔太郎ならできる。詩と音楽の関係を客観的に見られる(想像だが、橘川琢氏が自作『春告花』に私の詩を使わず、トロッタ15で詩そのものを用いないのも、客観化したい気持ちの表れか。彼が、というより私も含めて)。
今はまだ断片だが、トロッタについての原稿にも、朔太郎のこと、更科氏のことを書いていけばいいだろう(いうまでもなく、北原白秋と山田耕筰にも、詩と音楽の関係があり、さらに山田耕筰には石井漠と組んで舞踊との関係もあるのだが、とてもそこまで広げられない。研究になってしまう怖れがある。……
白秋、耕筰ではなく)朔太郎をまず取り上げる、私なりの強い理由。それはギター、マンドリンから始まっている。ギターとマンドリンを弾いた朔太郎への共感がある。音楽家になりたいと思い、詩と音楽をひとりの身体に持った(ひとりの身体から生もうとした)、朔太郎という個性を考えようとしている。
「木部与巴仁 KIBE Yohani/詩唱者。詩と音楽を歌い、奏でる『トロッタの会』などを通じ、作曲家、演奏家と共同作業を行う。詩唱とは、朗読と歌を合わせた音楽としての発声。それは音楽作品として作曲される。「トロッタの会」は、橘川琢、清道洋一、酒井健吉、田中修一、堀井友徳、……
松木敏晃、宮﨑文香、山本和智、今井重幸、大谷歩、田中隆司、成澤真由美、長谷部二郎、Fabrizio FESTAらによって、詩唱を含む曲を発表してきた。第15回『トロッタの会』は5月13日(月)、早稲田奉仕園スコットホールで開催予定』(その後、不備に気づく。これは改訂途中の原稿)
前橋文学館の学芸員の方からメールをいただく。萩原朔太郎をテーマに、田中修一氏の歌曲を中心にする演奏会について、検討していただければということ。もちろん、いつ、どういう形で実現するかどうか未定だが、前向きに考えていきたい。朔太郎という一点を追究することで普遍のテーマにつなげられる。
伊福部昭先生と更科源蔵氏についても、同様の演奏会が開けよう。更科氏の詩による伊福部先生の歌曲を中心に、一夜の演奏会が企画できる。それは前から思っていることだが(トロッタでは『知床半島の漁夫の歌』など、4曲中3曲まで演奏している)、自分たちで創るものとして朔太郎作品を取り上げたい。
いや、自分たちのものというなら、偉そうにいうのではなく、私の詩で、作曲の皆さんが曲を書いてくださっているという、ありがたい状況がある。私はそれに応える。そこに、朔太郎の詩や更科氏の詩を加え、もちろんロルカも加えて、確かな方向にしつつあると思う。自分の詩だと夢中になってしまうが……
朔太郎という先人の詩を扱う場合、客観性が生まれる。自分は自分で研究できないが、朔太郎ならできる。詩と音楽の関係を客観的に見られる(想像だが、橘川琢氏が自作『春告花』に私の詩を使わず、トロッタ15で詩そのものを用いないのも、客観化したい気持ちの表れか。彼が、というより私も含めて)。
今はまだ断片だが、トロッタについての原稿にも、朔太郎のこと、更科氏のことを書いていけばいいだろう(いうまでもなく、北原白秋と山田耕筰にも、詩と音楽の関係があり、さらに山田耕筰には石井漠と組んで舞踊との関係もあるのだが、とてもそこまで広げられない。研究になってしまう怖れがある。……
白秋、耕筰ではなく)朔太郎をまず取り上げる、私なりの強い理由。それはギター、マンドリンから始まっている。ギターとマンドリンを弾いた朔太郎への共感がある。音楽家になりたいと思い、詩と音楽をひとりの身体に持った(ひとりの身体から生もうとした)、朔太郎という個性を考えようとしている。
2012年2月9日木曜日
トロッタ日記120209
詩と音楽について、会の名前、企画の内容、作品の個性は違っても、考えていることはすべてひとつながりなので、まとめて書く。「詩の通信VI」2号分の発行が滞っている。詩はできているのに発行できないままだ。他の方はともかく、私にとって「トロッタの会」は、「詩の通信」から発展したものだ。
「詩の通信」第I期が終了した時、紙に印刷された詩を立体的に、具体的に、音楽として成立させ発表するために発案したのである。その後、時々にしか開催できない「トロッタの会」とは別に、定期的に詩を発表し、連絡もできる個人的メディアが必要だと、「詩の通信」第II期の発行を再開したのである。
だから「詩の通信VI」が滞っているということは、「トロッタの会」の準備も滞っている、私自身の活動が滞っているということになる。しかしすべきことはたくさんある。整理しよう。まず、亡くなられたギタリスト、石井康史さんを追悼する、谷中ボッサでの第7回「ボッサ 声と音の会」を6月に予定。
この曲は、私が海賊放送のDJ後鳥羽上皇に扮する「隠岐のバラッド 2」である。やはり後鳥羽上皇として詩唱する、清道洋一氏の『革命幻想歌2』が、3月12日(月)に日本音楽舞踊会議の演奏会「動き、舞踊、所作と音楽」で初演される。そのための新作詩も書いた。不明点は多いが稽古で理解しよう。
同じ日本音楽舞踊会議の会で、橘川琢氏の『春告花・三景』が初演され、これにも出演する。橘川氏の詩がどのようなものであるか不明だ。彼が春の詩を書くなら私もと、新作詩「春の落鳥」を書いた。これは橘川氏に受け取ってもらえたので、いずれ曲になるだろう。 そして田中修一氏との共同作業が続く。
田中修一氏とは、長谷部二郎先生編集の雑誌「ギターの友」を媒介にして作業している。萩原朔太郎の詩による歌曲を作っている彼について、私が書く。田中論だが、彼とやりとりしながらのことなので、共同作業と認識している。田中氏からの働きかけで私が新作詩を書く機会も、ここしばらく続いている。
「ギターの友」最新の2月号が完成し、それは朔太郎展を行った世田谷文学館と、朔太郎の写真を借りた前橋文学館にも送った。いずれ、前橋文学館で朔太郎関係の演奏会を開きたい。都内でもいいが、朔太郎が生まれた前橋で開くことに意味がある。ホールがあるのだから。詩の原点、音楽の原点を感じたい。
「ギターの友」の連載「ギターとランプ」では、田中氏のことばかり書いているが、それは了解していただきたい(ちなみに同誌には、長谷部先生と清道氏の対談も連載されている)。生まれた状況は、進められるところまで進めるのが私の行き方だ。萩原朔太郎を媒介に、詩と音楽の考えを進めていきたい。
具体的には書かない(また書けない)が、田中氏と進めていること。詩と音楽はどのように関わりあって曲が生まれるか。これはトロッタの最初期からいっていることだが、できてしまった音楽は、できたものと受け取るしかない。しかし曲ができる過程、これからできようとする曲にはまた別種の関心が湧く。
詩はどのようにして音楽になるか?その秘密(過程)に触れることこそ、トロッタを始めた動機である。それを田中修一氏と明かしたい。伊福部昭先生と更科源蔵氏という大きな前例がある。それを現代の私たちがトロッタで実行する。萩原朔太郎はひとりでそれを行った。朔太郎の営みは未完成に映るが……、
だがトロッタ以前から朔太郎の詩によって曲を作ってきた田中修一氏がおり、私もまた最近のことだが世田谷文学館の朔太郎展によって朔太郎にあった音楽について考え、さらに私のかつての友人が朔太郎論を一冊書いてそれきり音信不通になったことなど、様々な要素が関連し合うことが明らかになってきた。
トロッタ15で曲になる詩。まず私の詩は、清道洋一氏作曲『霧に歌っていた』、酒井健吉氏作曲『美粒子』と『トロッタ、七年の夢』、田中修一氏作曲『ムーヴメント6 海猫』、宮﨑文香さん作曲『宇宙でなくした恋』と『めぐりあい(題未定)』。今回、橘川琢氏の曲に詩はなく、堀井友徳氏は不参加だ。
他の方々の詩は次のとおり。更科源蔵氏による伊福部昭先生作曲『オホーツクの海』(原詩『昏れるオホーツク』)、柳田國男『遠野物語』による田中隆司氏作曲『寒戸の婆』。フェデリコ=ガルシア・ロルカ採譜『ロルカのカンシオネス〈スペインの歌〉』。その中の“zorongo”はロルカの詩と聞く。
その時々の数はともかく、いくつもの詩を集め、曲を集め、作曲家、演奏家と共にトロッタの会は続いてきた。それが今度で15回目。先に進むのに夢中で振り返る機会も少なく、また断片に終わってきた感があるが、例えば田中氏との共同作業を通じて、トロッタの本質に気づけるのではないかと思っている。
今日あたりは「詩の通信VI」を2号分、出せるだろうか。発送数はわずか3部。無料で送らせていただいていた時期は、数十部(実感としては100近く、それは錯覚だろうが)に及んだ。有料制にしたら3部だ。トロッタは15回、ボッサは7回、「詩の通信」は6期。しかし、まだこれからなのだろう。
「詩の通信」第I期が終了した時、紙に印刷された詩を立体的に、具体的に、音楽として成立させ発表するために発案したのである。その後、時々にしか開催できない「トロッタの会」とは別に、定期的に詩を発表し、連絡もできる個人的メディアが必要だと、「詩の通信」第II期の発行を再開したのである。
だから「詩の通信VI」が滞っているということは、「トロッタの会」の準備も滞っている、私自身の活動が滞っているということになる。しかしすべきことはたくさんある。整理しよう。まず、亡くなられたギタリスト、石井康史さんを追悼する、谷中ボッサでの第7回「ボッサ 声と音の会」を6月に予定。
この曲は、私が海賊放送のDJ後鳥羽上皇に扮する「隠岐のバラッド 2」である。やはり後鳥羽上皇として詩唱する、清道洋一氏の『革命幻想歌2』が、3月12日(月)に日本音楽舞踊会議の演奏会「動き、舞踊、所作と音楽」で初演される。そのための新作詩も書いた。不明点は多いが稽古で理解しよう。
同じ日本音楽舞踊会議の会で、橘川琢氏の『春告花・三景』が初演され、これにも出演する。橘川氏の詩がどのようなものであるか不明だ。彼が春の詩を書くなら私もと、新作詩「春の落鳥」を書いた。これは橘川氏に受け取ってもらえたので、いずれ曲になるだろう。 そして田中修一氏との共同作業が続く。
田中修一氏とは、長谷部二郎先生編集の雑誌「ギターの友」を媒介にして作業している。萩原朔太郎の詩による歌曲を作っている彼について、私が書く。田中論だが、彼とやりとりしながらのことなので、共同作業と認識している。田中氏からの働きかけで私が新作詩を書く機会も、ここしばらく続いている。
「ギターの友」最新の2月号が完成し、それは朔太郎展を行った世田谷文学館と、朔太郎の写真を借りた前橋文学館にも送った。いずれ、前橋文学館で朔太郎関係の演奏会を開きたい。都内でもいいが、朔太郎が生まれた前橋で開くことに意味がある。ホールがあるのだから。詩の原点、音楽の原点を感じたい。
「ギターの友」の連載「ギターとランプ」では、田中氏のことばかり書いているが、それは了解していただきたい(ちなみに同誌には、長谷部先生と清道氏の対談も連載されている)。生まれた状況は、進められるところまで進めるのが私の行き方だ。萩原朔太郎を媒介に、詩と音楽の考えを進めていきたい。
具体的には書かない(また書けない)が、田中氏と進めていること。詩と音楽はどのように関わりあって曲が生まれるか。これはトロッタの最初期からいっていることだが、できてしまった音楽は、できたものと受け取るしかない。しかし曲ができる過程、これからできようとする曲にはまた別種の関心が湧く。
詩はどのようにして音楽になるか?その秘密(過程)に触れることこそ、トロッタを始めた動機である。それを田中修一氏と明かしたい。伊福部昭先生と更科源蔵氏という大きな前例がある。それを現代の私たちがトロッタで実行する。萩原朔太郎はひとりでそれを行った。朔太郎の営みは未完成に映るが……、
だがトロッタ以前から朔太郎の詩によって曲を作ってきた田中修一氏がおり、私もまた最近のことだが世田谷文学館の朔太郎展によって朔太郎にあった音楽について考え、さらに私のかつての友人が朔太郎論を一冊書いてそれきり音信不通になったことなど、様々な要素が関連し合うことが明らかになってきた。
トロッタ15で曲になる詩。まず私の詩は、清道洋一氏作曲『霧に歌っていた』、酒井健吉氏作曲『美粒子』と『トロッタ、七年の夢』、田中修一氏作曲『ムーヴメント6 海猫』、宮﨑文香さん作曲『宇宙でなくした恋』と『めぐりあい(題未定)』。今回、橘川琢氏の曲に詩はなく、堀井友徳氏は不参加だ。
他の方々の詩は次のとおり。更科源蔵氏による伊福部昭先生作曲『オホーツクの海』(原詩『昏れるオホーツク』)、柳田國男『遠野物語』による田中隆司氏作曲『寒戸の婆』。フェデリコ=ガルシア・ロルカ採譜『ロルカのカンシオネス〈スペインの歌〉』。その中の“zorongo”はロルカの詩と聞く。
その時々の数はともかく、いくつもの詩を集め、曲を集め、作曲家、演奏家と共にトロッタの会は続いてきた。それが今度で15回目。先に進むのに夢中で振り返る機会も少なく、また断片に終わってきた感があるが、例えば田中氏との共同作業を通じて、トロッタの本質に気づけるのではないかと思っている。
今日あたりは「詩の通信VI」を2号分、出せるだろうか。発送数はわずか3部。無料で送らせていただいていた時期は、数十部(実感としては100近く、それは錯覚だろうが)に及んだ。有料制にしたら3部だ。トロッタは15回、ボッサは7回、「詩の通信」は6期。しかし、まだこれからなのだろう。
2012年2月6日月曜日
トロッタ日記120206
預かったまま進めていなかった、「第3回 グループえん演奏会」のチラシを作る。トロッタ15で、田中隆司さんの『寒戸の婆』を歌う、松本満紀子さんも出演。「詩人・堀内幸枝の世界」を題され、全16曲が歌われるもの。6月2日(土)開催だから、トロッタ15の後である。
2012年2月4日土曜日
トロッタ日記120203
(2月3日Fri.)
田中修一氏の実質的な処女作、『漂泊者の歌』を聴く。1991年11月25日、ルーテル市ヶ谷での初演。メゾソプラノ嶋田美佐子、ピアノ加藤悦子。
プログラムに掲載された作曲者の言葉を抜粋する。
「私が、この詩に初めて接したのは十四才の時でした。丁度その頃ニイチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』を愛読していた私はこの詩に深い共感を覚えました。その時以来何度か旋律化を考えたのですが、思うようにならず歳月が過ぎてしまいました」
脱稿は1987年。1996年生まれの作曲家として、21歳での作曲、25歳での初演ということになる。
曲は、このように歌い始められる。
「日は断崖の上に登り/憂ひは陸橋の下を低く歩めり。/無限に遠き空の彼方/続ける鉄路の柵の背後(うしろ)に/一つの寂しき影は漂ふ。」
歌に添うように、時に歌を離れて独自に動き出すピアノが印象的。歌のつとめ、ピアノのつとめということを、よく意識した作曲だ。ピアノは“漂泊者”ではない。漂泊者の影である。影として、漂泊者と共に歩むかと思えば、そばを離れて勝手に遊ぶような動きもする。少年時より約10年、作曲家の心にあり、それがある時、歌の形になる。ピアノを影と解することが、作曲者の意にかなうかどうか疑問だが、仮にそうだとして、そうすれば歌になると、若い作曲家が発見するまでの過程に興味を覚えた。
できるなら、違う歌い方でも聴いてみたい。歌う、のではなく、語るように歌う。作曲者の意図はそこにあるはずだが、歌唱者には至難。歌うと、語るは、まったく別の発声を要するから。作家の処女作に、原点を見る。原点に、すべてがある。田中氏は作曲家としての人生を、歌うように語る曲の創作に向けるだろうと想像させる。萩原朔太郎から始まったことが、彼の作曲家人生を決定づけているように思う。
(付記)録音したカセットテープは田中修一氏に送ってもらったが、彼の手元にはテープの再生機がなく、私の手元にもない。ある所で再生機を借用したところ、テープがからまってしまい、引き出すのに苦労した。録音をしたT氏をわずらわせ、テープの修復と、CD-Rへのダビングをお願いした。時間をさかのぼるのは、容易なことではない。
この文章は、何やら20年前に『漂泊者の歌』初演に立ち会って、その印象を記しているような、不思議な感慨を覚えながら書いた。録音を聴いただけだが、初めて聴いたことには違いがない。
歌うことと、歌うように語ることの困難さについて、記している。初演者の苦労を想像しながら書いた。田中氏からは、そのような指示が与えられていたに違いないのだ。しかし、難しい。習ってきたことと、基本的に違う。歌い手は語りについて学んでいない。逆もしかり。それを語るように歌うなど、どうすればいいというのだ。
田中修一氏がトロッタに出品して来たMOVEMENTシリーズ全6曲を通して聴く。MOVEMENT1には、2台ピアノ版と、電子オルガン+ピアノ+打楽器版がある。6曲の中には、ソプラノのみの曲と、私の詩唱が入る曲がある。歌と語りは、分けるしかないのか。
田中氏の『遺傳』では、私が歌い、語った。歌と語りの声の質が、いや、声質は同じだから発声の質か、それが違うように思う。自分で、声の出し方が違うと思う。それを一緒にできないのか。さらに、語るように、歌えないのか。歌えないなら、歌い方を見つければいいのか。これまで無反省に詩唱をしてきたという、反省。
雑誌「ギターの友」が、もうすぐできるだろう。そこに、目下の、萩原朔太郎への考えを書いている。論考ではない。私にはまだ、論考はできない。ただの報告だ。田中修一氏と萩原朔太郎について。また、世田谷文学館の朔太郎展で行われたマンドリン&ギター・コンサートの。しかし、そこから始まる。朔太郎を研究するなら、それは、詩と音楽への、新たなアプローチになるだろうか。
田中修一氏の実質的な処女作、『漂泊者の歌』を聴く。1991年11月25日、ルーテル市ヶ谷での初演。メゾソプラノ嶋田美佐子、ピアノ加藤悦子。
プログラムに掲載された作曲者の言葉を抜粋する。
「私が、この詩に初めて接したのは十四才の時でした。丁度その頃ニイチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』を愛読していた私はこの詩に深い共感を覚えました。その時以来何度か旋律化を考えたのですが、思うようにならず歳月が過ぎてしまいました」
脱稿は1987年。1996年生まれの作曲家として、21歳での作曲、25歳での初演ということになる。
曲は、このように歌い始められる。
「日は断崖の上に登り/憂ひは陸橋の下を低く歩めり。/無限に遠き空の彼方/続ける鉄路の柵の背後(うしろ)に/一つの寂しき影は漂ふ。」
歌に添うように、時に歌を離れて独自に動き出すピアノが印象的。歌のつとめ、ピアノのつとめということを、よく意識した作曲だ。ピアノは“漂泊者”ではない。漂泊者の影である。影として、漂泊者と共に歩むかと思えば、そばを離れて勝手に遊ぶような動きもする。少年時より約10年、作曲家の心にあり、それがある時、歌の形になる。ピアノを影と解することが、作曲者の意にかなうかどうか疑問だが、仮にそうだとして、そうすれば歌になると、若い作曲家が発見するまでの過程に興味を覚えた。
できるなら、違う歌い方でも聴いてみたい。歌う、のではなく、語るように歌う。作曲者の意図はそこにあるはずだが、歌唱者には至難。歌うと、語るは、まったく別の発声を要するから。作家の処女作に、原点を見る。原点に、すべてがある。田中氏は作曲家としての人生を、歌うように語る曲の創作に向けるだろうと想像させる。萩原朔太郎から始まったことが、彼の作曲家人生を決定づけているように思う。
(付記)録音したカセットテープは田中修一氏に送ってもらったが、彼の手元にはテープの再生機がなく、私の手元にもない。ある所で再生機を借用したところ、テープがからまってしまい、引き出すのに苦労した。録音をしたT氏をわずらわせ、テープの修復と、CD-Rへのダビングをお願いした。時間をさかのぼるのは、容易なことではない。
この文章は、何やら20年前に『漂泊者の歌』初演に立ち会って、その印象を記しているような、不思議な感慨を覚えながら書いた。録音を聴いただけだが、初めて聴いたことには違いがない。
歌うことと、歌うように語ることの困難さについて、記している。初演者の苦労を想像しながら書いた。田中氏からは、そのような指示が与えられていたに違いないのだ。しかし、難しい。習ってきたことと、基本的に違う。歌い手は語りについて学んでいない。逆もしかり。それを語るように歌うなど、どうすればいいというのだ。
田中修一氏がトロッタに出品して来たMOVEMENTシリーズ全6曲を通して聴く。MOVEMENT1には、2台ピアノ版と、電子オルガン+ピアノ+打楽器版がある。6曲の中には、ソプラノのみの曲と、私の詩唱が入る曲がある。歌と語りは、分けるしかないのか。
田中氏の『遺傳』では、私が歌い、語った。歌と語りの声の質が、いや、声質は同じだから発声の質か、それが違うように思う。自分で、声の出し方が違うと思う。それを一緒にできないのか。さらに、語るように、歌えないのか。歌えないなら、歌い方を見つければいいのか。これまで無反省に詩唱をしてきたという、反省。
雑誌「ギターの友」が、もうすぐできるだろう。そこに、目下の、萩原朔太郎への考えを書いている。論考ではない。私にはまだ、論考はできない。ただの報告だ。田中修一氏と萩原朔太郎について。また、世田谷文学館の朔太郎展で行われたマンドリン&ギター・コンサートの。しかし、そこから始まる。朔太郎を研究するなら、それは、詩と音楽への、新たなアプローチになるだろうか。
2012年2月3日金曜日
トロッタ日記120202
既に発行が一週間以上遅れている「詩の通信VI」の第13号を作成する。本来は1月23日(月)に出さなければいけなかったのだ。今号には、橘川琢氏との共同創作“四季の詩”シリーズのために書いた『秋の一族』を載せようと思う。しかし長いので、通常とレイアウトが異なる。表面下段に空白が生じるので、そこを埋めようと、“四季の詩”シリーズで唯一、形にもなっていない“春”篇を書き下ろして載せたいと思う。“春”篇を書こうとしたことには理由がある。
日本音楽舞踊会議の3月12日(月)演奏会で、橘川琢氏の『春告花(はるつげばな)』を詠む。その“春”という言葉に刺激された。演奏済みの『冬の鳥』『夏の國』、曲は未完だが詩はできている『秋の一族』に続く作品を書かなければと思い続けた。『秋の一族』は作曲されていないのだから焦る必要はないのだが、残りひとつだと思うと、どうなるのか知りたい思いが募った。
そこで午後から夜にかけ、“春”の文字を入れた新作詩『春の落鳥(らくちょう)』を書く。ところが、ある程度できたところで気づいたのだが、『冬の鳥』と重なる。四篇しかないのに、冬にも春にも鳥が出てくるのはおかしい。四季全篇に鳥が出てくればいいのだが、そうではない。詩はできて橘川氏に送ったが、これは独立した詩として扱う。“四季の詩”の“春”は、別に書くことにする。既に完成したから形は違っているが、最も初期に抱いた「春の落鳥」書き出しの部分。
「落ちたくないから/鳥は飛ぶ/青い/春の空を切る/影/矢になって/飛んでいった」
「秋元松代全作品集」全3巻が届く。いきなり月報が全巻欠けているショック。その分、安いということだろうが注意書きはなかった。抗議すべきか。月報は資料に過ぎないが、それも含めて編集されているのだから、そこに編集意図があると見るべきで、月報がないのは欠陥品である。抗議すべきか。おそらく、私はしないだろう。
日本音楽舞踊会議の3月12日(月)演奏会で、橘川琢氏の『春告花(はるつげばな)』を詠む。その“春”という言葉に刺激された。演奏済みの『冬の鳥』『夏の國』、曲は未完だが詩はできている『秋の一族』に続く作品を書かなければと思い続けた。『秋の一族』は作曲されていないのだから焦る必要はないのだが、残りひとつだと思うと、どうなるのか知りたい思いが募った。
そこで午後から夜にかけ、“春”の文字を入れた新作詩『春の落鳥(らくちょう)』を書く。ところが、ある程度できたところで気づいたのだが、『冬の鳥』と重なる。四篇しかないのに、冬にも春にも鳥が出てくるのはおかしい。四季全篇に鳥が出てくればいいのだが、そうではない。詩はできて橘川氏に送ったが、これは独立した詩として扱う。“四季の詩”の“春”は、別に書くことにする。既に完成したから形は違っているが、最も初期に抱いた「春の落鳥」書き出しの部分。
「落ちたくないから/鳥は飛ぶ/青い/春の空を切る/影/矢になって/飛んでいった」
「秋元松代全作品集」全3巻が届く。いきなり月報が全巻欠けているショック。その分、安いということだろうが注意書きはなかった。抗議すべきか。月報は資料に過ぎないが、それも含めて編集されているのだから、そこに編集意図があると見るべきで、月報がないのは欠陥品である。抗議すべきか。おそらく、私はしないだろう。
トロッタ日記120201(その2)
●酒井健吉氏から、トロッタ15で演奏する『トロッタ、七年の夢』の構想について、メールが届く。まず純粋な器楽曲にしたいという。もちろん、承諾。八木ちはるさんのフルートと、森川あづささんのピアノ。これに清道洋一氏が、中川博正氏の詩唱をどう加えるか。演出が楽しみだ。
●トロッタ14で演奏された今井重幸先生の『対話と変容』をiPodに動画で入れて聴く。確かに「ロルカの13の民謡」zorongoの主題が聴こえて来た。フルートとチェロの対話であり、変容。私の課題となるはずの、6/8+3/4拍子も参考になる(できるかどうかは別)。
■午前中は2つの病院に行き、歌のレッスンもあった。午後遅く帰宅。田中修一氏と、野上弥生子のこと、彼が温めている新しい企画など、電話とメールでやりとりする。寒かったので、弁当を食べながら梅酒を飲んだら酔ってしまい、仕事にならず。本も読めない。寝た。たるんでいる。
●清道洋一氏から『革命幻想歌2』の稽古をしたいと申し入れ。役者の堀江麗奈さんを交えての稽古になる。台詞をできるだけ頭に入れて臨みたい。清道氏に訊くと、稽古をしながら楽譜を作っていってよい(言葉を決めてよい)とのことなので、心から詠める言葉を提案していきたい。
●上野雄次氏から、2月7日(火)の「花いけバトル」と、2月1、2、4週の金・土・日曜に行われる「花会」と、3週の金・土・日に行われる花いけ教室のお知らせが届く。私の詩を整理しているが、改めて、上野氏に触発され、少なからぬ数の花の詩を書いてきたことに気づく。(2月2日Thu.)「花の三部作」はもちろん、「詩の通信」第IV期には“はなものがたり”と名づけていた。それが昨年の『花とやもり』につながりもした。上野氏との作業について、落ち着いて考えたい気を強く持っている。しかし、それがなかなか進まないのも事実。新しい花の詩を書いてみたい。
●トロッタ14で演奏された今井重幸先生の『対話と変容』をiPodに動画で入れて聴く。確かに「ロルカの13の民謡」zorongoの主題が聴こえて来た。フルートとチェロの対話であり、変容。私の課題となるはずの、6/8+3/4拍子も参考になる(できるかどうかは別)。
■午前中は2つの病院に行き、歌のレッスンもあった。午後遅く帰宅。田中修一氏と、野上弥生子のこと、彼が温めている新しい企画など、電話とメールでやりとりする。寒かったので、弁当を食べながら梅酒を飲んだら酔ってしまい、仕事にならず。本も読めない。寝た。たるんでいる。
●清道洋一氏から『革命幻想歌2』の稽古をしたいと申し入れ。役者の堀江麗奈さんを交えての稽古になる。台詞をできるだけ頭に入れて臨みたい。清道氏に訊くと、稽古をしながら楽譜を作っていってよい(言葉を決めてよい)とのことなので、心から詠める言葉を提案していきたい。
●上野雄次氏から、2月7日(火)の「花いけバトル」と、2月1、2、4週の金・土・日曜に行われる「花会」と、3週の金・土・日に行われる花いけ教室のお知らせが届く。私の詩を整理しているが、改めて、上野氏に触発され、少なからぬ数の花の詩を書いてきたことに気づく。(2月2日Thu.)「花の三部作」はもちろん、「詩の通信」第IV期には“はなものがたり”と名づけていた。それが昨年の『花とやもり』につながりもした。上野氏との作業について、落ち着いて考えたい気を強く持っている。しかし、それがなかなか進まないのも事実。新しい花の詩を書いてみたい。
2012年2月2日木曜日
トロッタ日記120201
2月になった。気分を一新し、詩や曲を具体的に紹介する「トロッタ15通信」を書き出そうとしたが無理であった。水曜は歌のレッスンで、ロルカの民謡を練習しており、今日から「zorongo(ソロンゴ)」なので書くべきであったが。書いても内容が伴わない。まだわかってない。書きながらわかればいいのだが、その段階にも至っていない。トロッタ15でも3曲を歌う予定だ。1曲目「Nana de Sevilla(セビージャの子守唄)」の練習を取りあえず終え、2曲目に入ろうというのに書くことがないのはどういうこと。無反省に歌っているだけである。何とか初回のレッスンは終えた。しかし6/8+3/4の拍子が身体に入っていない。今井重幸先生の編曲ができ、練習が進むにつれ、これが課題になってくるだろうという予感。
萩原朔太郎についてもそうだが、研究者ではないので、実践を通じてしか理解できない(また、したくない)。研究者にいわせれば、私は全体を見ていないということになる。伊福部先生についての『音楽家の誕生』が既にそうだ。あの本に書いたことしか知らない。そして、あの本に書いたことだけでは終わらない。1997年に書き終え、10年後の2007年にトロッタを始め、今に至っている。10年後に、『音楽家の誕生』を実践に移した、ということになると思う。ロルカについては、学生時代に天本英世の朗読を聴いた。それが1980年ごろ。そして去年から歌い始めた。30年を経ている。それでもうまく歌えない。思いだけだから。書くことがない。実践が伴っていない。
萩原朔太郎についてもそうだが、研究者ではないので、実践を通じてしか理解できない(また、したくない)。研究者にいわせれば、私は全体を見ていないということになる。伊福部先生についての『音楽家の誕生』が既にそうだ。あの本に書いたことしか知らない。そして、あの本に書いたことだけでは終わらない。1997年に書き終え、10年後の2007年にトロッタを始め、今に至っている。10年後に、『音楽家の誕生』を実践に移した、ということになると思う。ロルカについては、学生時代に天本英世の朗読を聴いた。それが1980年ごろ。そして去年から歌い始めた。30年を経ている。それでもうまく歌えない。思いだけだから。書くことがない。実践が伴っていない。
2012年1月31日火曜日
トロッタ日記120131
一見、音楽とは関係のない話からーー。ここ数日、野上弥生子の長編小説『迷路』を読み進めている。直截の理由は、山本薩夫が晩年に映画化を構想していた作品だから。『戦争と人間』論を書くため、山本が何を考えていたか、知らなければと思って買っておいたまま読んでいなかった。
『戦争と人間』の映画作家が関心を持ったにふさわしい、世界大戦に突入する時代を背景にした知識人の物語。本能だけで生きている、美しく気持ちの強い女性も出る。五味川純平とは別の、“戦争と人間”である。あの小さな野上弥生子の、どこからこんな大きな世界が生まれるのか。
身体の大小をいうのは失礼だが、作家の想像力、構想力を思う。余勢をかって、秋元松代の初期戯曲集と後期戯曲集がYahoo!オークションに出ていたので落札(この文章を書きながら、円地文子との共著『女舞』を落札)。秋元松代は、私が日本で一番に好きな戯曲家のひとりだ。
日本の民俗を背景にしながら、千年単位で人の歴史とエロスをからめて描いた『常陸坊海尊』や『かさぶた式部考』は掛け値なしの傑作。私の中での最高傑作は『七人みさき』である。もちろん、他人のことをすごいとばかりいっていてはいけないので、自分の作品年について考えてみた。
後鳥羽上皇を主人公にした私の「隠岐のバラッド」が、音楽作品だが演劇性を帯びている意味で、秋元作品に匹敵すればと思う。野上弥生子、秋元松代という二人の女性作家について考えるうち、田中修一氏の作品年表を作った影響も大きいだろう、自分の詩をまとめる必要にかられた。
書き放しにするのではなく、自分を見直したい(自分が何を書いたか思い出せない状態なのだ)。昨日は、全6期にまたがって進行中の「詩の通信」を整理。トロッタで発表した詩や、他の主要作についても整理しておこうと思う。繰り返すが、詩集を作りたいとはまったく思っていない。
〈私が詩集に関心を持たない理由〉出版社との交渉には、これまでの体験でうんざりしている。しかし仕事では必要だから、これ以上、心労を増やしたくない。詩集は、どんな著名な詩人でも、自費出版となることは明らか。そして、トロッタこそ私にとっては詩集であると考えている。
詩集がいらない理由は特に最後の点が大きい。昨日書いた、他人の言葉を素直に、心から詠めるのかという点を具体的に考えなければならない問題に直面している。一昨日、日本音楽舞踊会議が3月12日(月)に開催する演奏会のチラシが、橘川琢氏から送られてきたのである(続く)。
「動き、舞踊、所作と音楽」と題された演奏会である。清道氏の『革命幻想歌2』も演奏され、私が出る。橘川氏とは、多少のやりとりがあったが、彼の叙情組曲《日本の小径(こみち)補遺より「春告花(はるつげばな)・三景」》で、詩唱をすることになった。つまり2曲に出る。
詩は私の作品ではなく、橘川氏が書くという。こういう展開になったかと、正直驚いた。橘川氏の詩は、これまでニ度詠んでいる。2007年5月、彼がトロッタに初めて参加した時の「幻灯機」、昨年に谷中ボッサで行った橘川氏個展での「1997年 秋からの呼び声」である。
聴いてくれた人からは、自分の詩よりも他人の詩を詠んでいる方が、妙な力みがなくてよかったという声を聞いた。本当かな? と思う。正直なところ、橘川氏の詩が楽しみ、というよりも不安だ。詩の出来具合とか、そういう失礼な話ではなく、私はどう詠めるのか、という意味で。
『戦争と人間』の映画作家が関心を持ったにふさわしい、世界大戦に突入する時代を背景にした知識人の物語。本能だけで生きている、美しく気持ちの強い女性も出る。五味川純平とは別の、“戦争と人間”である。あの小さな野上弥生子の、どこからこんな大きな世界が生まれるのか。
身体の大小をいうのは失礼だが、作家の想像力、構想力を思う。余勢をかって、秋元松代の初期戯曲集と後期戯曲集がYahoo!オークションに出ていたので落札(この文章を書きながら、円地文子との共著『女舞』を落札)。秋元松代は、私が日本で一番に好きな戯曲家のひとりだ。
日本の民俗を背景にしながら、千年単位で人の歴史とエロスをからめて描いた『常陸坊海尊』や『かさぶた式部考』は掛け値なしの傑作。私の中での最高傑作は『七人みさき』である。もちろん、他人のことをすごいとばかりいっていてはいけないので、自分の作品年について考えてみた。
後鳥羽上皇を主人公にした私の「隠岐のバラッド」が、音楽作品だが演劇性を帯びている意味で、秋元作品に匹敵すればと思う。野上弥生子、秋元松代という二人の女性作家について考えるうち、田中修一氏の作品年表を作った影響も大きいだろう、自分の詩をまとめる必要にかられた。
書き放しにするのではなく、自分を見直したい(自分が何を書いたか思い出せない状態なのだ)。昨日は、全6期にまたがって進行中の「詩の通信」を整理。トロッタで発表した詩や、他の主要作についても整理しておこうと思う。繰り返すが、詩集を作りたいとはまったく思っていない。
〈私が詩集に関心を持たない理由〉出版社との交渉には、これまでの体験でうんざりしている。しかし仕事では必要だから、これ以上、心労を増やしたくない。詩集は、どんな著名な詩人でも、自費出版となることは明らか。そして、トロッタこそ私にとっては詩集であると考えている。
詩集がいらない理由は特に最後の点が大きい。昨日書いた、他人の言葉を素直に、心から詠めるのかという点を具体的に考えなければならない問題に直面している。一昨日、日本音楽舞踊会議が3月12日(月)に開催する演奏会のチラシが、橘川琢氏から送られてきたのである(続く)。
「動き、舞踊、所作と音楽」と題された演奏会である。清道氏の『革命幻想歌2』も演奏され、私が出る。橘川氏とは、多少のやりとりがあったが、彼の叙情組曲《日本の小径(こみち)補遺より「春告花(はるつげばな)・三景」》で、詩唱をすることになった。つまり2曲に出る。
詩は私の作品ではなく、橘川氏が書くという。こういう展開になったかと、正直驚いた。橘川氏の詩は、これまでニ度詠んでいる。2007年5月、彼がトロッタに初めて参加した時の「幻灯機」、昨年に谷中ボッサで行った橘川氏個展での「1997年 秋からの呼び声」である。
聴いてくれた人からは、自分の詩よりも他人の詩を詠んでいる方が、妙な力みがなくてよかったという声を聞いた。本当かな? と思う。正直なところ、橘川氏の詩が楽しみ、というよりも不安だ。詩の出来具合とか、そういう失礼な話ではなく、私はどう詠めるのか、という意味で。
2012年1月30日月曜日
トロッタ日記120130
言葉には何らかの抵抗感が生じる。清道洋一氏への反抗ではない。抵抗感を、意識のある受け止め方と言い換えてもいい。この点が詩と音楽をテーマにする場合の大切な点だろう。彼と話し合いたいというのは、反論するのではなく、詩と音楽にとって肝心な点を話し合いたいということ。昨年のトロッタ13で初演された、清道氏の『ヒトの謝肉祭』でも、似たようなことがあった。テキストは私の詩(だとは、今は思っていない)がそのまま使われたものの、清道氏の意図がつかめず、結局、『ヒトの謝肉祭』は、心から納得のゆく演奏にならなかった。私にも責任がある。繰り返すが清道氏への異論を述べているのではない。互いの齟齬でも抵抗感でもいいが、ここを見つめていかないと、気持ちのいい歌を歌ってそれでおしまい、ということになってしまう。気持ちよくなることは大事でも、無反省になる。互いの相違点こそ、本質に触れる手がかりなのだ。唐突だが、昨日から田中修一氏の作品一覧を作り始め、今朝ほど完成させた。雑誌「ギターの友」で萩原朔太郎について書くうち、朔太郎の詩に依る歌を作り続ける彼の作品を整理する必要を感じたのである。なぜ他人のことで一生懸命になっているのか?結局は私自身のことなのである。田中氏の作品一覧を作りながら感じた。伊福部先生を始め、トロッタで一緒に活動している作曲家にはそれぞれの歴史がある。田中氏の始まりは1987年。2007年に至り、ここからトロッタを始めたのだなと思う。音楽が人生に、人生が音楽になっている。その事実と向き合いたい。
トロッタ日記120129
清道洋一さんから、3月12日(月)に開催される、日本音楽舞踊会議演奏会の楽譜が届いている(10日土曜夜の送信)。『革命幻想歌2』である。2010年12月12日(日)、谷中ボッサで開催した「隠岐のバラッド」にて初演された『革命幻想歌』の続編、とでもいうべき作品。私は後鳥羽上皇、ギターの萩野谷英成さんは楽士英成、それに役者の堀江麗奈さんが、隠岐局麗子役で出演。私は『革命幻想歌2』の詩を書き、彼はそれを構成する形で楽譜に生かした。従って、詩と曲には大きな違いがある。彼の楽譜は、戯曲のように見える。萩野谷さんにはギターのための五線譜が渡されるだろうが、私や堀江さんの楽譜に音符はない。文字があるだけ。それに、いつものことだが、私の詩に加えて彼の言葉も、音楽として加えられている。同じ言葉であるだけに、これをどう詠むかが難しい。清道氏と話し合いたい思いである。これを詠んでくれと、指示されただけでは心から詠めないのが、音符と違う点だ。言葉には、どうしても考え方や感情が入ってくる。まるで他人の作品ではない、私の詩が清道氏のテキストと融合している点も問題である。音の連なりにも、これは自分の感情と合わない場合があるだろう。伊福部先生の『日本狂詩曲』には日本の民謡が生かされているが、それを演奏者が抵抗しながら弾いた、などというエピソードがそれにあたる。日本人だから抵抗してしまう場合がある。私にせよ、心から日本民謡を歌えるだろうか? ロルカが採譜したスペインの民謡を歌っているのに。
2012年1月29日日曜日
トロッタ日記120128
ギターの長谷部二郎先生が編集する「ギターの友」2月号のための校正を行っている。私の連載「ギターとランプ」は今回が11回目。〈田中修一と萩原朔太郎〉と題し、詩と音楽を追究した萩原朔太郎と、その詩に依る曲を作っているトロッタの作曲家、田中修一について書いた。
「ギターとランプ」9回は田中修一の『鳥ならで』について書き、10回は『遺傳』について書いた(3、4回で『ムーヴメントNo.3』についても書いた)。田中修一が続いている。ギター曲を書く作曲家であり、朔太郎の詩で曲を書いているのだから、自然と取り上げることになる。
また「ギターの友」では、「コンサートの余韻」ページにも書いた。昨年の世田谷文学館「生誕125年 萩原朔太郎」展のマンドリン&ギター・コンサート、高柳未来と鈴木大介の演奏について。時間の都合で後半しか聴けなかったが、朔太郎と音楽の関わりを考える、よい機会となった。
朔太郎は通常の詩人ではなかった。音楽家でもある詩人だった。彼なりの言い方だと、音楽家になりたいのになれなかった詩人、ということになるかもしれない。詩人として楽器を弾けた重要性を想う。私は研究者ではないと肝に銘じつつ、音楽面から朔太郎について考える重要性を思う。
先に、伊福部昭先生と更科源蔵氏をめぐって考え、今は朔太郎に行き着いた。将来は、前橋で朔太郎に関係した演奏会を開きたいと思う。私に力があれば、昨年、すでに世田谷文学館で開けたはずなのだ。焦ることはない。これらを考えの根本に置いて、トロッタなどで実践していきたい。
「ギターとランプ」9回は田中修一の『鳥ならで』について書き、10回は『遺傳』について書いた(3、4回で『ムーヴメントNo.3』についても書いた)。田中修一が続いている。ギター曲を書く作曲家であり、朔太郎の詩で曲を書いているのだから、自然と取り上げることになる。
また「ギターの友」では、「コンサートの余韻」ページにも書いた。昨年の世田谷文学館「生誕125年 萩原朔太郎」展のマンドリン&ギター・コンサート、高柳未来と鈴木大介の演奏について。時間の都合で後半しか聴けなかったが、朔太郎と音楽の関わりを考える、よい機会となった。
朔太郎は通常の詩人ではなかった。音楽家でもある詩人だった。彼なりの言い方だと、音楽家になりたいのになれなかった詩人、ということになるかもしれない。詩人として楽器を弾けた重要性を想う。私は研究者ではないと肝に銘じつつ、音楽面から朔太郎について考える重要性を思う。
先に、伊福部昭先生と更科源蔵氏をめぐって考え、今は朔太郎に行き着いた。将来は、前橋で朔太郎に関係した演奏会を開きたいと思う。私に力があれば、昨年、すでに世田谷文学館で開けたはずなのだ。焦ることはない。これらを考えの根本に置いて、トロッタなどで実践していきたい。
2012年1月27日金曜日
トロッタ日記120127
今井重幸先生を久しぶりに訪問。トロッタ15の打ち合わせ。トロッタ16の出品曲、さらに運営面についてなど、今後のことも含めて話し合う。トロッタ14に出品されたフルートとチェロのための『対話と変容』のモティーフを、ロルカの民謡13曲のうち、どの曲から得たかをうかがう。『ソロンゴ』であった。ちょうど、トロッタ15で歌うことになっている。すでに歌ったか、いずれは歌うことになる曲から得られたのは明らかだったが、それが次回の曲である偶然を不思議に思う。『対話と変容』を受けた対話、ということになるからだ。
今井先生と確認をしたことで、トロッタ15に出品する作曲家全員と、最終的な確認ができたことになる。今井先生とも電話では打ち合わせしていたが、顔を合わせての確認はまだだったから。電話だけでは不足だ。これで曲は決まった。残りは演奏者を、最終的に決定しなければならない。出演者によっては、すぐ返事をいただけない方もある。5月だから先のことであるが、人によってはもう前後の予定が決まってしまっている人がいる。早いか遅いかは人によって違う。3月には、仮チラシを使った宣伝を始めたいと思っている。ブログでの宣伝はすぐにも始めたい。
今井先生と確認をしたことで、トロッタ15に出品する作曲家全員と、最終的な確認ができたことになる。今井先生とも電話では打ち合わせしていたが、顔を合わせての確認はまだだったから。電話だけでは不足だ。これで曲は決まった。残りは演奏者を、最終的に決定しなければならない。出演者によっては、すぐ返事をいただけない方もある。5月だから先のことであるが、人によってはもう前後の予定が決まってしまっている人がいる。早いか遅いかは人によって違う。3月には、仮チラシを使った宣伝を始めたいと思っている。ブログでの宣伝はすぐにも始めたい。
2012年1月26日木曜日
トロッタ日記120126
草月ホールの「日本の音楽展XXXIV」にて、甲田潤さんの、ピアノのための『変容』が演奏される。いつ聴いてもクールな、都会的な曲である。このような曲を、というと甲田さんに失礼で、自分のコピーを、ということではないが、甲田さんには『変容』のような新曲をお願いしたいものだ。奏者は、野田昌子さん。トロッタでは、並木桂子さんに演奏していただいた。
ルーテル市ヶ谷センターホールの「虹"KOU"二十五絃箏コンサートVOL.1」にて、田中修一さんの、二十五絃箏五重奏のための小組曲『PETIT SUITE pour Quintour a Kotos』(a にアクサン)が初演される。伊福部先生の二十五絃箏甲乙奏合『七ツのヴェールの踊り』『ヨカナーンの首級(みしるし)を得て、乱れるサロメ』に続いての演奏だった。
可能性として、しばしば考えていること。『音楽家の誕生』に始まる伊福部昭先生に関する、4作目の原稿を書き継ぎたい、ということ。トロッタがそれだと開き直ることもできるのだが。田中氏の曲に先立って演奏された、伊福部先生のバレエ曲『サロメ』に依る2曲を聴いていて、またそのことを思った。
長谷部二郎先生編集の雑誌「ギターの友」に、連載原稿「ギターとランプ」、演奏会ルポとして「コンサートの余韻」を書いた。その初校が、今夜、出る予定。「ギターとランプ」は、引き続いての田中修一論だが、世田谷文学館の萩原朔太郎展コンサートを報告した「余韻」と合わせて、朔太郎について論じたもの。何度となく、研究者ではないが、と断ってはいるものの、書きたい気持ちがあることは事実である。
ルーテル市ヶ谷センターホールの「虹"KOU"二十五絃箏コンサートVOL.1」にて、田中修一さんの、二十五絃箏五重奏のための小組曲『PETIT SUITE pour Quintour a Kotos』(a にアクサン)が初演される。伊福部先生の二十五絃箏甲乙奏合『七ツのヴェールの踊り』『ヨカナーンの首級(みしるし)を得て、乱れるサロメ』に続いての演奏だった。
可能性として、しばしば考えていること。『音楽家の誕生』に始まる伊福部昭先生に関する、4作目の原稿を書き継ぎたい、ということ。トロッタがそれだと開き直ることもできるのだが。田中氏の曲に先立って演奏された、伊福部先生のバレエ曲『サロメ』に依る2曲を聴いていて、またそのことを思った。
長谷部二郎先生編集の雑誌「ギターの友」に、連載原稿「ギターとランプ」、演奏会ルポとして「コンサートの余韻」を書いた。その初校が、今夜、出る予定。「ギターとランプ」は、引き続いての田中修一論だが、世田谷文学館の萩原朔太郎展コンサートを報告した「余韻」と合わせて、朔太郎について論じたもの。何度となく、研究者ではないが、と断ってはいるものの、書きたい気持ちがあることは事実である。
2012年1月20日金曜日
トロッタ15通信.48
トロッタ14通信〈記録〉.10
Concerto da camera
〈作曲 酒井健吉〉
この作品はデュエアゴースト国際作曲コンクールの依頼により作曲したものです。2009年7月7日に脱稿し翌2010年2月26日にナポリで行われた国際音楽祭“モーツァルトボックス2010”においてリッカルド・ケニー指揮アンサンブル・デュエアゴーストで初演されました。その後も同アンサンブルのレパートリーとして各地で演奏されています。今回の演奏は日本初演となります。短い作品ですがお楽しみいただけたら幸いです。〈酒井健吉〉
フルート*八木ちはる クラリネット*藤本彩花 〈弦楽四重奏〉Vn.戸塚ふみ代 Vn.田口 薫 Va.仁科拓也 Vc.小島遼子 ピアノ*森川あづさ
【記録】酒井健吉が、久々にトロッタの舞台に立ってくれた。曲の出品はトロッタ11以来。トロッタ12に出品予定だったが、事情があって取りやめとなっていた。この曲に詩唱パートはないので、私の筆では書きにくい(曲はYouTubeでお聴きいただきたい)。詩唱のない、音楽の純粋性を味わえる曲であろう。
Concerto da cameraとは、“室内協奏曲”ということ。独奏楽器的な役割は、ピアノが受け持ったといえる。トロッタ6、トロッタ7にイタリアから出品してくれたファブリチオ・フェスタから、アンサンブルのための曲を創ってくれないかと、酒井に要請があった。モーツァルトの曲をモティーフに、全体をコラージュのようにして仕上げた。イタリアではすでに何度も演奏されて好評だという。そして、過去にいくつかの例があることだが、人名のアルファベット表記から音名を取り、それを曲の主題に生かした。その人物は酒井健吉にとって忘れがたい大切な存在だ。人の記憶、自分の記憶、互いの思いといったもので曲を作ったといえるだろう。即興演奏の個所もいくつかある。奏者の自由にまかせる。譜面どおりに演奏することも大事だが、曲の時間を生きる中で、思いのまま振る舞ってもらおうとしたのだろう。酒井は長崎から本番当日に来たのだが、あわただしく、ただでさえ時間のない中、よく息を合わせてくれたと思う。
トロッタ15では、酒井健吉に依頼して、『トロッタ、七年の夢』を演奏予定だ。もともとは、中川博正の詩唱を生かそうと、『トロッタで見た夢』の短いバージョンを酒井に依頼した。それを、せっかくの機会だからと、新曲を作ることになったのである。酒井健吉とは、これまで多くの曲を共同製作してきたが、彼が主宰する長崎の演奏会に出るなどしたことが、トロッタに結びついていることは間違いない。トロッタの初回から出品してくれて、トロッタの土台、スタイルを作ることに力を尽くしてくれたことも間違いない。出品に関しては途中で空白期間があったが、酒井の作った歴史は少しも損なわれない。トロッタに、比較的大きな楽器編成が取り入れられるようになったのも、トロッタ4の酒井の曲『夜が吊るした命』以来のことなのである。
思うこと−−。トロッタでは、詩唱が入る曲、歌が入る曲、『Concerto da camera』のように楽器のみの曲がある。無伴奏の詩唱曲、歌曲があってもいいだろう。それぞれ違うのだが、音楽として、分けたくない気持ちがある。それはしたくないと思うものに、よくいうことだが、朗読の背景に曲を流す、音楽にはBGMの役割を求めるスタイルがある。私はそれを安易だと思っている。バックではない、同一線上に朗読と音楽があってほしい。五線譜を使うなら、そこに詩唱のパートを作ってほしいし、上下の楽器パートと厳密な関わりを持たせてほしい。それが私の考える詩唱曲だ。表現は違うが、歌と同じである。それなら−−、例えば酒井健吉の『Concerto da camera』の中に詩があると考えられないだろうか。酒井は、大切な人への思いを、名前に通じる音名を使うことで、曲にこめた。心情の反映だ。文学的な行為だと受け取れる。器楽曲にも心情がある。詩唱曲と歌曲にはもちろんある。三者を共通したものとして、私は受け取っている。『Concerto da camera』作曲の背景を知らない場合でも、聴いているのは人だから、人それぞれの詩がある、詩情がある、詩の心で音楽を受け止めているといえまいか。音楽の心で受け止める。詩の心で受け止めている。表現が文学的に過ぎるといって、ただ音響がそこにあるだけだと、即物的には思いたくないのである。ただし、何かを連想するのは違うかも知れない。連想してもいいかも知れないし、何も思うなというのは生きた人間に対して無理だろうが、まず音響に身をゆだねたい。先入観を持って聴くのではない。音響が生み出すものを感じる。そこからだろう、音楽としての詩が始まるのは。
Concerto da camera
〈作曲 酒井健吉〉
この作品はデュエアゴースト国際作曲コンクールの依頼により作曲したものです。2009年7月7日に脱稿し翌2010年2月26日にナポリで行われた国際音楽祭“モーツァルトボックス2010”においてリッカルド・ケニー指揮アンサンブル・デュエアゴーストで初演されました。その後も同アンサンブルのレパートリーとして各地で演奏されています。今回の演奏は日本初演となります。短い作品ですがお楽しみいただけたら幸いです。〈酒井健吉〉
フルート*八木ちはる クラリネット*藤本彩花 〈弦楽四重奏〉Vn.戸塚ふみ代 Vn.田口 薫 Va.仁科拓也 Vc.小島遼子 ピアノ*森川あづさ
【記録】酒井健吉が、久々にトロッタの舞台に立ってくれた。曲の出品はトロッタ11以来。トロッタ12に出品予定だったが、事情があって取りやめとなっていた。この曲に詩唱パートはないので、私の筆では書きにくい(曲はYouTubeでお聴きいただきたい)。詩唱のない、音楽の純粋性を味わえる曲であろう。
Concerto da cameraとは、“室内協奏曲”ということ。独奏楽器的な役割は、ピアノが受け持ったといえる。トロッタ6、トロッタ7にイタリアから出品してくれたファブリチオ・フェスタから、アンサンブルのための曲を創ってくれないかと、酒井に要請があった。モーツァルトの曲をモティーフに、全体をコラージュのようにして仕上げた。イタリアではすでに何度も演奏されて好評だという。そして、過去にいくつかの例があることだが、人名のアルファベット表記から音名を取り、それを曲の主題に生かした。その人物は酒井健吉にとって忘れがたい大切な存在だ。人の記憶、自分の記憶、互いの思いといったもので曲を作ったといえるだろう。即興演奏の個所もいくつかある。奏者の自由にまかせる。譜面どおりに演奏することも大事だが、曲の時間を生きる中で、思いのまま振る舞ってもらおうとしたのだろう。酒井は長崎から本番当日に来たのだが、あわただしく、ただでさえ時間のない中、よく息を合わせてくれたと思う。
トロッタ15では、酒井健吉に依頼して、『トロッタ、七年の夢』を演奏予定だ。もともとは、中川博正の詩唱を生かそうと、『トロッタで見た夢』の短いバージョンを酒井に依頼した。それを、せっかくの機会だからと、新曲を作ることになったのである。酒井健吉とは、これまで多くの曲を共同製作してきたが、彼が主宰する長崎の演奏会に出るなどしたことが、トロッタに結びついていることは間違いない。トロッタの初回から出品してくれて、トロッタの土台、スタイルを作ることに力を尽くしてくれたことも間違いない。出品に関しては途中で空白期間があったが、酒井の作った歴史は少しも損なわれない。トロッタに、比較的大きな楽器編成が取り入れられるようになったのも、トロッタ4の酒井の曲『夜が吊るした命』以来のことなのである。
思うこと−−。トロッタでは、詩唱が入る曲、歌が入る曲、『Concerto da camera』のように楽器のみの曲がある。無伴奏の詩唱曲、歌曲があってもいいだろう。それぞれ違うのだが、音楽として、分けたくない気持ちがある。それはしたくないと思うものに、よくいうことだが、朗読の背景に曲を流す、音楽にはBGMの役割を求めるスタイルがある。私はそれを安易だと思っている。バックではない、同一線上に朗読と音楽があってほしい。五線譜を使うなら、そこに詩唱のパートを作ってほしいし、上下の楽器パートと厳密な関わりを持たせてほしい。それが私の考える詩唱曲だ。表現は違うが、歌と同じである。それなら−−、例えば酒井健吉の『Concerto da camera』の中に詩があると考えられないだろうか。酒井は、大切な人への思いを、名前に通じる音名を使うことで、曲にこめた。心情の反映だ。文学的な行為だと受け取れる。器楽曲にも心情がある。詩唱曲と歌曲にはもちろんある。三者を共通したものとして、私は受け取っている。『Concerto da camera』作曲の背景を知らない場合でも、聴いているのは人だから、人それぞれの詩がある、詩情がある、詩の心で音楽を受け止めているといえまいか。音楽の心で受け止める。詩の心で受け止めている。表現が文学的に過ぎるといって、ただ音響がそこにあるだけだと、即物的には思いたくないのである。ただし、何かを連想するのは違うかも知れない。連想してもいいかも知れないし、何も思うなというのは生きた人間に対して無理だろうが、まず音響に身をゆだねたい。先入観を持って聴くのではない。音響が生み出すものを感じる。そこからだろう、音楽としての詩が始まるのは。
トロッタ15通信.47
トロッタ14通信〈記録〉.9
「朗読と室内楽のためのポエジー 蝶の記憶」【2011】
“Memory of Butterfly” POESY for Narration and Chamber Ensemble
本作は前回「トロッタ13」終了後、翌月から着手、本年2011年夏に脱稿、今夜が初演である。作者としては初の、朗読と器楽のための作品であり、器楽編成は木管四重奏(フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット)、さらに曲の作風も、これまでメインで書いてきた「調性&メロディ路線」とは180度異なる世界で、コンテンポラリーを意識した抽象的なものをねらっている。ゆえに本作は作者にとって、かなりの意を決した冒険作となった。本作のテキストになる木部氏の詩「蝶の記憶」は、実は昨年「トロッタ12」で初演された女声合唱曲「北方譚詩」の候補として書かれたものであったが今回、新たな形態でそれが生きることを期待する。〈堀井友徳〉
フルート*八木ちはる オーボエ*三浦 舞 クラリネット*藤本彩花 チェロ*香月圭佑
【記録】『祝いの花』と同じく、この曲も事情があってファゴットがチェロに代わった。その影響は、もともと木管四重奏曲として構想された『蝶の記憶』の方が大きかった。しかし、チェリスト香月圭佑の努力によって、お聴ききいただく側に大きな違和感はなかったはずである。
私が詩唱を務めた。堀井友徳はこれまで、トロッタ12で女声三部とピアノのための「北方譚詩」 1.北都七星 2.凍歌 、トロッタ13で混声四部とピアノのための「北方譚詩 第二番」1.運河の町 2.森と海への頌歌を発表してきた。堀井自身が書いている、調性とメロディの路線を続けてきたが、この作品は180度違うもので、コンテンポラリーを意識した抽象的なものを狙った。自身にとっての冒険作だ、と。
私もまた、詩唱が入ることで、調性とメロディの路線を踏み外すものになるだろう思った。これまでがそうなら問題ないが、180度違うとどうなるのか、と。結果は、危惧にはあたらない。杞憂であった。『蝶の記憶』は、詩唱が入る曲として出色の作品になった。
演奏はともかく、歌ではない詩唱で、調性とメロディを維持するのは無理である。詩唱は宿命的に、伝統的な音楽の路線からはずれている。それをすすんで引き受けようとした点に、堀井の意気込みがあった。私は別に、前衛的であろうとも、クラシックの伝統を守ろうとも、どちらも思っていない。伝統があるから前衛があるのだし、前衛があるから伝統にも意味があると思っている。両者は切り離せないのだ。したいことをすればよい。ただし、する側に、作曲者であれ演奏者であれ、必然がなければならない。他人が何といおうと、これをしたいのだという決意があれば、何をしてもかまわない。その意味で、堀井友徳の決意に、私は向き合おうと思った。
詩唱について。どうであろう、私の声でよかったのだろうか? 仮に女声であればどうなったか、男声でももっと優しい、澄んだ声ならどうなったか? 堀井から、声の質(明るく、暗くなど)や詠み方(緩急の使い分け、声量の調整など)への注文は、特になかった。となると、あの詠み方でよかったのか。歌のレッスンをしていて、常にいわれること。私はバス・バリトンの声域だが、声の質は明るく保ちたい、と。いきなりだが、テノールだったらどうだったか。女声でアルトだったらどうか? それを最も知りたいのは私である。他の人の声で聴いてみたい。−『蝶の記憶』を、詩唱・木部から切り離して独立させたい。木部がいないと演奏できない、のではもったいない。それは『蝶の記憶』に限らず、酒井健吉の『天の川』や橘川琢の『花の記憶』についてもいえることだ−
「朗読と室内楽のためのポエジー 蝶の記憶」【2011】
“Memory of Butterfly” POESY for Narration and Chamber Ensemble
本作は前回「トロッタ13」終了後、翌月から着手、本年2011年夏に脱稿、今夜が初演である。作者としては初の、朗読と器楽のための作品であり、器楽編成は木管四重奏(フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット)、さらに曲の作風も、これまでメインで書いてきた「調性&メロディ路線」とは180度異なる世界で、コンテンポラリーを意識した抽象的なものをねらっている。ゆえに本作は作者にとって、かなりの意を決した冒険作となった。本作のテキストになる木部氏の詩「蝶の記憶」は、実は昨年「トロッタ12」で初演された女声合唱曲「北方譚詩」の候補として書かれたものであったが今回、新たな形態でそれが生きることを期待する。〈堀井友徳〉
フルート*八木ちはる オーボエ*三浦 舞 クラリネット*藤本彩花 チェロ*香月圭佑
【記録】『祝いの花』と同じく、この曲も事情があってファゴットがチェロに代わった。その影響は、もともと木管四重奏曲として構想された『蝶の記憶』の方が大きかった。しかし、チェリスト香月圭佑の努力によって、お聴ききいただく側に大きな違和感はなかったはずである。
私が詩唱を務めた。堀井友徳はこれまで、トロッタ12で女声三部とピアノのための「北方譚詩」 1.北都七星 2.凍歌 、トロッタ13で混声四部とピアノのための「北方譚詩 第二番」1.運河の町 2.森と海への頌歌を発表してきた。堀井自身が書いている、調性とメロディの路線を続けてきたが、この作品は180度違うもので、コンテンポラリーを意識した抽象的なものを狙った。自身にとっての冒険作だ、と。
私もまた、詩唱が入ることで、調性とメロディの路線を踏み外すものになるだろう思った。これまでがそうなら問題ないが、180度違うとどうなるのか、と。結果は、危惧にはあたらない。杞憂であった。『蝶の記憶』は、詩唱が入る曲として出色の作品になった。
演奏はともかく、歌ではない詩唱で、調性とメロディを維持するのは無理である。詩唱は宿命的に、伝統的な音楽の路線からはずれている。それをすすんで引き受けようとした点に、堀井の意気込みがあった。私は別に、前衛的であろうとも、クラシックの伝統を守ろうとも、どちらも思っていない。伝統があるから前衛があるのだし、前衛があるから伝統にも意味があると思っている。両者は切り離せないのだ。したいことをすればよい。ただし、する側に、作曲者であれ演奏者であれ、必然がなければならない。他人が何といおうと、これをしたいのだという決意があれば、何をしてもかまわない。その意味で、堀井友徳の決意に、私は向き合おうと思った。
詩唱について。どうであろう、私の声でよかったのだろうか? 仮に女声であればどうなったか、男声でももっと優しい、澄んだ声ならどうなったか? 堀井から、声の質(明るく、暗くなど)や詠み方(緩急の使い分け、声量の調整など)への注文は、特になかった。となると、あの詠み方でよかったのか。歌のレッスンをしていて、常にいわれること。私はバス・バリトンの声域だが、声の質は明るく保ちたい、と。いきなりだが、テノールだったらどうだったか。女声でアルトだったらどうか? それを最も知りたいのは私である。他の人の声で聴いてみたい。−『蝶の記憶』を、詩唱・木部から切り離して独立させたい。木部がいないと演奏できない、のではもったいない。それは『蝶の記憶』に限らず、酒井健吉の『天の川』や橘川琢の『花の記憶』についてもいえることだ−
2012年1月19日木曜日
トロッタ15通信.46
トロッタ14通信〈記録〉.8
ムーヴメントNo.5~木部与巴仁「亂譜 樂園」に依る
MOVEMENT No.5 (poem by KIBE Yohani “RAN-FU”, PARADISE)
for Solo Voice,Oboe,Piano and Contrabass
〈作曲 田中修一/詩 木部与巴仁〉
木部与巴仁氏がハラルト・シュテュンプケ著『鼻行類』(鼻行類は南太平洋のハイアイアイ群島に生息し、核実験の影響で島と共に沈んでしまったという哺乳類である。)に取材して2010年12月5日に詩「亂譜 楽園」を送ってくれたが、そのままになってしまっていた。後になって「樂園」という題名につよく惹かれて、新たに此の詩と向き合うと、別の意味を持って私に迫って来たのであった。一連の「MOVEMENT」はデフォルメされた音楽様式となっているが此の作品でもそれが顕著にあらわれている。〈田中修一〉
ソプラノ*赤羽佐東子 オーボエ*三浦 舞 コントラバス*丹野敏広 ピアノ*徳田絵里子
【記録】トロッタ3以来の『MOVEMENT』シリーズが、これで5曲目となった。曲は、やはりトロッタ14で演奏された、田中が師と仰ぐ伊福部昭先生の『蒼鷺』と同じ編成である。
田中修一とは、詩をめぐって話をすることが多い。トロッタ14を終えて以降は特に、田中が影響を受けた萩原朔太郎について、考えを聞かせてもらっている。直接の理由は、雑誌「ギターの友」に、田中修一と朔太郎に関する原稿を書くため。ただ、田中も私も研究者ではないから、限界はある。新事実に行き当たったり、未知の論を展開することはない。中学生のころから朔太郎に読みふけっていたという田中なら、あるいは、朔太郎研究の最先端にいるかもしれないが、私はそうではない(こんな風に比較的に書かれることを田中はよしとすまい)。少なくとも田中には、朔太郎同様、詩と音楽の関係に、確固とした思いがある。そして私は、彼の考えを全面的に受け容れるようにしている。詩句を変更することも、削除することも、順序を入れ替えることもかまわない。詩の言葉は私のものだから、田中の生理や感覚や理論に合わない場合が当然出てくる。また私は芝居をしていた経験から、戯曲を舞台にする場合、様々な事情で台詞などは書き換えるものだと思っている(書き換えをよしとしない作家も当然いる。私は書き換えてよい考えだ)。芝居も音楽も生き物なので、一言一句変えてはならないとは思えないのだ(音符はどうだろうか? 例えば、弾きやすいように変えてよいだろうか? 弾きにくくてもそのまま弾くことで、作曲家の思想が現れる、という考えはあるだろう)。ーーともかく、私の詩『樂園』は、楽曲化にあたり、田中の手で書き換えられた。どう違うのか検証する。掲げるのは原詩。括弧内に、田中による変更点を記した。なお、ここでは逐一記さなかったが、田中は「楽園」を「樂園」、「声」を「聲」、「会いに」を「會ひに」のように、文字表記をすべて正字体、歴史的仮名遣いにしていることを付け加えておく。
*
楽園
木部与巴仁
わたしの声が聞こえたら
返事をください
わたしの声が聞こえたら
海を越えて
会いに来てください
長く暗い闘いの果てに
残された者たちの
静かな営みがあった
何処から来て此処にいる
(*以下カット)見たことのない
不思議な仕草で
草を食(は)み
水をすくう(*ここまでカット)
閉ざされた島の
平和な時間(とき)は
知る者もなく流れてゆく
(*以下カット)いつからだろう
目覚まし時計の力を借りず
午前三時に目を醒ますようになったのは
孤独の荷を下ろした
ひとりの時間
窓から見える
あの山の向こうで
誰かが男を呼んでいた
妻と子は
何も知らない(*ここまでカット)
わたしの声が聞こえたら
あなたの目(*眼〈まなこ〉に変更)を閉じてください
わたしの声が聞こえたら
窓を開けて
ベランダに出てください(*「窓を開けてください」に変更)
美しいと
思う者もないのに美しい
(*以下カット)賞賛ではなく
感嘆でもなかった(*ここまでカット)
彼らの国はただ
青い海に浮かんでいた
見える
一羽の男が(*「一羽の鳥が」に変更)
気流に乗って飛んでゆく
海という海の
風を集めて
ただひとつ残された
楽園をめざし
千年(*「幾千年」に変更)
(*以下カット)なりたいのになれなかった
それは男の
理想の形(*ここまでカット)
「見たことのない/不思議な仕草で/草を食(は)み/水をすくう」や「賞賛ではなく/感嘆でもなかった」「なりたいのになれなかった/それは男の/理想の形」のカットには、それぞれ個別の理由があるようだ。説明的にしない、細部にわたらない、聴き手の想像力を信頼し、ゆだねる、など。しかし、第三連「いつからだろう/目覚まし時計の力を借りず/午前三時に目を醒ますようになったのは/孤独の荷を下ろした/ひとりの時間/窓から見える/あの山の向こうで/誰かが男を呼んでいた/妻と子は/何も知らない」のカットは、事情が違うようだ。プライベートに関わる個所をカットしたのである。田中はいったことがある。日常的な描写は好まない、と。詩の書き手としては、プライベートを大切にしたい気持ちがある。文学なら、それは重要。しかし音楽としては、田中は音楽家だから、重要ではないと判断したのだろう。その違いを、しかし私は結び合わせたい。どうすれば結び合わせられるか。田中修一との共同作業では、常にそのテーマに直面する。
ムーヴメントNo.5~木部与巴仁「亂譜 樂園」に依る
MOVEMENT No.5 (poem by KIBE Yohani “RAN-FU”, PARADISE)
for Solo Voice,Oboe,Piano and Contrabass
〈作曲 田中修一/詩 木部与巴仁〉
木部与巴仁氏がハラルト・シュテュンプケ著『鼻行類』(鼻行類は南太平洋のハイアイアイ群島に生息し、核実験の影響で島と共に沈んでしまったという哺乳類である。)に取材して2010年12月5日に詩「亂譜 楽園」を送ってくれたが、そのままになってしまっていた。後になって「樂園」という題名につよく惹かれて、新たに此の詩と向き合うと、別の意味を持って私に迫って来たのであった。一連の「MOVEMENT」はデフォルメされた音楽様式となっているが此の作品でもそれが顕著にあらわれている。〈田中修一〉
ソプラノ*赤羽佐東子 オーボエ*三浦 舞 コントラバス*丹野敏広 ピアノ*徳田絵里子
【記録】トロッタ3以来の『MOVEMENT』シリーズが、これで5曲目となった。曲は、やはりトロッタ14で演奏された、田中が師と仰ぐ伊福部昭先生の『蒼鷺』と同じ編成である。
田中修一とは、詩をめぐって話をすることが多い。トロッタ14を終えて以降は特に、田中が影響を受けた萩原朔太郎について、考えを聞かせてもらっている。直接の理由は、雑誌「ギターの友」に、田中修一と朔太郎に関する原稿を書くため。ただ、田中も私も研究者ではないから、限界はある。新事実に行き当たったり、未知の論を展開することはない。中学生のころから朔太郎に読みふけっていたという田中なら、あるいは、朔太郎研究の最先端にいるかもしれないが、私はそうではない(こんな風に比較的に書かれることを田中はよしとすまい)。少なくとも田中には、朔太郎同様、詩と音楽の関係に、確固とした思いがある。そして私は、彼の考えを全面的に受け容れるようにしている。詩句を変更することも、削除することも、順序を入れ替えることもかまわない。詩の言葉は私のものだから、田中の生理や感覚や理論に合わない場合が当然出てくる。また私は芝居をしていた経験から、戯曲を舞台にする場合、様々な事情で台詞などは書き換えるものだと思っている(書き換えをよしとしない作家も当然いる。私は書き換えてよい考えだ)。芝居も音楽も生き物なので、一言一句変えてはならないとは思えないのだ(音符はどうだろうか? 例えば、弾きやすいように変えてよいだろうか? 弾きにくくてもそのまま弾くことで、作曲家の思想が現れる、という考えはあるだろう)。ーーともかく、私の詩『樂園』は、楽曲化にあたり、田中の手で書き換えられた。どう違うのか検証する。掲げるのは原詩。括弧内に、田中による変更点を記した。なお、ここでは逐一記さなかったが、田中は「楽園」を「樂園」、「声」を「聲」、「会いに」を「會ひに」のように、文字表記をすべて正字体、歴史的仮名遣いにしていることを付け加えておく。
*
楽園
木部与巴仁
わたしの声が聞こえたら
返事をください
わたしの声が聞こえたら
海を越えて
会いに来てください
長く暗い闘いの果てに
残された者たちの
静かな営みがあった
何処から来て此処にいる
(*以下カット)見たことのない
不思議な仕草で
草を食(は)み
水をすくう(*ここまでカット)
閉ざされた島の
平和な時間(とき)は
知る者もなく流れてゆく
(*以下カット)いつからだろう
目覚まし時計の力を借りず
午前三時に目を醒ますようになったのは
孤独の荷を下ろした
ひとりの時間
窓から見える
あの山の向こうで
誰かが男を呼んでいた
妻と子は
何も知らない(*ここまでカット)
わたしの声が聞こえたら
あなたの目(*眼〈まなこ〉に変更)を閉じてください
わたしの声が聞こえたら
窓を開けて
ベランダに出てください(*「窓を開けてください」に変更)
美しいと
思う者もないのに美しい
(*以下カット)賞賛ではなく
感嘆でもなかった(*ここまでカット)
彼らの国はただ
青い海に浮かんでいた
見える
一羽の男が(*「一羽の鳥が」に変更)
気流に乗って飛んでゆく
海という海の
風を集めて
ただひとつ残された
楽園をめざし
千年(*「幾千年」に変更)
(*以下カット)なりたいのになれなかった
それは男の
理想の形(*ここまでカット)
「見たことのない/不思議な仕草で/草を食(は)み/水をすくう」や「賞賛ではなく/感嘆でもなかった」「なりたいのになれなかった/それは男の/理想の形」のカットには、それぞれ個別の理由があるようだ。説明的にしない、細部にわたらない、聴き手の想像力を信頼し、ゆだねる、など。しかし、第三連「いつからだろう/目覚まし時計の力を借りず/午前三時に目を醒ますようになったのは/孤独の荷を下ろした/ひとりの時間/窓から見える/あの山の向こうで/誰かが男を呼んでいた/妻と子は/何も知らない」のカットは、事情が違うようだ。プライベートに関わる個所をカットしたのである。田中はいったことがある。日常的な描写は好まない、と。詩の書き手としては、プライベートを大切にしたい気持ちがある。文学なら、それは重要。しかし音楽としては、田中は音楽家だから、重要ではないと判断したのだろう。その違いを、しかし私は結び合わせたい。どうすれば結び合わせられるか。田中修一との共同作業では、常にそのテーマに直面する。
2012年1月18日水曜日
トロッタ15通信.45
トロッタ14通信.7
ロルカのカンシオネス [スペインの歌] V - VII
〈採譜と曲 フェデリコ=ガルシア・ロルカ/編曲 今井重幸〉
V.「ハエンのムーア娘たち」VI.「三枚の葉」VII.「ドン・ボイソのロマンセ」
ガルシア・ロルカの『13のスペイン古謡』をトロッタの会として演奏する、シリーズ2回目。それが至難のことなのだが、現代ではなく古い味わいをどのようにして表現するか。前回の「18世紀のセビジャーナス」など、300年前の時代が明確に指定されている。今回の「ハエンのモーロ娘」など、15-16世紀の王宮歌曲であったというからさらに古い。今井重幸の編曲を得て、困難に挑戦してみたい。〈K〉
詩唱*木部与巴仁 ギター*萩野谷英成 〈弦楽四重奏〉ヴァイオリン*戸塚ふみ代 ヴァイオリン*田口薫 ヴィオラ*仁科拓也 チェロ*小島遼子
【記録】土台、それが私には無理であることはわかっている……。詩人ピエール・バルーによるドキュメンタリー『SARAVAH』に描かれたブラジル人音楽家たちの姿が、理想のひとつである。街角でも、レストランでも、歌いたい、演奏したいと思った時に、彼らは音楽を形にできる。ロルカが採譜したスペインの民謡においても、その担い手たちは、やはり同様だろう。歌いたい時に歌える。そして形にできる。しかし、私は無理だった。練習しても無理だった。前回と今回、ほぼ半年ずつ、練習してきた。ひとりで練習しているのではない、先生に聴いてもらって練習しているのである。だが、その練習が本番で生きていないと感じる。スペインの民謡を私が歌うこと自体に無理があるのかも知れない。あるいは、今井重幸先生の編曲に、乗り切れていないのかもしれない。
志はよい。詩人ロルカが、詩と音楽の幸福な結びつきの形としてアンダルシアの民謡に着目し、それを採譜した。13曲、今に伝わっている。詩と音楽を志す者なら、その先達であるロルカに共感するのが当然で、私もそうだから、自らロルカの民謡を歌い、彼の思いを形にしてみせようとした。しかし、納得がいかない。役者の天本英世が、13曲を歌えるようになったとエッセイに書き(「フラメンコの歌となるとこれは難しくて私はとても歌えないが、この「ロルカの13の民謡」は何とか全部唄えるようになった。どれを唄ってみても、全く素晴らしい、これぞスペインの民謡という歌ばかりである」『スペイン回想』より)、彼に倣おうという気持ちもあった。しかし、倣うことができない。いったい天本英世は、どのように歌ったのか? 私の中に音楽がない、文学はあっても、音楽がない。文学もないのか? いや、私の中にスペインが根づいていない。
例えば純粋な歌の名手なら、声の響きだけで人を魅了することが可能だろう。何を歌っているかわからないが、すばらしい声だ! と思う。充分にあり得る。歌曲のリサイタルにせよオペラの大舞台にせよ、聴衆のほとんどは、イタリア語やドイツ語をわかっていないと思う。だが、心打たれている(のだろう。日本語歌曲のリサイタルでも、詩の全部はわからない。こうした想像が私のひとり合点で、多くの人がわかっているなら素晴らしいことだ)しかし、私は名手ではない。文章表現にも、その境地はある。技術だけで読ませてしまうというような。もちろん、私は文章の名手ではないといっておく。そして歌についていえば、私はさらに名手ではないし、純粋に人を魅了することなど不可能、それに、そもそも純粋性を志向していない。
詩だけではない、音楽としてありたい。音楽だけではない、詩とともにありたい。
これも理由があって、伊福部先生の言葉として、先生が少年時代に見て聴いたアイヌの芸能は、歌と踊りと詩(言葉)が分かちがたく結びついていた。それが芸能の、芸術といってもいいが、古い形であり、考え方を変えればそれこそ純粋な形といえるかもしれない。時代が新しくなるにつれて、詩は詩、音楽は音楽は、踊りは踊りという風に、純粋性を求めていったのだ。その考え方でいけば、踊れない役者、歌えない役者はない。芝居のできない歌手もない。歌手は当然、踊れる、ということになる。それが望ましいことはいうまでもない。
歌なら多少は純粋かもしれないが、詩唱という、あまり純粋ではない、そして他にあまり行われていない表現を、私は自分に求めている(詩唱表現には音程がない。通常、音楽では音程をやかましくいわれるのに。リズムも厳密ではない。ハーモニーは? 詩唱と楽器でハーモニーが作れるのだろうか? 作曲者の計算に頼るしかない。しかし、そうした曖昧さが詩唱表現の安易さに結びついてはいけない)。
詩を印刷物にして人に渡せば、純粋に読んでもらえるだろう。しかし、詩を声に出した段階で、純粋さはどんどん失われてゆく。そして私は、印刷するより声に出さなけれな意味がないと思っている(だから私は詩集を作りたいと思わない。私の詩集は、トロッタである)。楽器にも個性はあるが、声の場合は誰であれ、個性があり過ぎる(よく訓練された歌手に対して、あの声は嫌いだというような、救いようのない批判がしばしば下されるのだから、申し訳ないことだ。いわんや私においては! 歌は、その人の声を聴くしかないのである)
私の中に、いかにしてスペインを根づかせるか。
不純を、さらに志向したい。
私には芸術としての歌が歌えない。根岸一郎氏の真似をしても無理だ。だからチラシに、「バリトン」と書かずに「詩唱」と書いているのではないか。次回のロルカは、これまでと違う工夫をしたい。
ロルカのカンシオネス [スペインの歌] V - VII
〈採譜と曲 フェデリコ=ガルシア・ロルカ/編曲 今井重幸〉
V.「ハエンのムーア娘たち」VI.「三枚の葉」VII.「ドン・ボイソのロマンセ」
ガルシア・ロルカの『13のスペイン古謡』をトロッタの会として演奏する、シリーズ2回目。それが至難のことなのだが、現代ではなく古い味わいをどのようにして表現するか。前回の「18世紀のセビジャーナス」など、300年前の時代が明確に指定されている。今回の「ハエンのモーロ娘」など、15-16世紀の王宮歌曲であったというからさらに古い。今井重幸の編曲を得て、困難に挑戦してみたい。〈K〉
詩唱*木部与巴仁 ギター*萩野谷英成 〈弦楽四重奏〉ヴァイオリン*戸塚ふみ代 ヴァイオリン*田口薫 ヴィオラ*仁科拓也 チェロ*小島遼子
【記録】土台、それが私には無理であることはわかっている……。詩人ピエール・バルーによるドキュメンタリー『SARAVAH』に描かれたブラジル人音楽家たちの姿が、理想のひとつである。街角でも、レストランでも、歌いたい、演奏したいと思った時に、彼らは音楽を形にできる。ロルカが採譜したスペインの民謡においても、その担い手たちは、やはり同様だろう。歌いたい時に歌える。そして形にできる。しかし、私は無理だった。練習しても無理だった。前回と今回、ほぼ半年ずつ、練習してきた。ひとりで練習しているのではない、先生に聴いてもらって練習しているのである。だが、その練習が本番で生きていないと感じる。スペインの民謡を私が歌うこと自体に無理があるのかも知れない。あるいは、今井重幸先生の編曲に、乗り切れていないのかもしれない。
志はよい。詩人ロルカが、詩と音楽の幸福な結びつきの形としてアンダルシアの民謡に着目し、それを採譜した。13曲、今に伝わっている。詩と音楽を志す者なら、その先達であるロルカに共感するのが当然で、私もそうだから、自らロルカの民謡を歌い、彼の思いを形にしてみせようとした。しかし、納得がいかない。役者の天本英世が、13曲を歌えるようになったとエッセイに書き(「フラメンコの歌となるとこれは難しくて私はとても歌えないが、この「ロルカの13の民謡」は何とか全部唄えるようになった。どれを唄ってみても、全く素晴らしい、これぞスペインの民謡という歌ばかりである」『スペイン回想』より)、彼に倣おうという気持ちもあった。しかし、倣うことができない。いったい天本英世は、どのように歌ったのか? 私の中に音楽がない、文学はあっても、音楽がない。文学もないのか? いや、私の中にスペインが根づいていない。
例えば純粋な歌の名手なら、声の響きだけで人を魅了することが可能だろう。何を歌っているかわからないが、すばらしい声だ! と思う。充分にあり得る。歌曲のリサイタルにせよオペラの大舞台にせよ、聴衆のほとんどは、イタリア語やドイツ語をわかっていないと思う。だが、心打たれている(のだろう。日本語歌曲のリサイタルでも、詩の全部はわからない。こうした想像が私のひとり合点で、多くの人がわかっているなら素晴らしいことだ)しかし、私は名手ではない。文章表現にも、その境地はある。技術だけで読ませてしまうというような。もちろん、私は文章の名手ではないといっておく。そして歌についていえば、私はさらに名手ではないし、純粋に人を魅了することなど不可能、それに、そもそも純粋性を志向していない。
詩だけではない、音楽としてありたい。音楽だけではない、詩とともにありたい。
これも理由があって、伊福部先生の言葉として、先生が少年時代に見て聴いたアイヌの芸能は、歌と踊りと詩(言葉)が分かちがたく結びついていた。それが芸能の、芸術といってもいいが、古い形であり、考え方を変えればそれこそ純粋な形といえるかもしれない。時代が新しくなるにつれて、詩は詩、音楽は音楽は、踊りは踊りという風に、純粋性を求めていったのだ。その考え方でいけば、踊れない役者、歌えない役者はない。芝居のできない歌手もない。歌手は当然、踊れる、ということになる。それが望ましいことはいうまでもない。
歌なら多少は純粋かもしれないが、詩唱という、あまり純粋ではない、そして他にあまり行われていない表現を、私は自分に求めている(詩唱表現には音程がない。通常、音楽では音程をやかましくいわれるのに。リズムも厳密ではない。ハーモニーは? 詩唱と楽器でハーモニーが作れるのだろうか? 作曲者の計算に頼るしかない。しかし、そうした曖昧さが詩唱表現の安易さに結びついてはいけない)。
詩を印刷物にして人に渡せば、純粋に読んでもらえるだろう。しかし、詩を声に出した段階で、純粋さはどんどん失われてゆく。そして私は、印刷するより声に出さなけれな意味がないと思っている(だから私は詩集を作りたいと思わない。私の詩集は、トロッタである)。楽器にも個性はあるが、声の場合は誰であれ、個性があり過ぎる(よく訓練された歌手に対して、あの声は嫌いだというような、救いようのない批判がしばしば下されるのだから、申し訳ないことだ。いわんや私においては! 歌は、その人の声を聴くしかないのである)
私の中に、いかにしてスペインを根づかせるか。
不純を、さらに志向したい。
私には芸術としての歌が歌えない。根岸一郎氏の真似をしても無理だ。だからチラシに、「バリトン」と書かずに「詩唱」と書いているのではないか。次回のロルカは、これまでと違う工夫をしたい。
2012年1月17日火曜日
トロッタ15通信.44
トロッタ14通信〈記録〉.6
オリヴィエ・メシアン『時の終わりへの四重奏曲』の記憶
〈作曲 オリヴィエ・メシアン〉
メシアンの『時の終わりへの四重奏曲』初演は、現代音楽史の伝説である。ドイツ・ゲルリッツの第8A捕虜収容所に囚われていたメシアンは、同じ捕虜であった三人の演奏家と、彼らが所有する楽器で演奏できる曲を書いた。閉ざされた状況下でも音楽を創造した彼らを想いつつ、詩唱を交えて3(抜粋)、1、4、7各楽章を演奏する。テキストは木部与巴仁による。〈K〉
クラリネット*藤本彩花 ヴァイオリン*戸塚ふみ代 チェロ*香月圭佑 ピアノ*森川あづさ 詩唱*中川博正
【記録】メシアンの『時の終わりへの四重奏曲』を初めて意識したのは、2006年、『新宿に安土城が建つ』に出演した時。捕虜収容所で作曲されたという経緯を詩ってたちまち惹かれた。音楽的に、ではなく文学的に、惹かれたのだろう。もちろん、曲を聴いて惹かれもしたが、曲ができる背景に、ドラマを感じたということ。演奏して惹かれたのではない点に問題があるかも知れないが、そのような音楽の出会いはあると思う。『新宿に安土城が建つ』にメシアンがふさわしいとは、今となっては定かではない。共演した戸塚ふみ代の提案だったか。これだけは間違いないが、BGMとして扱ったのではない。厳密に、詩を詠む位置を決め、曲に乗せて詠むようにした。戸塚にとっても、今回の演奏は、『新宿に安土城が建つ』以来で、その時に覚えた不満を、抜粋とはいえ演奏会なのだから、払拭する機会になったはずだ。
『時の終わりへの四重奏曲』をトロッタで取り上げたのは、私なりの必然があったから。音楽の始まりがそこにある。あらかじめわかった出発点ではなく、やむにやまれず音楽を創る。どんな不完全な状況でも。創りたいと思った時に、音楽はできる。収容所でも、だ。そこにならいたい。
トロッタが“詩と音楽を歌い、奏でる”会だというのは、私には必然がある。他の作曲者、演奏者にも、それぞれの必然があるだろう。私は詩を持ってして、初めて音楽ができる。詩がなければお手上げだ。私は文学をしたいと思っていない。文学には、もちろん計り知れない価値があるものの、私にとっては目下の急務ではない。それはやはり、伊福部先生の『音楽家の誕生』を書いたところからの始まりがあるから。音楽をわかって書いたのではなく、文学的に理解しようとしたのだと、自戒をこめて回顧するが、それでも、そこに出発点がある以上、詩を書いても文学として完結させようとは思っていない。音楽としての詩を、私は志向している(このへんに私の問題点があることは、じゅうぶんに理解している。文学として中途半端、音楽として中途半端。しかしそれが、私の道なのだろう。そして、それを本当に中途半端で終わらせるのかどうかは、私にかかっている。それは、トロッタが中途半端で終わるかどうかの問題でもある。終わらせるわけにはいかない)。
ところで、詩唱は中川博正にまかせた。通常なら、私が詠むところだ。この曲を演奏しようと思ったのは、私の必然だから。しかし、それでは当たり前過ぎる。中川にまかせることが挑戦である。彼にはメシアンになってもらおうと思った。メシアンの曲を聴く捕虜になってもらおうとも思った。死んで今では鳥になったメシアン、捕虜にもなってもらいたかった。スコットホールを、『時の終わりへの四重奏曲』が初演されたドイツの収容所に変える役目をも負ってもらいたかった。これはすべて、至難の業である。できただろうか? 中川は、彼なりに努力してくれた。稽古の段階で、役作りにおける、私と彼の違いが明らかになりもした。私がこれまでに詩唱した曲を、すべて彼にまかせてもよい。彼が詩唱したいというのなら。それでこそ、曲が生きるであろう。いつまでも私ひとりが詠むものではない。
オリヴィエ・メシアン『時の終わりへの四重奏曲』の記憶
〈作曲 オリヴィエ・メシアン〉
メシアンの『時の終わりへの四重奏曲』初演は、現代音楽史の伝説である。ドイツ・ゲルリッツの第8A捕虜収容所に囚われていたメシアンは、同じ捕虜であった三人の演奏家と、彼らが所有する楽器で演奏できる曲を書いた。閉ざされた状況下でも音楽を創造した彼らを想いつつ、詩唱を交えて3(抜粋)、1、4、7各楽章を演奏する。テキストは木部与巴仁による。〈K〉
クラリネット*藤本彩花 ヴァイオリン*戸塚ふみ代 チェロ*香月圭佑 ピアノ*森川あづさ 詩唱*中川博正
【記録】メシアンの『時の終わりへの四重奏曲』を初めて意識したのは、2006年、『新宿に安土城が建つ』に出演した時。捕虜収容所で作曲されたという経緯を詩ってたちまち惹かれた。音楽的に、ではなく文学的に、惹かれたのだろう。もちろん、曲を聴いて惹かれもしたが、曲ができる背景に、ドラマを感じたということ。演奏して惹かれたのではない点に問題があるかも知れないが、そのような音楽の出会いはあると思う。『新宿に安土城が建つ』にメシアンがふさわしいとは、今となっては定かではない。共演した戸塚ふみ代の提案だったか。これだけは間違いないが、BGMとして扱ったのではない。厳密に、詩を詠む位置を決め、曲に乗せて詠むようにした。戸塚にとっても、今回の演奏は、『新宿に安土城が建つ』以来で、その時に覚えた不満を、抜粋とはいえ演奏会なのだから、払拭する機会になったはずだ。
『時の終わりへの四重奏曲』をトロッタで取り上げたのは、私なりの必然があったから。音楽の始まりがそこにある。あらかじめわかった出発点ではなく、やむにやまれず音楽を創る。どんな不完全な状況でも。創りたいと思った時に、音楽はできる。収容所でも、だ。そこにならいたい。
トロッタが“詩と音楽を歌い、奏でる”会だというのは、私には必然がある。他の作曲者、演奏者にも、それぞれの必然があるだろう。私は詩を持ってして、初めて音楽ができる。詩がなければお手上げだ。私は文学をしたいと思っていない。文学には、もちろん計り知れない価値があるものの、私にとっては目下の急務ではない。それはやはり、伊福部先生の『音楽家の誕生』を書いたところからの始まりがあるから。音楽をわかって書いたのではなく、文学的に理解しようとしたのだと、自戒をこめて回顧するが、それでも、そこに出発点がある以上、詩を書いても文学として完結させようとは思っていない。音楽としての詩を、私は志向している(このへんに私の問題点があることは、じゅうぶんに理解している。文学として中途半端、音楽として中途半端。しかしそれが、私の道なのだろう。そして、それを本当に中途半端で終わらせるのかどうかは、私にかかっている。それは、トロッタが中途半端で終わるかどうかの問題でもある。終わらせるわけにはいかない)。
ところで、詩唱は中川博正にまかせた。通常なら、私が詠むところだ。この曲を演奏しようと思ったのは、私の必然だから。しかし、それでは当たり前過ぎる。中川にまかせることが挑戦である。彼にはメシアンになってもらおうと思った。メシアンの曲を聴く捕虜になってもらおうとも思った。死んで今では鳥になったメシアン、捕虜にもなってもらいたかった。スコットホールを、『時の終わりへの四重奏曲』が初演されたドイツの収容所に変える役目をも負ってもらいたかった。これはすべて、至難の業である。できただろうか? 中川は、彼なりに努力してくれた。稽古の段階で、役作りにおける、私と彼の違いが明らかになりもした。私がこれまでに詩唱した曲を、すべて彼にまかせてもよい。彼が詩唱したいというのなら。それでこそ、曲が生きるであろう。いつまでも私ひとりが詠むものではない。
トロッタ15通信.43
トロッタ14通信〈記録〉.5
『蒼鷺』
〈作曲 伊福部昭/詩 更科源蔵〉
伊福部昭が更科源蔵の詩によって書いた最後の歌曲。他の『知床半島の漁夫の歌』『オホーツクの海』『摩周湖』と同じく、更科の第二詩集『凍原の歌』から採られた。「蝦夷榛(えぞはんのき)に冬の陽があたる 凍原の上に青い影がのびる」という蒼鷺の描写が印象的だ。オーボエの音色が聴く者を世界に引きこむ。ソプラノ藍川由美によって2000年に初演された。〈K〉
バリトン*根岸一郎 オーボエ*三浦 舞 コントラバス*丹野敏広 ピアノ*徳田絵里子
【記録】根岸さん、三浦さん、丹野さん、徳田さんによる練習風景を思い出す。何度も何度も、合わない、どう合わせる、というようなことを繰り返しておられた。それは、あるべき音楽の風景である。そのようなことを、私は自分が出演する曲で、できたであろうか。できていない。あまりにも慌ただしく、すべてが過ぎていってしまった。昨年、「北海道新聞」に、伊福部昭先生と更科源蔵氏について、原稿を寄せることができた。それは個人的に、画期的なことであったと思う。そのことをじっくり噛みしめる時間がないのが残念だ。それは、東京の「トロッタの会」が、このようなことをしているという報告、情報だけに終わらない(と、私は思っている)。私の考え方であり、伊福部昭と更科源蔵という創作者の歴史であり、トロッタにとっては現在形の、たった今、作られつつある歴史的事象なのである。私はもっと、新聞記事の続きを書かなければならず、深めていかなければならない。
あらゆる音楽会の宿命だが、次から次へと曲が演奏されるのだが、例えば、『蒼鷺』一曲を演奏する一夜があってもよい。二本立て映画があれば、私は目当ての一本を観たら、もう外に出たいと思うから。印象を拡散させてしまいたくないから。伊福部先生にとって『蒼鷺』は力を尽くした曲だから、それだけをじっくり聴くための時間を作ってもいい(ただ、二本観たからといって、後から考えると、必ずしも印象は拡散しないということを知っている。高校生の時だったと思うが、佐藤純彌監督の『新幹線大爆破』と、ブルース・リー〜李小龍と書きたい〜監督・主演の『ドラゴンへの道』を二本立てで観た。どちらも傑作であり、歴史に残る作品だ〜本来、歴史に残らない作品というのは一本もないので、記憶に残すべき作品、というように書けばいいのだが、人によって記憶の残り方は様々である〜。印象を拡散させたくないなら、どちらかを観てすぐ退場すべきだが、『新幹線大爆破』と『ドラゴンへの道』は二本立てで観てよかったと思っている。印象は、まったく拡散していない。作品に力があれば、そうなるのは当然である)。
伊福部先生の作品は、どれも大きい。大きさということを、生前にお話しを聞く過程で、私は常に意識していた。小さく終わらせたくないと、私自身の作品についても思っている。コップいっぱいの中にも、大きさは作り出せるのである。更科氏の詩にも、大きさを感じる。大きさとは何か?
トロッタが、伊福部先生を意識するところから始まり、詩を書く私の中に更科源蔵氏への意識がある以上、仮に誤解(自分流の解釈)であっても、何かを継承していることは確かだと思う。正解であれ誤解であれ、継承していきたい。トロッタに箔をつけたいとか、正統性を主張するとか、そんなことはまるで思っていない。異端であれ、孤独であれ、という思いさえ勢い余って抱きそうだが、そうひねくれることもないだろう。『音楽家の誕生』を書いた私である。伊福部先生の影響下にあることは、素直に認めていい。影響を受けていないという方が無理だ。更科氏が登場する伊藤整の『若い詩人の肖像』を高校生のころから愛読したのだし、伊福部昭という作曲家と更科源蔵という詩人の関係をうらやましいと思う(しかし、作曲家と詩人の関係なら、トロッタは相当に深めているし、経験を積んでいると思うし、十分な足場になっていると思う。そのことを本当に実感するのは、トロッタの活動が休止した時かもしれない)。−−どうも曲の成果について語っていないが−−根岸一郎氏という、伊福部先生の歌を歌いたいというバリトンの存在を得て、トロッタは、そのすべきことを着々と実現していると思う。演奏機会の少ない『蒼鷺』を、トロッタは演奏できた、お聴かせできたという事実。これを大事に思わない私ではない。貴重だ。その貴重さを、翻って、すべての作曲家、演奏家について感じる。そうしたことが、伊福部先生から始まっているということ。噛みしめたい。『知床半島の漁夫の歌』など、すでに演奏した曲を再演してもいいだろう。
『蒼鷺』
〈作曲 伊福部昭/詩 更科源蔵〉
伊福部昭が更科源蔵の詩によって書いた最後の歌曲。他の『知床半島の漁夫の歌』『オホーツクの海』『摩周湖』と同じく、更科の第二詩集『凍原の歌』から採られた。「蝦夷榛(えぞはんのき)に冬の陽があたる 凍原の上に青い影がのびる」という蒼鷺の描写が印象的だ。オーボエの音色が聴く者を世界に引きこむ。ソプラノ藍川由美によって2000年に初演された。〈K〉
バリトン*根岸一郎 オーボエ*三浦 舞 コントラバス*丹野敏広 ピアノ*徳田絵里子
【記録】根岸さん、三浦さん、丹野さん、徳田さんによる練習風景を思い出す。何度も何度も、合わない、どう合わせる、というようなことを繰り返しておられた。それは、あるべき音楽の風景である。そのようなことを、私は自分が出演する曲で、できたであろうか。できていない。あまりにも慌ただしく、すべてが過ぎていってしまった。昨年、「北海道新聞」に、伊福部昭先生と更科源蔵氏について、原稿を寄せることができた。それは個人的に、画期的なことであったと思う。そのことをじっくり噛みしめる時間がないのが残念だ。それは、東京の「トロッタの会」が、このようなことをしているという報告、情報だけに終わらない(と、私は思っている)。私の考え方であり、伊福部昭と更科源蔵という創作者の歴史であり、トロッタにとっては現在形の、たった今、作られつつある歴史的事象なのである。私はもっと、新聞記事の続きを書かなければならず、深めていかなければならない。
あらゆる音楽会の宿命だが、次から次へと曲が演奏されるのだが、例えば、『蒼鷺』一曲を演奏する一夜があってもよい。二本立て映画があれば、私は目当ての一本を観たら、もう外に出たいと思うから。印象を拡散させてしまいたくないから。伊福部先生にとって『蒼鷺』は力を尽くした曲だから、それだけをじっくり聴くための時間を作ってもいい(ただ、二本観たからといって、後から考えると、必ずしも印象は拡散しないということを知っている。高校生の時だったと思うが、佐藤純彌監督の『新幹線大爆破』と、ブルース・リー〜李小龍と書きたい〜監督・主演の『ドラゴンへの道』を二本立てで観た。どちらも傑作であり、歴史に残る作品だ〜本来、歴史に残らない作品というのは一本もないので、記憶に残すべき作品、というように書けばいいのだが、人によって記憶の残り方は様々である〜。印象を拡散させたくないなら、どちらかを観てすぐ退場すべきだが、『新幹線大爆破』と『ドラゴンへの道』は二本立てで観てよかったと思っている。印象は、まったく拡散していない。作品に力があれば、そうなるのは当然である)。
伊福部先生の作品は、どれも大きい。大きさということを、生前にお話しを聞く過程で、私は常に意識していた。小さく終わらせたくないと、私自身の作品についても思っている。コップいっぱいの中にも、大きさは作り出せるのである。更科氏の詩にも、大きさを感じる。大きさとは何か?
トロッタが、伊福部先生を意識するところから始まり、詩を書く私の中に更科源蔵氏への意識がある以上、仮に誤解(自分流の解釈)であっても、何かを継承していることは確かだと思う。正解であれ誤解であれ、継承していきたい。トロッタに箔をつけたいとか、正統性を主張するとか、そんなことはまるで思っていない。異端であれ、孤独であれ、という思いさえ勢い余って抱きそうだが、そうひねくれることもないだろう。『音楽家の誕生』を書いた私である。伊福部先生の影響下にあることは、素直に認めていい。影響を受けていないという方が無理だ。更科氏が登場する伊藤整の『若い詩人の肖像』を高校生のころから愛読したのだし、伊福部昭という作曲家と更科源蔵という詩人の関係をうらやましいと思う(しかし、作曲家と詩人の関係なら、トロッタは相当に深めているし、経験を積んでいると思うし、十分な足場になっていると思う。そのことを本当に実感するのは、トロッタの活動が休止した時かもしれない)。−−どうも曲の成果について語っていないが−−根岸一郎氏という、伊福部先生の歌を歌いたいというバリトンの存在を得て、トロッタは、そのすべきことを着々と実現していると思う。演奏機会の少ない『蒼鷺』を、トロッタは演奏できた、お聴かせできたという事実。これを大事に思わない私ではない。貴重だ。その貴重さを、翻って、すべての作曲家、演奏家について感じる。そうしたことが、伊福部先生から始まっているということ。噛みしめたい。『知床半島の漁夫の歌』など、すでに演奏した曲を再演してもいいだろう。
トロッタ15通信.42
トロッタ14通信〈記録〉.4
『虹』『花の森』
〈作曲 宮崎文香/編曲 徳田絵里子/詩・詩唱 木部与巴仁〉
花をテーマにお聴かせできる曲を思っていた時、木部与巴仁さんの詩『虹』と『花の森』に出会いました。木部さんが発行している「詩の通信」に掲載されたものです。『虹』は誰にもある幼いころの記憶が虹に託され(2006.5.26号)、『花の森』は、死んだ人や獣が花として生まれ変わる様が描かれています(2009.8.17号)。楽器は、まず尺八と十七絃箏のために書かれ、徳田絵里子さんによってフルートとピアノ版に編曲されました。〈宮﨑文香〉
フルート*八木ちはる ピアノ*徳田絵里子
【記録】宮﨑文香さんから、私の詩で曲を書きたいという申し出を受けた時、純粋にうれしかった。初めてのことではない。すでに『めぐりあい』があり、『たびだち』がある。しかし(ということはない。差別などまったくないのだが)、どちらもアンコール曲である(繰り返していうが、すばらしいアンコール曲である。宮﨑さんの曲が最後にないと、トロッタは終わらない。それを、会場を出なければならない時間が来たというので、トロッタ14では『たびだち・鳥の歌』を演奏せずに終わってしまった。失敗である。申し訳ないと反省している)。それがまず、宮﨑さん企画の演奏会のため、尺八と十七絃箏の曲として作曲したいという。そうしてできあがった曲を、トロッタでも、本プログラムの曲として演奏するという。トロッタでは、尺八と十七絃箏ではなく、フルートとピアノのための曲になった。その編曲には、ピアニスト徳田絵里子さんの手を借りることになった。
詩が先にあって、曲が生まれる。いつも詩が先導すればいいとは思っていない。曲が先導する場合もあるだろう。しかし、かつて『くるみ割り人形』や『シェへラザード』を合唱曲としたように、メロディが先にあって詩を書くと、替え歌を作っているような気分になって仕方がない。何にも引きずられない、何の影響も受けない詩を書きたいと思う。だが、いつも詩が先導する場合、作曲者は詩に影響されない曲を書きたいと思うようになるだろうから、つまり立場を変えれば、私も他者に影響を与えてしまっているだろうから、どうすればいいとは断定できない。個別のケースとして考えるしかないだろう。
宮﨑さんは、「詩の通信」から二篇を選んだ。何が選択の基準になっているか、はっきりわからない。尺八と箏は、“花”をテーマにした演奏会で用いられたから、まず、花を描いた詩を選んだ。それが『花の森』である。四国の遍路が行き倒れになり、その跡に花が咲いた、という想像上の物語だ。『虹』には花が出ない。それでも選んだのは、宮﨑さんの感性である。私が子どもだったころ、空に架かる虹を見て、母親に、あれは何? と尋ねる。子どもにとって、初めて見るものは多いだろう。世の中は新鮮な驚きに満ちている。大人になると、そうしたものが少なくなる。少々のことでは驚かない。それはいいことではなく、残念なことだ。常に驚いていたい。虹は、驚くに値するものだ。原理がわかっていても、やはり驚異である。原理などわかっても大したことはない。わからない方がいい。宮﨑さんはおそらく、子ども心の純粋さに惹かれた。彼女自身が、それを持っているのだろう。音楽を書く力になり、詩を書く力にもなる。私は持っているか? 持ちたいと思う。トロッタは、常にその驚きを忘れない会でありたい。『虹』の始まりにある。「遠くと 近くの 区別もないまま 何もかも ぼんやりしていた あのころ」今の私が、そうだ。すべての距離がない。混沌としている。その、どろどろの中から何かを引きずりあげたい。
『虹』『花の森』
〈作曲 宮崎文香/編曲 徳田絵里子/詩・詩唱 木部与巴仁〉
花をテーマにお聴かせできる曲を思っていた時、木部与巴仁さんの詩『虹』と『花の森』に出会いました。木部さんが発行している「詩の通信」に掲載されたものです。『虹』は誰にもある幼いころの記憶が虹に託され(2006.5.26号)、『花の森』は、死んだ人や獣が花として生まれ変わる様が描かれています(2009.8.17号)。楽器は、まず尺八と十七絃箏のために書かれ、徳田絵里子さんによってフルートとピアノ版に編曲されました。〈宮﨑文香〉
フルート*八木ちはる ピアノ*徳田絵里子
【記録】宮﨑文香さんから、私の詩で曲を書きたいという申し出を受けた時、純粋にうれしかった。初めてのことではない。すでに『めぐりあい』があり、『たびだち』がある。しかし(ということはない。差別などまったくないのだが)、どちらもアンコール曲である(繰り返していうが、すばらしいアンコール曲である。宮﨑さんの曲が最後にないと、トロッタは終わらない。それを、会場を出なければならない時間が来たというので、トロッタ14では『たびだち・鳥の歌』を演奏せずに終わってしまった。失敗である。申し訳ないと反省している)。それがまず、宮﨑さん企画の演奏会のため、尺八と十七絃箏の曲として作曲したいという。そうしてできあがった曲を、トロッタでも、本プログラムの曲として演奏するという。トロッタでは、尺八と十七絃箏ではなく、フルートとピアノのための曲になった。その編曲には、ピアニスト徳田絵里子さんの手を借りることになった。
詩が先にあって、曲が生まれる。いつも詩が先導すればいいとは思っていない。曲が先導する場合もあるだろう。しかし、かつて『くるみ割り人形』や『シェへラザード』を合唱曲としたように、メロディが先にあって詩を書くと、替え歌を作っているような気分になって仕方がない。何にも引きずられない、何の影響も受けない詩を書きたいと思う。だが、いつも詩が先導する場合、作曲者は詩に影響されない曲を書きたいと思うようになるだろうから、つまり立場を変えれば、私も他者に影響を与えてしまっているだろうから、どうすればいいとは断定できない。個別のケースとして考えるしかないだろう。
宮﨑さんは、「詩の通信」から二篇を選んだ。何が選択の基準になっているか、はっきりわからない。尺八と箏は、“花”をテーマにした演奏会で用いられたから、まず、花を描いた詩を選んだ。それが『花の森』である。四国の遍路が行き倒れになり、その跡に花が咲いた、という想像上の物語だ。『虹』には花が出ない。それでも選んだのは、宮﨑さんの感性である。私が子どもだったころ、空に架かる虹を見て、母親に、あれは何? と尋ねる。子どもにとって、初めて見るものは多いだろう。世の中は新鮮な驚きに満ちている。大人になると、そうしたものが少なくなる。少々のことでは驚かない。それはいいことではなく、残念なことだ。常に驚いていたい。虹は、驚くに値するものだ。原理がわかっていても、やはり驚異である。原理などわかっても大したことはない。わからない方がいい。宮﨑さんはおそらく、子ども心の純粋さに惹かれた。彼女自身が、それを持っているのだろう。音楽を書く力になり、詩を書く力にもなる。私は持っているか? 持ちたいと思う。トロッタは、常にその驚きを忘れない会でありたい。『虹』の始まりにある。「遠くと 近くの 区別もないまま 何もかも ぼんやりしていた あのころ」今の私が、そうだ。すべての距離がない。混沌としている。その、どろどろの中から何かを引きずりあげたい。
トロッタ15通信.41
トロッタ14通信〈記録〉.3
フルートとチェロのための『対話と変容』(ガルシア・ロルカと共に)
〈作曲 今井重幸〉
フルート奏者の斉藤香さんに委嘱されて書き下ろした。トロッタの会に編曲するため、詩人ガルシア・ロルカを想う時間が多い。私自身、青年期よりロルカを敬愛してきた。斎藤さんに応えようとした時、自然に、“ロルカとの対話”が楽案に浮かんだ。スペイン的な音型を用い、ロルカが採譜したアンダルシア民謡をモティーフのひとつとするなど、これらを自由に変容させて、ふたつの楽器による“対話”を試みたのである。〈今井重幸〉
フルート*斉藤 香 チェロ*武井英哉
【記録】(ガルシア・ロルカと共に)と書き添えられている。今井重幸先生の、ロルカへの思いが伝わってくる。今井先生には、『ロルカのカンシオネス「スペインの歌」』の編曲をお願いしている。すでに七曲、歌った。その過程で生まれたのが、フルートとチェロのための『対話と変容』である(と解釈しているが、違うだろうか。だとしたら、曲の誕生に間接的に関与していることになり、うれしいことだが。しかし、私は)今井先生の希望を満たす歌を歌えていないだろう。そもそも私が、歌えていないと思う。思いだけで音楽をしようとしている。文学として音楽をしている。意識的に音楽をしようとしている。所詮は詩を書く者であって音楽をする者ではない。音楽と文学の溝に思い至るべきである。いや、溝などないはずだ。音楽と文学を、分かちがたいものとして、私はとらえているはず、とらえようとしているはず。そのことに間違いは、絶対にないはずだ。でなければトロッタをしていない(それが、清道洋一の項で書いた、革命ということではないのか)。そのことは後で書くとして−−。
演奏者として、斉藤香さんと武井英哉さんを迎えた。おふたりとは、できれば練習期間中にお目にかかりたかったのだが、果たせなかった。私の理想は−−、トロッタに出演したいただく方々と、あらかじめ顔を合わせて、少しでもお話をしておくこと。当然だろう。トロッタの会を、共に開いているのだ。ばらばらの人間が、本番の日、一日だけ会うことを、私はよしとしない。しかし、無理だった。無理に会わなくても、きちんと練習をして曲を作り、本番に備えればよい。その考えに間違いはない。斉藤さんと武井さんは、そのようにして本番に備えてくださった。他の曲にも出番があれば、もちろん会う機会が増えただろうが、そうではないのだから、ご自分たちの曲に専念していただければよかった。それができず、うまくいかなかったというのではない。うまくいっただろう。問題は、私の側の気持ちである。(ガルシア・ロルカと共に)という曲なのだし、どこがロルカと共に、なのか知っておきたかった(こういう態度が文学的か? しかし、そのどこが悪いのかと思う)。
興味深かった点。トロッタに常に出てくださっている方々、初めてでも練習期間に何度も顔を合わせる方のことは、すでにわかっている部分が多い。しかし斉藤さんと武井さんは、本番一日だけの機会だったので、いい意味で馴れず、新鮮だった。皮肉ではなく、おふたりの演奏会に立ち会っているような気さえした。だが、会を開いている者として、それでいいのか。第一、この原稿にも、曲のことをまったく書いていない。わかっていないから、だ。今井先生の、自他共に許す本領は、例えば打楽器を伴う、トロッタ13で演奏した『草迷宮』のような曲だろう。早稲田奉仕園スコットホールは、もう打楽器が使えなくなった。何とかならないかと思う。今井先生にとって、消化不良であろう。それでフルートとチェロのための『対話と変容』を出品された。それがすべてではないが、理由の一つではある。これまで、今井先生には打楽器のない曲もあった。『仮面の舞』や『青山悠映』など。それでもじゅうぶんに成果をあげている。しかし、できるなら−−、という作曲家としての思いは理解できる。
スコットホールを、私は好きである。どのホールにも長所と短所がある。短所は目につきやすいが、本来は長所にこそ目を向けるべきだ。人も同じ。スコットホールを完全に生かし、もうすることがないと思ったのなら他に移ってもいいが、まだスコットホールを使い切っていない。打楽器は使えなくても、と思う(やはり、『対話と変容』について書いていない。今井先生がいう「スペイン的な音型を用い、ロルカが採譜したアンダルシア民謡をモティーフのひとつとする、これらを自由に変容させ」といったことについて書けない。申し訳ない)
フルートとチェロのための『対話と変容』(ガルシア・ロルカと共に)
〈作曲 今井重幸〉
フルート奏者の斉藤香さんに委嘱されて書き下ろした。トロッタの会に編曲するため、詩人ガルシア・ロルカを想う時間が多い。私自身、青年期よりロルカを敬愛してきた。斎藤さんに応えようとした時、自然に、“ロルカとの対話”が楽案に浮かんだ。スペイン的な音型を用い、ロルカが採譜したアンダルシア民謡をモティーフのひとつとするなど、これらを自由に変容させて、ふたつの楽器による“対話”を試みたのである。〈今井重幸〉
フルート*斉藤 香 チェロ*武井英哉
【記録】(ガルシア・ロルカと共に)と書き添えられている。今井重幸先生の、ロルカへの思いが伝わってくる。今井先生には、『ロルカのカンシオネス「スペインの歌」』の編曲をお願いしている。すでに七曲、歌った。その過程で生まれたのが、フルートとチェロのための『対話と変容』である(と解釈しているが、違うだろうか。だとしたら、曲の誕生に間接的に関与していることになり、うれしいことだが。しかし、私は)今井先生の希望を満たす歌を歌えていないだろう。そもそも私が、歌えていないと思う。思いだけで音楽をしようとしている。文学として音楽をしている。意識的に音楽をしようとしている。所詮は詩を書く者であって音楽をする者ではない。音楽と文学の溝に思い至るべきである。いや、溝などないはずだ。音楽と文学を、分かちがたいものとして、私はとらえているはず、とらえようとしているはず。そのことに間違いは、絶対にないはずだ。でなければトロッタをしていない(それが、清道洋一の項で書いた、革命ということではないのか)。そのことは後で書くとして−−。
演奏者として、斉藤香さんと武井英哉さんを迎えた。おふたりとは、できれば練習期間中にお目にかかりたかったのだが、果たせなかった。私の理想は−−、トロッタに出演したいただく方々と、あらかじめ顔を合わせて、少しでもお話をしておくこと。当然だろう。トロッタの会を、共に開いているのだ。ばらばらの人間が、本番の日、一日だけ会うことを、私はよしとしない。しかし、無理だった。無理に会わなくても、きちんと練習をして曲を作り、本番に備えればよい。その考えに間違いはない。斉藤さんと武井さんは、そのようにして本番に備えてくださった。他の曲にも出番があれば、もちろん会う機会が増えただろうが、そうではないのだから、ご自分たちの曲に専念していただければよかった。それができず、うまくいかなかったというのではない。うまくいっただろう。問題は、私の側の気持ちである。(ガルシア・ロルカと共に)という曲なのだし、どこがロルカと共に、なのか知っておきたかった(こういう態度が文学的か? しかし、そのどこが悪いのかと思う)。
興味深かった点。トロッタに常に出てくださっている方々、初めてでも練習期間に何度も顔を合わせる方のことは、すでにわかっている部分が多い。しかし斉藤さんと武井さんは、本番一日だけの機会だったので、いい意味で馴れず、新鮮だった。皮肉ではなく、おふたりの演奏会に立ち会っているような気さえした。だが、会を開いている者として、それでいいのか。第一、この原稿にも、曲のことをまったく書いていない。わかっていないから、だ。今井先生の、自他共に許す本領は、例えば打楽器を伴う、トロッタ13で演奏した『草迷宮』のような曲だろう。早稲田奉仕園スコットホールは、もう打楽器が使えなくなった。何とかならないかと思う。今井先生にとって、消化不良であろう。それでフルートとチェロのための『対話と変容』を出品された。それがすべてではないが、理由の一つではある。これまで、今井先生には打楽器のない曲もあった。『仮面の舞』や『青山悠映』など。それでもじゅうぶんに成果をあげている。しかし、できるなら−−、という作曲家としての思いは理解できる。
スコットホールを、私は好きである。どのホールにも長所と短所がある。短所は目につきやすいが、本来は長所にこそ目を向けるべきだ。人も同じ。スコットホールを完全に生かし、もうすることがないと思ったのなら他に移ってもいいが、まだスコットホールを使い切っていない。打楽器は使えなくても、と思う(やはり、『対話と変容』について書いていない。今井先生がいう「スペイン的な音型を用い、ロルカが採譜したアンダルシア民謡をモティーフのひとつとする、これらを自由に変容させ」といったことについて書けない。申し訳ない)
トロッタ15通信.40
トロッタ14通信〈記録〉.2
『恋の歌』
〈作曲 清道洋一/詩 木部与巴仁〉
三島が逝った歳になった。そろそろしっかりとした歌を作りたいと思った。歌曲を作るなら「恋の歌」以外に有り得ない。独りよがりの『状況』ではなく、ある特定の感覚を共有したいと思った。震災以来の無力感の支配からも抜け出したかった。『ステロタイプ』。しかしそれが『約束』として機能するのであれば、感覚の共有は成功なのだろう。映画に演劇に前例はいくらでもあるではないか。そう考え『既聴感』にこだわってみた。〈清道洋一〉
ソプラノ*柳 珠里 ヴァイオリン*田口薫 ヴィオラ*仁科拓也 チェロ*小島遼子 ギター*萩野谷英成
【記録】“恋の歌”を作りたいから、そのような詩を、という清道洋一の求めに応じて書いた。これは清道に対していっているのではなく(結局、そうなるかもしれないが)、その人は恋をしているのかと考える。私は清道と『革命幻想歌』を創り、今また、その二作目を創ろうとしている。革命を、現実に政治的活動として行なってはいない。しかし気持ちは、おとなしく飼いならされてなどいない、ということ。政治に声をあげていないから革命を望んでいないことにはならない。そもそも、あげていないと誰が判断するのか。街頭で配られる、脱原発のちらしを受け取らないからといって、私が脱原発を志向していないとはいえないはず。サッカー選手だって革命を望む者はいるだろう。私はフィクションではなく切実に、革命を求めている。それは政治の革命ではなく、自己の革命なのだろう。ロシア革命だって、人々は、政治の変革を求めつつ、自己を革命したはずだ。自分を犠牲にしないで政治の革命などできっこない。−−革命はとりあえず措こう。恋をしたくて、あるいは恋をしているから、清道は恋の歌を書こうとしたのか、私は求められたとはいえ、恋の詩を書こうと思ったのか。端的にいって、恋をしているのか? 革命を求めて『革命幻想歌』を書くというなら、恋をしているから『恋の歌』を書いたといってほしい(私が)。
書いた詩は三篇。
ボール虫(団子虫)が主人公の『恋の始まり』。
「恋の触覚 狙いは必ずあやまたず 冴え渡って気配をとらえる 恋の触覚 われ知らずわれに教える 生命(いのち)のありか 心の昂り 行け 眉目(みめ)よきボール虫 行け 麗しのボール虫」
およそ人からは尊敬されそうにないボール虫。ライオンや鷲なら尊敬されるだろうが、地を這う虫など気味悪がられ踏みつぶされるかもしれない。しかし、彼らにも恋はあり人生がある。人が、彼らを毛嫌いする理由などどこにもない。ボール虫になりたいとすら思う。いや、もうなっているか。
蜥蜴が主人公の『恋の果て』。
「ひしゃげた躰(からだ)にのぞく 真赤な肉片 首はもげて足は飛び あの日 わたしを抱きしめた両腕は 天と地に伸びていた」
仮に戦場で死ねば、私もこうなるだろう。恋が戦いではないとは誰にもいえない。恋を、闘っているのだ。この蜥蜴の姿を、私は写真に収めている。確かに不気味だ。しかし、彼は堂々と死んでいた。そうありたいと思う。人よ、蜥蜴に劣らず、堂々と死ね。人以外の者を詠みながら、私はすべて人のこととしても詠んでいる。
蚊が主人公の『恋の音楽』。
「生きようとして殺される わたしたち 蚊という生き物 愚かなり 人は知らない 壮大なファンタジー わたしたち 蚊が築きあげた 歴史と科学 超文明の底知れなさ」
人と蚊の間に、何の差もない。あえて蚊の方が上だということもない。平等である。たっぷりと、人の血を数がいい。あなたたちは生きるために、血を吸っている。私の血はまずいと思うが、吸ってくれるだけましである。吸われて痛いと思う。かゆいと思う。生きているからで、死んでしまえば、そうしたことも思わない。生きている証明に、血を吸ってほしい。生を実感させてほしい。
この歌を、いつか、自分で歌ってみたいと思う。私の実感がこもっている。歌いたいと思って当然だろう。歌いたいと思い、清道に詩を託したのだから。誰に対してもそうだが、私の中にある部分を、清道にも感じている。それが何か、あえて書かなくてもいいだろう。ここに書いたようなことである。
『恋の歌』
〈作曲 清道洋一/詩 木部与巴仁〉
三島が逝った歳になった。そろそろしっかりとした歌を作りたいと思った。歌曲を作るなら「恋の歌」以外に有り得ない。独りよがりの『状況』ではなく、ある特定の感覚を共有したいと思った。震災以来の無力感の支配からも抜け出したかった。『ステロタイプ』。しかしそれが『約束』として機能するのであれば、感覚の共有は成功なのだろう。映画に演劇に前例はいくらでもあるではないか。そう考え『既聴感』にこだわってみた。〈清道洋一〉
ソプラノ*柳 珠里 ヴァイオリン*田口薫 ヴィオラ*仁科拓也 チェロ*小島遼子 ギター*萩野谷英成
【記録】“恋の歌”を作りたいから、そのような詩を、という清道洋一の求めに応じて書いた。これは清道に対していっているのではなく(結局、そうなるかもしれないが)、その人は恋をしているのかと考える。私は清道と『革命幻想歌』を創り、今また、その二作目を創ろうとしている。革命を、現実に政治的活動として行なってはいない。しかし気持ちは、おとなしく飼いならされてなどいない、ということ。政治に声をあげていないから革命を望んでいないことにはならない。そもそも、あげていないと誰が判断するのか。街頭で配られる、脱原発のちらしを受け取らないからといって、私が脱原発を志向していないとはいえないはず。サッカー選手だって革命を望む者はいるだろう。私はフィクションではなく切実に、革命を求めている。それは政治の革命ではなく、自己の革命なのだろう。ロシア革命だって、人々は、政治の変革を求めつつ、自己を革命したはずだ。自分を犠牲にしないで政治の革命などできっこない。−−革命はとりあえず措こう。恋をしたくて、あるいは恋をしているから、清道は恋の歌を書こうとしたのか、私は求められたとはいえ、恋の詩を書こうと思ったのか。端的にいって、恋をしているのか? 革命を求めて『革命幻想歌』を書くというなら、恋をしているから『恋の歌』を書いたといってほしい(私が)。
書いた詩は三篇。
ボール虫(団子虫)が主人公の『恋の始まり』。
「恋の触覚 狙いは必ずあやまたず 冴え渡って気配をとらえる 恋の触覚 われ知らずわれに教える 生命(いのち)のありか 心の昂り 行け 眉目(みめ)よきボール虫 行け 麗しのボール虫」
およそ人からは尊敬されそうにないボール虫。ライオンや鷲なら尊敬されるだろうが、地を這う虫など気味悪がられ踏みつぶされるかもしれない。しかし、彼らにも恋はあり人生がある。人が、彼らを毛嫌いする理由などどこにもない。ボール虫になりたいとすら思う。いや、もうなっているか。
蜥蜴が主人公の『恋の果て』。
「ひしゃげた躰(からだ)にのぞく 真赤な肉片 首はもげて足は飛び あの日 わたしを抱きしめた両腕は 天と地に伸びていた」
仮に戦場で死ねば、私もこうなるだろう。恋が戦いではないとは誰にもいえない。恋を、闘っているのだ。この蜥蜴の姿を、私は写真に収めている。確かに不気味だ。しかし、彼は堂々と死んでいた。そうありたいと思う。人よ、蜥蜴に劣らず、堂々と死ね。人以外の者を詠みながら、私はすべて人のこととしても詠んでいる。
蚊が主人公の『恋の音楽』。
「生きようとして殺される わたしたち 蚊という生き物 愚かなり 人は知らない 壮大なファンタジー わたしたち 蚊が築きあげた 歴史と科学 超文明の底知れなさ」
人と蚊の間に、何の差もない。あえて蚊の方が上だということもない。平等である。たっぷりと、人の血を数がいい。あなたたちは生きるために、血を吸っている。私の血はまずいと思うが、吸ってくれるだけましである。吸われて痛いと思う。かゆいと思う。生きているからで、死んでしまえば、そうしたことも思わない。生きている証明に、血を吸ってほしい。生を実感させてほしい。
この歌を、いつか、自分で歌ってみたいと思う。私の実感がこもっている。歌いたいと思って当然だろう。歌いたいと思い、清道に詩を託したのだから。誰に対してもそうだが、私の中にある部分を、清道にも感じている。それが何か、あえて書かなくてもいいだろう。ここに書いたようなことである。
トロッタ15通信.39
iPadを買ったが、例えば電車の中でブログに書きこみ、twitterで発言する、などという使い方は、結局、できていない。これからもできないだろう。iPadも、きちんとした原稿を書くために使ってしまう。書評のためにスティーグ・ラーソンの『ミレニアム』三部作を読み通した。『ミレニアム』第一部は電子書籍になっているが、私は文庫本で読んだ。紙の本で読むことが、私の態度としては自然だ。電子書籍は読まない(使わない)。コンピュータは原稿を書くために使う。iPadも、手軽な使い方はしない。それが私なら、それでよい。
「トロッタ14通信」は、ひとつも書けなかった。各曲について、すでに2か月が経った今から、記録として書いておこう。演奏順に書いてゆく。トロッタ10から13まで書いた「トロッタ通信」を、原稿として、整理しておこうと思う。
トロッタ14通信〈記録〉.1
花の三部作最終章『祝いの花』op.53
〈作曲 橘川琢/詩・詩唱 木部与巴仁/花 上野雄次〉
『花の記憶』『死の花』に続く、橘川琢“花の三部作”最後を飾る曲である。『花の記憶』は2007年10月20日初演、『死の花』は2009年12月5日初演だから、2年おきに作曲・初演されてきたことになる。前二作に強かった〈死〉の印象を(依然として書いているものの)払拭したかった。最終章にふさわしい曲が聴けるだろう。上野雄次の花に注目したい。〈K〉
ソプラノ*大久保雅代 フルート[ピッコロ]*八木ちはる 〈弦楽五重奏〉Vn.戸塚ふみ代、Vn.田口 薫、Va.仁科拓也、Vc.小島遼子、Cb.丹野敏広 ピアノ*森川あづさ
【記録】そのようには書かれていないが、橘川琢のいう「詩歌曲」である。本来、ファゴットが予定されていたが無理となり、急遽、他の楽器で補うことになった。『花の記憶』初演当時、次の年にでも三部作を完成させて全曲を演奏、というようなプランもあったが、2007年から2011年まで、足掛け5年に及んだ。人によるだろうが、三部作を作るとは、そのくらいかかるということだ。『花の記憶』は、三度、演奏している。『祝いの花』は、初演時の記憶がまだ比較的新しいから、思い出せる。『死の花』の記憶が薄い。記録に残っているから演奏したことは間違いないのに。芝居でいうなら幕切れに、絶叫に近い声をあげた。覚えているのはそれだけだ。絶叫など、したくない。それを覚えているという皮肉。これで、いいのだろうか(自分に対して疑問に思っていることだ)。三部作を仮に通した時、曲ごとに編成が違うし、どうなるのか見当がつかない。
『祝いの花』は、三部作で最も大きな編成となった。上野雄次の花も、大きなものとなった。巨大な花を背負って客席最後列に現われ、中央通路を進んで舞台に至る。花の塊を背負っているから、上野の姿は見えない。舞台への階段を上り、上ったところで静止して、花を鋏みで切ってゆく。切る音が会場に響く。演奏が終わると、赤い花が宙にまかれる。音楽を聴きながら、お客様は何を見ていたのか。音楽面では、詩唱を音楽として受け取っていただけるなら、編成が大きいだけに、聴こえたのかという疑問がある。合わせの時間があまり取れず、練る時間が決定的に不足した。『死の花』が記憶にないのも、初演から時間が経ったこともあるが、こうした練習時間の不足に原因があると思う。結局、『花の記憶』が最もまとまっていて、三部作の本質はすべてそこにある、というような考えになる。すべて『花の記憶』にあるなら、残りの二曲はできなくてもよかった、ということになってしまう。三部作だが、一曲一曲に、独立した作品性を求めたい。『祝いの花』は、大きな音の塊を作り上げる意図は見えた。音も声も、ぶつけあって塊にする。作曲者の意図はわからないが、詩唱していて、そのように感じた。その効果があったのかどうか。舞台上からはわからない(この点も、『花の記憶』には舞台上で手応えを感じたのだ)。
橘川琢と、トロッタについて初めて話した時。朗読があって楽器の演奏がある、そのようなことをしたかったと聞いた。それは、達成されたかもしれない。たくさんの詩歌曲が生まれた。その結果。詩唱のない曲に、今の橘川の気持ちは向かっているかも知れない。それならば、それでよい。橘川が曲を発表しようとする。詩唱があるだろうと思う。それは予定調和だ。予定調和は避けたい。詩唱曲だけではないだろうというような迷いが、橘川に生じているかもしれない。それはそれでよい。花の三部作が終わったのだし、転換点かも知れない。それでいいのだ。私たちは、常に転換点に立っているはずだ。−−もともと、橘川には文学的な思考が強かった。曲名を振り返ればわかる。詩歌曲第一番、というような命名はしない。既にある文学作品に拠ることもあった。次のような例がある。『都市の肖像』」第一集「ロマンス」op.21~ヴァイオリンとピアノによる~第一曲「Romance」、第二曲「Silent Actress」、第三曲「水の歌が聴こえる」(2008)、第四曲「少年期/コール・ドラッジュの庭」。詩はもともと第一番などと呼ばれず、文学的な題名がつけられているから(何が文学的か、議論はあるだろう。文学的な姿勢、態度を橘川に感じる)。そのような姿勢が、詩歌曲に現われていたといえるだろう。
「トロッタ14通信」は、ひとつも書けなかった。各曲について、すでに2か月が経った今から、記録として書いておこう。演奏順に書いてゆく。トロッタ10から13まで書いた「トロッタ通信」を、原稿として、整理しておこうと思う。
トロッタ14通信〈記録〉.1
花の三部作最終章『祝いの花』op.53
〈作曲 橘川琢/詩・詩唱 木部与巴仁/花 上野雄次〉
『花の記憶』『死の花』に続く、橘川琢“花の三部作”最後を飾る曲である。『花の記憶』は2007年10月20日初演、『死の花』は2009年12月5日初演だから、2年おきに作曲・初演されてきたことになる。前二作に強かった〈死〉の印象を(依然として書いているものの)払拭したかった。最終章にふさわしい曲が聴けるだろう。上野雄次の花に注目したい。〈K〉
ソプラノ*大久保雅代 フルート[ピッコロ]*八木ちはる 〈弦楽五重奏〉Vn.戸塚ふみ代、Vn.田口 薫、Va.仁科拓也、Vc.小島遼子、Cb.丹野敏広 ピアノ*森川あづさ
【記録】そのようには書かれていないが、橘川琢のいう「詩歌曲」である。本来、ファゴットが予定されていたが無理となり、急遽、他の楽器で補うことになった。『花の記憶』初演当時、次の年にでも三部作を完成させて全曲を演奏、というようなプランもあったが、2007年から2011年まで、足掛け5年に及んだ。人によるだろうが、三部作を作るとは、そのくらいかかるということだ。『花の記憶』は、三度、演奏している。『祝いの花』は、初演時の記憶がまだ比較的新しいから、思い出せる。『死の花』の記憶が薄い。記録に残っているから演奏したことは間違いないのに。芝居でいうなら幕切れに、絶叫に近い声をあげた。覚えているのはそれだけだ。絶叫など、したくない。それを覚えているという皮肉。これで、いいのだろうか(自分に対して疑問に思っていることだ)。三部作を仮に通した時、曲ごとに編成が違うし、どうなるのか見当がつかない。
『祝いの花』は、三部作で最も大きな編成となった。上野雄次の花も、大きなものとなった。巨大な花を背負って客席最後列に現われ、中央通路を進んで舞台に至る。花の塊を背負っているから、上野の姿は見えない。舞台への階段を上り、上ったところで静止して、花を鋏みで切ってゆく。切る音が会場に響く。演奏が終わると、赤い花が宙にまかれる。音楽を聴きながら、お客様は何を見ていたのか。音楽面では、詩唱を音楽として受け取っていただけるなら、編成が大きいだけに、聴こえたのかという疑問がある。合わせの時間があまり取れず、練る時間が決定的に不足した。『死の花』が記憶にないのも、初演から時間が経ったこともあるが、こうした練習時間の不足に原因があると思う。結局、『花の記憶』が最もまとまっていて、三部作の本質はすべてそこにある、というような考えになる。すべて『花の記憶』にあるなら、残りの二曲はできなくてもよかった、ということになってしまう。三部作だが、一曲一曲に、独立した作品性を求めたい。『祝いの花』は、大きな音の塊を作り上げる意図は見えた。音も声も、ぶつけあって塊にする。作曲者の意図はわからないが、詩唱していて、そのように感じた。その効果があったのかどうか。舞台上からはわからない(この点も、『花の記憶』には舞台上で手応えを感じたのだ)。
橘川琢と、トロッタについて初めて話した時。朗読があって楽器の演奏がある、そのようなことをしたかったと聞いた。それは、達成されたかもしれない。たくさんの詩歌曲が生まれた。その結果。詩唱のない曲に、今の橘川の気持ちは向かっているかも知れない。それならば、それでよい。橘川が曲を発表しようとする。詩唱があるだろうと思う。それは予定調和だ。予定調和は避けたい。詩唱曲だけではないだろうというような迷いが、橘川に生じているかもしれない。それはそれでよい。花の三部作が終わったのだし、転換点かも知れない。それでいいのだ。私たちは、常に転換点に立っているはずだ。−−もともと、橘川には文学的な思考が強かった。曲名を振り返ればわかる。詩歌曲第一番、というような命名はしない。既にある文学作品に拠ることもあった。次のような例がある。『都市の肖像』」第一集「ロマンス」op.21~ヴァイオリンとピアノによる~第一曲「Romance」、第二曲「Silent Actress」、第三曲「水の歌が聴こえる」(2008)、第四曲「少年期/コール・ドラッジュの庭」。詩はもともと第一番などと呼ばれず、文学的な題名がつけられているから(何が文学的か、議論はあるだろう。文学的な姿勢、態度を橘川に感じる)。そのような姿勢が、詩歌曲に現われていたといえるだろう。
2012年1月14日土曜日
トロッタ15通信.38
ブログやツイッターの書き分けについて。ブログは、〈トロッタ論〉(仮題)を改めて書く。これは連載のための、正式の題をつける。並行して、日々の報告などを書く。これを従来の「トロッタ15通信」とする。ツイッターは、2つあるうち、ひとつは日々の報告で、「トロッタ15通信」と同じ。もうひとつは、木部個人の活動報告などを書く。
2012年1月9日月曜日
トロッタ15通信.37
昨夜から、詩を二篇、書く。
ひとつは『秋の一族』。橘川琢氏のための詩で、2009年初演の『冬の鳥』、2010年初演の『夏の國』に続く、四季シリーズの第三作となるべきもの。いつか曲になればいいと思う。
もうひとつは、トロッタ15のための『トロッタ、七年の夢』。酒井健吉氏作曲、清道洋一氏演出、中川博正氏詩唱のための詩。トロッタ1で演奏し、初演は2005年だった、『トロッタで見た夢』の続編である。
ひとつは『秋の一族』。橘川琢氏のための詩で、2009年初演の『冬の鳥』、2010年初演の『夏の國』に続く、四季シリーズの第三作となるべきもの。いつか曲になればいいと思う。
もうひとつは、トロッタ15のための『トロッタ、七年の夢』。酒井健吉氏作曲、清道洋一氏演出、中川博正氏詩唱のための詩。トロッタ1で演奏し、初演は2005年だった、『トロッタで見た夢』の続編である。
2012年1月8日日曜日
トロッタ15通信.36
ほとんど読み返すことのなかった過去の原稿に、今に続いている、私の考えを見ます。トロッタ以前のことですが、トロッタを開く態度、詩と音楽をめぐるテーマが、ここにあるように思います。年末に書いた、萩原朔太郎にも通じるでしょう。というより、すべてに通じます。
〈第3回〉
ピエールには、DVD『サラヴァ』として発表された以外にも、数多くの映像作品がある。まず挙げたいのは、衛星放送の電波に乗り、ビデオにもなって発売された『Nuits de Nacre'91〜真珠貝の夜・チュール〜』である。フランス南西部の町チュールで開かれたアコーディオンの国際フェスティバルに出かけ、ピエール自らがヴィデオ・カメラを回した。翌92年にカナダで撮影され、今は予告編にとどまっている続編も、彼の頭の中にはあるらしい。
さらに、2003年に一夜だけの上映会がもたれた『サヴァ サヴィアン(BIS)』。チンドン屋“かぼちゃ商会”がフランス各地で演奏する姿をとらえた映像から、私たちは音楽に寄せたピエールの愛情を存分に感じ取る。チンドン屋とは、街を歩き、移動しながら演奏することに、その音楽の本質がある。旅と音楽が人生の始まりからほとんど同義であったピエールに重なるではないか。そしてこの作品は、1970年に創られた『サヴァ サヴィアン』の続編である。『サラヴァ』にも『真珠貝の夜』にも『サヴァ サヴィアン』にも、ピエール・バルーは終止符を打っていない。すべては“つづく…”。この他にも、知られていない作品はまだまだある。それらがピエールの納得できる形で世に出ることを望んでいる。
もう一度確認しよう。DVD『サラヴァ』の副題は、「時空を越えた散歩、または出逢い」である。バーデン・パウエル、ピシンギーニャ、ジョアン・ダ・バイアーナ、マリア・ベターニア、アダン・グザレバラダ、シブーカなど。彼らブラジルの音楽家たちには、ピエールがフランスから彼の地に旅をし、出逢ったことからこそ、私たちも時空を越えて、相まみえることができた。その姿をとどめるフィルムやヴィデオの力があるにせよ、まず出逢い、出逢うための旅、その行為なくして彼らの姿や声、創造される音を、私たちは見られなかったし聴けなかった。
〈第4回〉
「私の願いはあなたを私達と共に旅に連れて行くことです」
ピエールがこのように語り始める時、34年という歳月の壁は消える。
「ブラジル音楽はアフリカ音楽の影響を受けたの?」
「すべてそうだよ。ルーツは皆、アフリカだ。ハーモニーではジャズの影響を受け、リズムではアフリカがルーツだ。この2つを合わせると、奇麗なサンバが1曲出来る」
ピエールとバーデンの会話は、たった今、この瞬間に交わされているのである。
「私の選曲にはいつも深い理由があるの。例えば今は私の兄、カエターノ・ヴェローゾが国外追放されていて、私はブラジルだから……」
マリア・ベターニアの言葉だ。!969年、時の軍事政権によってブラジルを追われ、ロンドンに住むことを余儀なくされていたカエターノ。画面には姿を現わさないが、彼の存在も『サラヴァ』の背後にある。
「悪ふざけはやめよう/ソクラテスとプラトンは最初に茶番劇に参加した哲学者/悪ふざけは止めよう/教会の門の前で飢えた者達が来はしない救い主を待っている」
何と深い、アダンの声と詩。これはいつの歌なのか? 古代にもありえたし、中世にもありえた。それこそ時空を越えた音楽家が、現代のリオ・デ・ジャネイロにいたという奇跡。当時のアダンは400以上の曲を書いたが、それは彼が住む貧民街の住人以外に知られることはなかったと、ピエールは書き添えている。真の音楽家とは、そのようなものかもしれない。
ピエール・バルーは歌をうたって楽器を奏でる音楽家だが、その本質にあるのは詩。『サラヴァ』を観ればわかる。彼は人の理知ではなく、情動に訴えている。鉛筆と紙とギターを小型のヴィデオ・カメラに持ち替えて詩を創っている。
この年この時期のブラジルにはこんなことがあった、こんな人々がいた、こんな音楽が……。ドキュメンタリーを創るつもりなら、他にもっと方法があっただろう。映像の文法とでもいうべきものが。しかし、彼は説明を避けている。博物館のキュレーターのように、一つ一つの場面を懇切丁寧に案内しようとはしていない。字幕さえ、イマジネーションと発見の楽しみを大切にしたいという理由で、最小限にとどめられているのだから。
ブラジル音楽に明るくなく、言葉もわからない人には、何が語られているのか、語られていることが何なのか、わからないかもしれない。しかし、それでいい。知識は得られなくても実感が残る。ブラジル音楽の精髄に触れた手ごたえが残っている。もっと観たい、もっと聴きたい、もっと歌いたいという気持ちが生まれている。未知のものを求める旅人の態度に、似ていないだろうか。それをもたらしのはピエール・バルーの、詩人としての力だ。
2007.7.3
木部与巴仁
〈第3回〉
ピエールには、DVD『サラヴァ』として発表された以外にも、数多くの映像作品がある。まず挙げたいのは、衛星放送の電波に乗り、ビデオにもなって発売された『Nuits de Nacre'91〜真珠貝の夜・チュール〜』である。フランス南西部の町チュールで開かれたアコーディオンの国際フェスティバルに出かけ、ピエール自らがヴィデオ・カメラを回した。翌92年にカナダで撮影され、今は予告編にとどまっている続編も、彼の頭の中にはあるらしい。
さらに、2003年に一夜だけの上映会がもたれた『サヴァ サヴィアン(BIS)』。チンドン屋“かぼちゃ商会”がフランス各地で演奏する姿をとらえた映像から、私たちは音楽に寄せたピエールの愛情を存分に感じ取る。チンドン屋とは、街を歩き、移動しながら演奏することに、その音楽の本質がある。旅と音楽が人生の始まりからほとんど同義であったピエールに重なるではないか。そしてこの作品は、1970年に創られた『サヴァ サヴィアン』の続編である。『サラヴァ』にも『真珠貝の夜』にも『サヴァ サヴィアン』にも、ピエール・バルーは終止符を打っていない。すべては“つづく…”。この他にも、知られていない作品はまだまだある。それらがピエールの納得できる形で世に出ることを望んでいる。
もう一度確認しよう。DVD『サラヴァ』の副題は、「時空を越えた散歩、または出逢い」である。バーデン・パウエル、ピシンギーニャ、ジョアン・ダ・バイアーナ、マリア・ベターニア、アダン・グザレバラダ、シブーカなど。彼らブラジルの音楽家たちには、ピエールがフランスから彼の地に旅をし、出逢ったことからこそ、私たちも時空を越えて、相まみえることができた。その姿をとどめるフィルムやヴィデオの力があるにせよ、まず出逢い、出逢うための旅、その行為なくして彼らの姿や声、創造される音を、私たちは見られなかったし聴けなかった。
〈第4回〉
「私の願いはあなたを私達と共に旅に連れて行くことです」
ピエールがこのように語り始める時、34年という歳月の壁は消える。
「ブラジル音楽はアフリカ音楽の影響を受けたの?」
「すべてそうだよ。ルーツは皆、アフリカだ。ハーモニーではジャズの影響を受け、リズムではアフリカがルーツだ。この2つを合わせると、奇麗なサンバが1曲出来る」
ピエールとバーデンの会話は、たった今、この瞬間に交わされているのである。
「私の選曲にはいつも深い理由があるの。例えば今は私の兄、カエターノ・ヴェローゾが国外追放されていて、私はブラジルだから……」
マリア・ベターニアの言葉だ。!969年、時の軍事政権によってブラジルを追われ、ロンドンに住むことを余儀なくされていたカエターノ。画面には姿を現わさないが、彼の存在も『サラヴァ』の背後にある。
「悪ふざけはやめよう/ソクラテスとプラトンは最初に茶番劇に参加した哲学者/悪ふざけは止めよう/教会の門の前で飢えた者達が来はしない救い主を待っている」
何と深い、アダンの声と詩。これはいつの歌なのか? 古代にもありえたし、中世にもありえた。それこそ時空を越えた音楽家が、現代のリオ・デ・ジャネイロにいたという奇跡。当時のアダンは400以上の曲を書いたが、それは彼が住む貧民街の住人以外に知られることはなかったと、ピエールは書き添えている。真の音楽家とは、そのようなものかもしれない。
ピエール・バルーは歌をうたって楽器を奏でる音楽家だが、その本質にあるのは詩。『サラヴァ』を観ればわかる。彼は人の理知ではなく、情動に訴えている。鉛筆と紙とギターを小型のヴィデオ・カメラに持ち替えて詩を創っている。
この年この時期のブラジルにはこんなことがあった、こんな人々がいた、こんな音楽が……。ドキュメンタリーを創るつもりなら、他にもっと方法があっただろう。映像の文法とでもいうべきものが。しかし、彼は説明を避けている。博物館のキュレーターのように、一つ一つの場面を懇切丁寧に案内しようとはしていない。字幕さえ、イマジネーションと発見の楽しみを大切にしたいという理由で、最小限にとどめられているのだから。
ブラジル音楽に明るくなく、言葉もわからない人には、何が語られているのか、語られていることが何なのか、わからないかもしれない。しかし、それでいい。知識は得られなくても実感が残る。ブラジル音楽の精髄に触れた手ごたえが残っている。もっと観たい、もっと聴きたい、もっと歌いたいという気持ちが生まれている。未知のものを求める旅人の態度に、似ていないだろうか。それをもたらしのはピエール・バルーの、詩人としての力だ。
2007.7.3
木部与巴仁
2012年1月7日土曜日
トロッタ15通信.35
2003年7月に書きました、ピエール・バルー氏についての文章の2回目です。もう9年前であることに今さらながら驚きます。しかし、9年前のことだけあって、私がなぜ、どういう経緯でこの原稿を書くことになったのか、はっきりしません。当時はサイトにいろいろと原稿を書いていました。そこに、この土台となった原稿を載せ、それをご覧いただいた上で、オーマガトキ連絡をいただいて、ということだと思います。
「拒まれたピリオド。ピエール・バルーの詩と人生」
〈第2回〉
ピエール・バルーがこの世に生を享けたのは、1934年2月19日。パリに近いルヴァロワに生まれたが、両親は、トルコのコンスタンチノープルから移り住んでいた。移動した者の子であり、旅を宿命づけられた子であったと見ることができよう。そのピエールが自ら欲して行う旅は、14歳のころから始まったと聞く。
「少年時代、私の散歩の始まりの頃、道路の両側で交互にヒッチハイクをしていた。北に行ったり南に行ったり、西に東に…水に浮かんだコルク栓と同じ」
CD『ITCHI GO ITCHI E』の解説で、彼はこのように語っている。散歩といい旅という、その行為。欠かせなかったのは、一丁のギターだった。心の赴くままにギターを弾き、歌い、詩を書いた。詩は−−、少年時代に観た映画『悪魔が夜来る』(“LES VISITEURS DU SOIR”)に影響されて志した。マルセル・カルネの監督作品であり、脚本には、フランスの20世紀を代表する詩人、ジャック・プレヴェールが参加している。『悪魔が夜来る』の何が、どこが、少年ピエールの心を動かしたのか。興味は尽きない。
青年時代、フランス代表に選ばれるほどバレーボールに打ちこんだピエールは、音楽に加えてスポーツを介し、見知らぬ人との出逢いを持てた。同じく『ITCHI GO ITCHI E』の解説より拾ってみる。
「リスボン1959年、独裁政権サラザール。ブルージンにギターをかかえた私は実にうさんくさい存在であったが、どんな政権でも地下のルートはあるものだ。タージ河のむこうの漁村にとめてもらいバレーボールを通して友達を作った私は時々リスボンのイタリアレストラン『ソレント』で歌を歌った。その頃ベロアルト近くのあるキャバレーでシブーカを発見しとりこになった。彼こそが当時まったく知られてなかったブラジル音楽の豊かなメロディとハーモニーそして詩の内容を教えてくれた人だ。ジョアン・ジルベルト、アントニオ・カルロス・ジョビン、ヴィニシウス・ヂ・モライスそして後にバーデン・パウエル等の貴公子達に会わせてくれたのもシブーカだ」
さらにこんな言葉も−−。
「人は一生たったひとつの核のまわりに人生を築いてゆく。私の場合は初めて歌を作った15才の時から『むこう岸』(未知のもの)への憧れがマクニールやブリジット・フォンテーヌ、ピエール・アケンダンゲらに扉をひらかせ、テアトル・アレフと芝居をやらせ、映画や歌を作らせてきた。そうやって私の出会った素晴らしいものや人の証言者になりたいのだ」
1966年にはクロード・ルルーシュ監督の『男と女』(“UN HOMME ET UNE FEMME”)に出演し、『サンバ・サラヴァ』を歌った。カンヌ映画祭でグランプリを、アカデミー賞では外国語映画賞を獲得するなどしたこの映画によって、ピエール・バルーの名と才能は世界に知られる。しかし、ピエールは映画スターとしての可能性をあっさり捨てた。映画産業という共同体社会に見切りをつけ、サラヴァ・レーベルを創設し、未知の表現者との出逢いを求める。もったいないことかもしれないし、残念なことかもしれないが、ピエールの思い切りを私は支持したい。
『男と女』を観る人は、ピエールの存在感があまりにも異質であることに気づくだろう。彼の出演場面のみ空気間が違っている。演技や台詞回しで他の俳優と斬り結ぶわけではなく、過剰な自己主張を画面にほとばしらせるでもなく、ピエール・バルーはピエール・バルーとして存在している。実際に逢った印象と寸分違わぬピエールが『男と女』に現われるので、かえって驚いてしまうほどだ。
彼は映画俳優か? ノン。彼は歌い手か? ノン。彼はピール・バルーである。自分を一つの場所、一つの姿にとどめない。それもまた旅人としての生き方だ、旅人は共同体では−−、そう、生きられない。
「拒まれたピリオド。ピエール・バルーの詩と人生」
〈第2回〉
ピエール・バルーがこの世に生を享けたのは、1934年2月19日。パリに近いルヴァロワに生まれたが、両親は、トルコのコンスタンチノープルから移り住んでいた。移動した者の子であり、旅を宿命づけられた子であったと見ることができよう。そのピエールが自ら欲して行う旅は、14歳のころから始まったと聞く。
「少年時代、私の散歩の始まりの頃、道路の両側で交互にヒッチハイクをしていた。北に行ったり南に行ったり、西に東に…水に浮かんだコルク栓と同じ」
CD『ITCHI GO ITCHI E』の解説で、彼はこのように語っている。散歩といい旅という、その行為。欠かせなかったのは、一丁のギターだった。心の赴くままにギターを弾き、歌い、詩を書いた。詩は−−、少年時代に観た映画『悪魔が夜来る』(“LES VISITEURS DU SOIR”)に影響されて志した。マルセル・カルネの監督作品であり、脚本には、フランスの20世紀を代表する詩人、ジャック・プレヴェールが参加している。『悪魔が夜来る』の何が、どこが、少年ピエールの心を動かしたのか。興味は尽きない。
青年時代、フランス代表に選ばれるほどバレーボールに打ちこんだピエールは、音楽に加えてスポーツを介し、見知らぬ人との出逢いを持てた。同じく『ITCHI GO ITCHI E』の解説より拾ってみる。
「リスボン1959年、独裁政権サラザール。ブルージンにギターをかかえた私は実にうさんくさい存在であったが、どんな政権でも地下のルートはあるものだ。タージ河のむこうの漁村にとめてもらいバレーボールを通して友達を作った私は時々リスボンのイタリアレストラン『ソレント』で歌を歌った。その頃ベロアルト近くのあるキャバレーでシブーカを発見しとりこになった。彼こそが当時まったく知られてなかったブラジル音楽の豊かなメロディとハーモニーそして詩の内容を教えてくれた人だ。ジョアン・ジルベルト、アントニオ・カルロス・ジョビン、ヴィニシウス・ヂ・モライスそして後にバーデン・パウエル等の貴公子達に会わせてくれたのもシブーカだ」
さらにこんな言葉も−−。
「人は一生たったひとつの核のまわりに人生を築いてゆく。私の場合は初めて歌を作った15才の時から『むこう岸』(未知のもの)への憧れがマクニールやブリジット・フォンテーヌ、ピエール・アケンダンゲらに扉をひらかせ、テアトル・アレフと芝居をやらせ、映画や歌を作らせてきた。そうやって私の出会った素晴らしいものや人の証言者になりたいのだ」
1966年にはクロード・ルルーシュ監督の『男と女』(“UN HOMME ET UNE FEMME”)に出演し、『サンバ・サラヴァ』を歌った。カンヌ映画祭でグランプリを、アカデミー賞では外国語映画賞を獲得するなどしたこの映画によって、ピエール・バルーの名と才能は世界に知られる。しかし、ピエールは映画スターとしての可能性をあっさり捨てた。映画産業という共同体社会に見切りをつけ、サラヴァ・レーベルを創設し、未知の表現者との出逢いを求める。もったいないことかもしれないし、残念なことかもしれないが、ピエールの思い切りを私は支持したい。
『男と女』を観る人は、ピエールの存在感があまりにも異質であることに気づくだろう。彼の出演場面のみ空気間が違っている。演技や台詞回しで他の俳優と斬り結ぶわけではなく、過剰な自己主張を画面にほとばしらせるでもなく、ピエール・バルーはピエール・バルーとして存在している。実際に逢った印象と寸分違わぬピエールが『男と女』に現われるので、かえって驚いてしまうほどだ。
彼は映画俳優か? ノン。彼は歌い手か? ノン。彼はピール・バルーである。自分を一つの場所、一つの姿にとどめない。それもまた旅人としての生き方だ、旅人は共同体では−−、そう、生きられない。
2012年1月6日金曜日
トロッタ15通信.34
昨日、音楽製作者のTさんから年賀メールがありました。フランスのサラヴァ・レーベルのCDを、日本で発売することになったそうです。Tさんはかつて、レコード会社のオーマガトキに所属しておられましたが、お辞めになって、その後はどうされているのか、私は存じ上げないままでした。
年賀メールによると、今はヤマハミュージックアンドビジュアルズに属しておられるようです。そのTさんがサラヴァのCDを出すというのですから、サラヴァのCDはつまり、ヤマハから出る、ということでしょうか。そして、このヤマハミュージックアンドビジュアルズの住所が、トロッタ9の会場だった、ヤマハエレクトーンシティ渋谷と同じなのです。やはり、サラヴァのCDはヤマハから発売されると考えて間違いないようです。
Tさんは、オーマガトキでもサラヴァを担当しておられました。新たな職場でもサラヴァに関わります。サラヴァに対する、相当の思いがあると受けとめました。そのTさんに、かつて原稿を依頼されたことがあります。サラヴァの主宰者、詩人で歌手のピエール・バルーが撮ったドキュメンタリー映画『SARAVAH』の解説です。ボサノヴァを弾いたギタリスト、石井康史さんが亡くなったことを思い続けるうち、ブラジル音楽の神髄に触れようとしたこの映像作品に、思いは自然に至りました。2006年以来、谷中ボッサで「ボッサ/声と音の会」を行っています。トロッタ以前のスタートですが、その第一回ゲストが、ピエール・バルーでした。DVDを開けて自分の原稿を取り出すと、2003年の執筆になっています。もうすぐ10年になろうとする古さです。しかし、昨日書いたような気がしています。音楽の出発点は人それぞれです。私の音楽への思いは、このピエール・バルーの姿、個人ではなくてもピエール・バルーのような人の姿(それは古来の吟遊詩人といってもいい)に重ねられます。書くことはまだ多いのですが、DVDの解説文「拒まれたピリオド。ピエール・バルーの詩と人生」を改めてここに書き、原点を振り返ります。これは、石井康史さん追悼のための準備でもあります。
〈第1回〉
あなたは−−と、他人に指を向ける前に、まず自分に問うてみる。“私は旅を必要としているのか? 旅を求めているのか?”と。
空間移動としての旅なら。必ずしも私には必要ない。たった今いる東京を、仮に一生離れなくても苦痛を感じないだろうという予感がある。もちろん、現実の自分に満足できなくて、さまざまな事柄に思いを馳せる想念としての旅ならば、それは私にも必要だ。心の旅、精神の旅なしではたちまち窒息してしまう。
しかし世の中には、点から点へ、線を伝って線へと、空間を移動しなくてはどうにもいられない人がいる。その過程で彼や彼女も、心の旅路をたどるのだろう。ピエール・バルーとはまさしく、そのような生来の旅人、生きていることそれ自体を旅に喩えるのはふさわしい人物だと映る。
DVD『サラヴァ』の副題は、「時空を越えた散歩、または出逢い」。映像作品に与えられた題名だが、これはピエール・バルーその人をも表わしている。彼は時空を超えた散歩者であり、その結果としての出逢いを求め、受けとめている人間だ。
『サラヴァ』には、長短の別がある四つの作品が収められている。「1969 Rio de Janeiro」を始めとする、「2003 Tokyo」「1996 Rio de Janeiro」「1998 la suite…」。
もともは1969年の一作だけだったのが、今や四作を合わせて全体となった。見れば、最新作が二番目に配され、第二作が三番目に配されるなどの並べ替えがある。その上で、四番目の作は“つづく…”と題された。
製作年で区別するが、「1969」に登場したバーデン・パウエルの息子二人、ルイ・マルセルとフィリップが「2003」に登場し、「1969」では出逢えなかった音楽家アダン・グザレバラダが「1996」に現われ、そのアダン作曲の『アラウルン』を「1998」ではビーアが歌う。
バーデンを始め、ピシンギーニャやジョアン・ダ・バイアーナは既に亡い。しかし40数年前、ピエールをブラジル音楽に巡り合わせたシブーカの姿を、私たちは観ることができる。マリア・ベターニアとパウリーニョ・ダ・ヴィオラはいまだ若く、その一方でアダンは貧民街から教会の施療院へと身を移し、したたかに音楽を創り続けている。そして、そうしたことの一切に立ち会い、観る私たちに語りかけるのはピエール・バルー。人と人、街と街、国と国、さらに時間と時間を結ぶ、音楽というものの力、不思議さを実感する。
「1998」が「1969」に還ってゆくととらえてもいいし、「1998」から伸びる線上に、まだ創られぬ何かがあるととらえるのもいい。それはもしかすると映像の形をとらず、詩として現われるかもしれず、『ラスト・チャンス・キャバレー』のように音楽劇の姿をまとうかもしれない。全体が円環する場合でも、環の途中に未来の作品が挿しはさまれていくだろう。いずれにせよ『サラヴァ』の世界は永遠に終わらない、終わらせないというピエールの意志を見る。旅人の態度である。旅とは何かを知っている者の態度である。(つづく)
年賀メールによると、今はヤマハミュージックアンドビジュアルズに属しておられるようです。そのTさんがサラヴァのCDを出すというのですから、サラヴァのCDはつまり、ヤマハから出る、ということでしょうか。そして、このヤマハミュージックアンドビジュアルズの住所が、トロッタ9の会場だった、ヤマハエレクトーンシティ渋谷と同じなのです。やはり、サラヴァのCDはヤマハから発売されると考えて間違いないようです。
Tさんは、オーマガトキでもサラヴァを担当しておられました。新たな職場でもサラヴァに関わります。サラヴァに対する、相当の思いがあると受けとめました。そのTさんに、かつて原稿を依頼されたことがあります。サラヴァの主宰者、詩人で歌手のピエール・バルーが撮ったドキュメンタリー映画『SARAVAH』の解説です。ボサノヴァを弾いたギタリスト、石井康史さんが亡くなったことを思い続けるうち、ブラジル音楽の神髄に触れようとしたこの映像作品に、思いは自然に至りました。2006年以来、谷中ボッサで「ボッサ/声と音の会」を行っています。トロッタ以前のスタートですが、その第一回ゲストが、ピエール・バルーでした。DVDを開けて自分の原稿を取り出すと、2003年の執筆になっています。もうすぐ10年になろうとする古さです。しかし、昨日書いたような気がしています。音楽の出発点は人それぞれです。私の音楽への思いは、このピエール・バルーの姿、個人ではなくてもピエール・バルーのような人の姿(それは古来の吟遊詩人といってもいい)に重ねられます。書くことはまだ多いのですが、DVDの解説文「拒まれたピリオド。ピエール・バルーの詩と人生」を改めてここに書き、原点を振り返ります。これは、石井康史さん追悼のための準備でもあります。
〈第1回〉
あなたは−−と、他人に指を向ける前に、まず自分に問うてみる。“私は旅を必要としているのか? 旅を求めているのか?”と。
空間移動としての旅なら。必ずしも私には必要ない。たった今いる東京を、仮に一生離れなくても苦痛を感じないだろうという予感がある。もちろん、現実の自分に満足できなくて、さまざまな事柄に思いを馳せる想念としての旅ならば、それは私にも必要だ。心の旅、精神の旅なしではたちまち窒息してしまう。
しかし世の中には、点から点へ、線を伝って線へと、空間を移動しなくてはどうにもいられない人がいる。その過程で彼や彼女も、心の旅路をたどるのだろう。ピエール・バルーとはまさしく、そのような生来の旅人、生きていることそれ自体を旅に喩えるのはふさわしい人物だと映る。
DVD『サラヴァ』の副題は、「時空を越えた散歩、または出逢い」。映像作品に与えられた題名だが、これはピエール・バルーその人をも表わしている。彼は時空を超えた散歩者であり、その結果としての出逢いを求め、受けとめている人間だ。
『サラヴァ』には、長短の別がある四つの作品が収められている。「1969 Rio de Janeiro」を始めとする、「2003 Tokyo」「1996 Rio de Janeiro」「1998 la suite…」。
もともは1969年の一作だけだったのが、今や四作を合わせて全体となった。見れば、最新作が二番目に配され、第二作が三番目に配されるなどの並べ替えがある。その上で、四番目の作は“つづく…”と題された。
製作年で区別するが、「1969」に登場したバーデン・パウエルの息子二人、ルイ・マルセルとフィリップが「2003」に登場し、「1969」では出逢えなかった音楽家アダン・グザレバラダが「1996」に現われ、そのアダン作曲の『アラウルン』を「1998」ではビーアが歌う。
バーデンを始め、ピシンギーニャやジョアン・ダ・バイアーナは既に亡い。しかし40数年前、ピエールをブラジル音楽に巡り合わせたシブーカの姿を、私たちは観ることができる。マリア・ベターニアとパウリーニョ・ダ・ヴィオラはいまだ若く、その一方でアダンは貧民街から教会の施療院へと身を移し、したたかに音楽を創り続けている。そして、そうしたことの一切に立ち会い、観る私たちに語りかけるのはピエール・バルー。人と人、街と街、国と国、さらに時間と時間を結ぶ、音楽というものの力、不思議さを実感する。
「1998」が「1969」に還ってゆくととらえてもいいし、「1998」から伸びる線上に、まだ創られぬ何かがあるととらえるのもいい。それはもしかすると映像の形をとらず、詩として現われるかもしれず、『ラスト・チャンス・キャバレー』のように音楽劇の姿をまとうかもしれない。全体が円環する場合でも、環の途中に未来の作品が挿しはさまれていくだろう。いずれにせよ『サラヴァ』の世界は永遠に終わらない、終わらせないというピエールの意志を見る。旅人の態度である。旅とは何かを知っている者の態度である。(つづく)
トロッタ15通信.33
ここ数日、新しい原稿を書いているので、ブログの更新が滞っていました。それとは別のことも考えています。以下は、昨年末に発行した「詩の通信VI」第11号の文面です。
*
《後記》十二月十七日(土)、ギタリストの石井康史さんが亡くなられました。五十二歳でした。南米文学の研究者で、慶應義塾大学で教鞭をとられていましたが、私は二〇〇六年六月四日(日)、第二回「ボッサ 声と音の会」での共演を記憶します。ゲストの細川周平さんのご紹介で、打楽器の内藤修央さんと共に石井さんが出演されました。脳腫瘍で倒れ、半身がご不自由になり、ギターも弾けなくなりましたが、リハビリにつとめ、いったんは教壇に復帰なさいました。十月の第一週までは授業も行なっていたということです(情報を総合すると、一進一退だったのだろうと想像します)。訃報に接してすぐに思ったのは、追悼詩を書きたいということでした。最近、心にとどめている萩原朔太郎の詩に『ぎたる弾くひと』があるので、それに触発される形で『ギター弾く人』を書きました。それが今号の詩です。石井さんがなされた、南米文学の成果は残念ながら存じ上げません。日本語訳が近年に出た、ロベルト・ボラーニョの作品についてお話しをしたことがあり、(原文で読める方に対しておかしな話ですが、病中の石井さんに求められたので)ボラーニョの作品集『通話』を、お見舞いに持参しました。私にとって石井さんはまず、ギタリストでした。ギターを弾く人として私の前に現われ、去って行きました。お別れの会の祭壇にギターが立てられていたことにも、ギタリスト、石井康史の面目は窺われました。石井さんとの共演はわずか一回なので、そんな私が追悼の演奏会などは開けません。せめて詩を書くことで、故人を偲びたいと思いました。石井康史さん、安らかに。もう存分に、ギターを弾けるでしょう。次号第十二号は、二〇一二年一月九日(月)発行予定です。 二〇一一年十二月二十八日(水)
*
私が石井康史さんと共演したのは、ただ一回です。例えば打楽器の内藤修央さんのように、石井さんと共演した音楽家はたくさんいます。そうした彼らによって、石井さんを偲ぶ演奏会が開かれることでしょう。しかし私も、私なりの会を開きたいと思います。会とはいわなくても、何らかの会で、一曲でも石井さんを偲ぶ曲を演奏したいと思います。
上記の『ギター弾く人』は、すでに田中修一さんによって楽曲化され、年末に届きました(12月28日発送、31日着)。この曲を中心にすることで、石井さんと共演した思い出の場所、谷中ボッサで会を開きたいと思うのです。思えばトロッタ1では、田中修一さんと酒井健吉さんによって、伊福部先生追悼作品が2曲、発表されました。音楽の会は人の魂に触れる機会です。石井康史さんの魂に、触れたいと思っています。
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《後記》十二月十七日(土)、ギタリストの石井康史さんが亡くなられました。五十二歳でした。南米文学の研究者で、慶應義塾大学で教鞭をとられていましたが、私は二〇〇六年六月四日(日)、第二回「ボッサ 声と音の会」での共演を記憶します。ゲストの細川周平さんのご紹介で、打楽器の内藤修央さんと共に石井さんが出演されました。脳腫瘍で倒れ、半身がご不自由になり、ギターも弾けなくなりましたが、リハビリにつとめ、いったんは教壇に復帰なさいました。十月の第一週までは授業も行なっていたということです(情報を総合すると、一進一退だったのだろうと想像します)。訃報に接してすぐに思ったのは、追悼詩を書きたいということでした。最近、心にとどめている萩原朔太郎の詩に『ぎたる弾くひと』があるので、それに触発される形で『ギター弾く人』を書きました。それが今号の詩です。石井さんがなされた、南米文学の成果は残念ながら存じ上げません。日本語訳が近年に出た、ロベルト・ボラーニョの作品についてお話しをしたことがあり、(原文で読める方に対しておかしな話ですが、病中の石井さんに求められたので)ボラーニョの作品集『通話』を、お見舞いに持参しました。私にとって石井さんはまず、ギタリストでした。ギターを弾く人として私の前に現われ、去って行きました。お別れの会の祭壇にギターが立てられていたことにも、ギタリスト、石井康史の面目は窺われました。石井さんとの共演はわずか一回なので、そんな私が追悼の演奏会などは開けません。せめて詩を書くことで、故人を偲びたいと思いました。石井康史さん、安らかに。もう存分に、ギターを弾けるでしょう。次号第十二号は、二〇一二年一月九日(月)発行予定です。 二〇一一年十二月二十八日(水)
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私が石井康史さんと共演したのは、ただ一回です。例えば打楽器の内藤修央さんのように、石井さんと共演した音楽家はたくさんいます。そうした彼らによって、石井さんを偲ぶ演奏会が開かれることでしょう。しかし私も、私なりの会を開きたいと思います。会とはいわなくても、何らかの会で、一曲でも石井さんを偲ぶ曲を演奏したいと思います。
上記の『ギター弾く人』は、すでに田中修一さんによって楽曲化され、年末に届きました(12月28日発送、31日着)。この曲を中心にすることで、石井さんと共演した思い出の場所、谷中ボッサで会を開きたいと思うのです。思えばトロッタ1では、田中修一さんと酒井健吉さんによって、伊福部先生追悼作品が2曲、発表されました。音楽の会は人の魂に触れる機会です。石井康史さんの魂に、触れたいと思っています。
2012年1月3日火曜日
トロッタ15通信.32
インターネット上のコミュニティサイトを整理する。twitter、facebookなどは、宣伝に役立つから活用すべきだという意見が多い。実際にそうかもしれないし、そうなのだろう。トロッタの集客に実効性はなくても、少なくともひとりでも多くの人に、トロッタの存在を知ってもらう点では有効だ。それは認めたとしても、所詮は他人が作ったものだという事実は否定できない。まさか同様のコミュニティを作る力はないが、他人の都合には、できるだけ左右されたくない。だから、サイト作りには、すべてではないが、HTMLを自分で書いてきた。初歩的なものである。恥ずかしくもあるが、自分の力で、できるだけのことをしている自負はある。まず発信するものとして、インターネットを使ったトロッタ独自のメディアを作れないか。難しいとわかっていながら、そう思っている。
2012年1月1日日曜日
トロッタ15通信.31
2012年が始まりました。大晦日、トロッタのサイトに、4月12日(火)の「北海道新聞」に掲載された「詩と音楽の力 伊福部昭と更科源蔵」の画像を掲載しました。伊福部先生と更科氏について考えることは、トロッタの原点のひとつだと思います。自分の原稿ですが、何度でも読み返したい思いです。
2011年12月31日土曜日
トロッタ15通信.30
トロッタ15での演奏予定曲を作曲の皆さんに送った。これで調整してゆく。
萩原朔太郎に関係する田中修一さんのことを、ここしばらく書いている。田中さんからは昨日、石井康史さんの追悼詩『ギター弾く人』を楽曲化した楽譜が届いた。こうしたことは、個人の名前を出しているが、それにとどまるものではない。トロッタがテーマにする、詩と音楽についての話である。今年の4月12日(火)、「北海道新聞」に「詩と音楽の力」と題する、伊福部昭・更科源蔵両氏に関する文章を寄せた。それと同じである。
萩原朔太郎に関係する田中修一さんのことを、ここしばらく書いている。田中さんからは昨日、石井康史さんの追悼詩『ギター弾く人』を楽曲化した楽譜が届いた。こうしたことは、個人の名前を出しているが、それにとどまるものではない。トロッタがテーマにする、詩と音楽についての話である。今年の4月12日(火)、「北海道新聞」に「詩と音楽の力」と題する、伊福部昭・更科源蔵両氏に関する文章を寄せた。それと同じである。
2011年12月30日金曜日
トロッタ15通信.30
昨日は、ほぼ一日をかけて、「ギターの友」次号に掲載する連載記事、「ギターとランプ」の最新記事を書いていた。夜になって完成し、送稿。締め切りはまだ先の来年1月20日だが、書きたくなったのである。内容は、萩原朔太郎の詩による歌を発表してきた田中修一について語りつつ、田中氏の考えを紹介するというもの。朔太郎の生地である群馬県前橋市にも行きたいが、なかなかそうはいかない。
トロッタの皆さんに、一年のお礼メールを送ろうと朝から考えていたが、できなかった。結局、一夜が開けたさっき、送信。一日にいくつものことができなくなってきた。早稲田奉仕園スコットホールが忘れ物を預かってくれており、ずっと、取りに行かなければと思いながらできず、やっと昨日行ったものの、すでに年末の休みに入っていた。ちぐはぐだ。近くの穴八幡神社が、年末に決まって行う冬至祭で賑わっていた。懐かしい。
トロッタの皆さんに、一年のお礼メールを送ろうと朝から考えていたが、できなかった。結局、一夜が開けたさっき、送信。一日にいくつものことができなくなってきた。早稲田奉仕園スコットホールが忘れ物を預かってくれており、ずっと、取りに行かなければと思いながらできず、やっと昨日行ったものの、すでに年末の休みに入っていた。ちぐはぐだ。近くの穴八幡神社が、年末に決まって行う冬至祭で賑わっていた。懐かしい。
2011年12月26日月曜日
トロッタ15通信.29
ギタリスト、石井康史さんの葬儀に参列。打楽器の内藤修央さん、音楽学の細川周平さんに会う。このおふたりと石井さんが、ボッサでの共演者だった。2006年のこと。石井さんの追悼演奏会をと思ったが、私などより、彼の追悼会を開くにふさわしい人はおおぜいいる。架空の追悼演奏会を、詩にしよう。
2011年12月23日金曜日
トロッタ15通信.28
思い切ってiPadを購入しました。これでブログやtwitterの更新をスムーズにできればと思います(この時点では文字入力に馴れていないので数行しか書けません)。
今夜は、上野雄次さんも出演する会に出かけました。池ノ上駅に近い現代HEIGHTSにて、上野雄次(はないけ)×吉本由美子(ギター)×坂本宰(影)によるパフォーマンスでした。
今夜は、上野雄次さんも出演する会に出かけました。池ノ上駅に近い現代HEIGHTSにて、上野雄次(はないけ)×吉本由美子(ギター)×坂本宰(影)によるパフォーマンスでした。
2011年12月21日水曜日
トロッタ15通信.27
ここしばらく、滞っていました。まとめて書きます。
■YouTubeへのアップを、断片的に継続。新しくアップした曲は、以下のとおり。
酒井健吉さん作曲『唄う』(トロッタ2より)
田中修一さん作曲『ヴァイオリンとピアノのためのエグログ』(トロッタ2より)
たった今も、アップのための作業を行っています。
12月18日(月)、トロッタのサイトに、「記録映像」のページを新設しました。そこに挙げられた曲名から、直接、YouTubeの動画にリンクさせました。過去を振り返ると、いろいろと思うことがあります。できるだけ、曲数を増やしたいと思います。
■昨日12月19日(月)、慶応義塾大学の教授の石井康史さんがお亡くなりになりました。石井さんは、私が初めて共演したギタリストでした。トロッタに出演された打楽器奏者、内藤修央さんのお友達でもあります。ショックでした。その知らせは外で受けたのですが、帰宅すると、大家さんが亡くなっていました。老衰です。こちらもショックでした。阿佐ケ谷の住まいで、お世話になりました。今年は身近に感じる人がたくさん亡くなっており、そのことを考えない日はないのに、一日に二人も周囲の方が亡くなるとはと、心が乱れました(大家さんのお通夜は20日、石井さんのお別れ会は25日)。
■12月16日(金)、柳珠里さんが出演された、「年の瀬&クリスマスコンサート」を聴きに、練馬文化センター小ホールに出かけました。I部が「日本の四季を歌う」、II部が「クリスマスにちなんで」。柳さんは、独唱としてはI部で『からたちの花』を歌いました。II部ではアンドルー・ロイド・ウェッバー作曲『ピエ・イェズ』をお歌いでしたが、私は体調が悪くなり、I部のみで失礼しました。それでも約20曲の歌を聴き、考えることがいろいろとありました。
■12月17日(土)、3号も滞っていた「詩の通信VI」を発行しました。情けないことですが、目下、購読者は3名です。それもありがたいことだと思います。完全有料制にしたことが原因か。それとも詩がつまらないことが原因か。両方でしょうし、他にも理由があるかもしれません。《後記》3号分をまとめてご覧ください。もし、このブログをご覧になった方で、一号でも読みたいとお思いの方は、ご連絡ください。
【8号】トロッタ14が終了しました。お運びいただいたお客様には、感謝の気持ちでいっぱいです。メシアンの『世の終わりへの四重奏曲』を、詩唱を入れて演奏しました。クラリネット藤本彩花さん、ヴァイオリン戸塚ふみ代さん、チェロ香月圭佑さん、ピアノ森川あづささん、詩唱は中川博正さんでした。演奏されたのは第三楽章の抜粋と、一、四、七の各楽章です。中川さんには、メシアンかもしれない男、曲の初演に立ち会っている男、今は生きていないかもしれない男、死んで鳥になっている男、それらすべての性格を合わせ持った人物を演じていただきました。いつの日にか、全楽章を演奏する前提で、この〈『世の終わりへの四重奏曲』の記憶〉を取り上げたいと思います。音楽家は誰でもそうですが、メシアンは特に、どんな状況にあっても音楽を生きた人物に映ります。作った音楽だけでなく、鳥の声を通じて自然にある音楽にも心を傾けました。彼にとっての音楽は、自然にあるものなのでしょう。鳥の音楽も自然にあるものです。私にとってはどうだろうと思います。トロッタの〈『世の終わりへの四重奏曲』の記憶〉は、自然にある音楽を考える、私なりの試みの第一歩でした。雑誌「ギターの友」のため、田中修一氏と彼の曲『遺傳』について書き、そこで、『遺傳』の詩を書いた萩原朔太郎に触れました。朔太郎も音楽を愛し、マンドリンやギターを弾きました。マンドリン倶楽部を結成したり、作品が何か、今はわかりませんがオーケストラ伴奏で詩を詠んだりしていたようです。世田谷文学館の生誕一二五年展には、燕の姿を螺鈿細工したギターが展示され、示唆に富むものでした。生地の前橋に、いつか行ければと思います。次号第九号は、十号と同時発行されます。二〇一一年十二月十七日(土)
【9号】二年がかりで書いた二冊分の原稿が当面は没となり、それに代わる原稿を考えています。十年前、ある小説を書きました。それは近未来のインターネットカフェを舞台にした小説です。わけあって公開されませんでしたが、四百字詰め原稿用紙にして三百数十枚を完成させていたのです。それを見つめ直します。今の私の心境を反映させたものにします。元気いっぱいで、つまり無反省で、自分のことだけを考えればよかった、つまり他人の痛みを思いやれずにいたころは否定すらしていた、癒しの物語でありたいと思います。私自身、癒されたいし、癒しが必要です(ただ、癒しではなく他の言葉に言い換えられないか考えています。言葉自体には責任がなくても、癒しという言葉を商いに利用する人々がいることに不信感を持つので)。シンプルであること、余分なものができる限りないこと、コンピュータが世界と結びつく手段であること、そのために作られた空間がある、そのようなことを書こうと思います。つい先頃亡くなった、アップルの創業者、スティーヴ・ジョブズについて、書評を書くなどする過程で考えることがありました。ずっと以前から彼については考えていました。私は彼の礼賛者ではありません。しかし、彼を通してコンピュータとその文化について考えてきました。小説の題名は、旧来のとおりなら『電脳喫茶養生記』となります。「トロッタの会」も、コンピュータと無縁ではありません。強い勧めがあり、トロッタの演奏風景をYouTubeにアップし始めています。まだ数は少ないのですが、ご興味のある方は検索してご覧ください(その後、これまでに演奏した約半数にあたる約五十曲をアップできました)。今号は、次号第十号と同時発行されます。二〇一一年十二月十七日(土)
【10号】《後記》様々な理由がありますが、三号を同時にお送りする有り様です。申し訳ありません。「ぎたる弾く、ぎたる弾く、ひとりしおもへば、たそがれは音なくあゆみ、石造の都会、またその上を走る汽車、電車のたぐひ、それら音なくして過ぎゆくごとし、わが愛のごときも永遠の歩行をやめず、ゆくもかへるも、やさしくなみだにうるみ、ひとびとの瞳は街路にとぢらる。」萩原朔太郎『ぎたる弾くひと』の前半です。世田谷文学館の萩原朔太郎展を訪れ、朔太郎が詩と音楽について深い関心を抱いていたことを知りました。「作曲者以外に歌詞を作ることの出来るものはない筈である」「文学としての詩は、その中に音楽の所有する二部要素、即ち『歌詞』と『旋律』とを総合的に持たねばならない」(いずれも「詩と音楽の関係」より)というような考えを持っていたことも知りました。私は前者に不同意、後者に同意です。彼が音楽の挫折者であったことも知りました。挫折者であったとは、行為する人であった証拠です。レコードだけ聴く人に挫折はありません。このような彼を研究しようとは思いません。彼の考えに正解不正解はないはずです。トロッタの活動にも結論は出ていません。むしろ、出すまい、必要ないと思っています。答えが出ているなら活動しなくてよく、答えなど求めない本能的活動こそしたいと思うからです。私が答えを出しても、見方を変えれば別の答えが出るはずで、それはきりがないことです。朔太郎も、本能の人であったようです。更科源蔵と伊福部昭先生のような、詩人と作曲者の関係を、朔太郎は持ちませんでした。身近に作曲者がいたら彼はどう考え、どう行動したでしょうか。次号第十一号は、二〇一一年十二月二十六日(月)発行予定です。二〇一一年十二月十七日(土)
■12月18日(日)、神奈川邦楽合奏団 第3回定期演奏会にて、田中修一氏の『ダンツァ・ブルレスカ』が演奏され、田中氏自ら指揮をされました。横浜みなとみらい小ホールに、私もうかがいました。この日もいろいろと考えることがありました。トロッタの会を通して、私自身もその中に身を置いているわけですが、一曲一曲を完成させて人前に披露することの意味。それはとりもなおさず、人生を刻んでいることに他なりません。トロッタも14回を終えて15回目に向かっています。記憶の濃淡はありますが、それでも起こったことはすべて覚えています。YouTubeのための作業を通じて、振り返ることも多く、2007年以来のトロッタの歩みを、じっくり考えてみたいと思っています(前はトロッタの原稿を書く、という考えを抱きました。まだ、捨てていません)。
■YouTubeへのアップを、断片的に継続。新しくアップした曲は、以下のとおり。
酒井健吉さん作曲『唄う』(トロッタ2より)
田中修一さん作曲『ヴァイオリンとピアノのためのエグログ』(トロッタ2より)
たった今も、アップのための作業を行っています。
12月18日(月)、トロッタのサイトに、「記録映像」のページを新設しました。そこに挙げられた曲名から、直接、YouTubeの動画にリンクさせました。過去を振り返ると、いろいろと思うことがあります。できるだけ、曲数を増やしたいと思います。
■昨日12月19日(月)、慶応義塾大学の教授の石井康史さんがお亡くなりになりました。石井さんは、私が初めて共演したギタリストでした。トロッタに出演された打楽器奏者、内藤修央さんのお友達でもあります。ショックでした。その知らせは外で受けたのですが、帰宅すると、大家さんが亡くなっていました。老衰です。こちらもショックでした。阿佐ケ谷の住まいで、お世話になりました。今年は身近に感じる人がたくさん亡くなっており、そのことを考えない日はないのに、一日に二人も周囲の方が亡くなるとはと、心が乱れました(大家さんのお通夜は20日、石井さんのお別れ会は25日)。
■12月16日(金)、柳珠里さんが出演された、「年の瀬&クリスマスコンサート」を聴きに、練馬文化センター小ホールに出かけました。I部が「日本の四季を歌う」、II部が「クリスマスにちなんで」。柳さんは、独唱としてはI部で『からたちの花』を歌いました。II部ではアンドルー・ロイド・ウェッバー作曲『ピエ・イェズ』をお歌いでしたが、私は体調が悪くなり、I部のみで失礼しました。それでも約20曲の歌を聴き、考えることがいろいろとありました。
■12月17日(土)、3号も滞っていた「詩の通信VI」を発行しました。情けないことですが、目下、購読者は3名です。それもありがたいことだと思います。完全有料制にしたことが原因か。それとも詩がつまらないことが原因か。両方でしょうし、他にも理由があるかもしれません。《後記》3号分をまとめてご覧ください。もし、このブログをご覧になった方で、一号でも読みたいとお思いの方は、ご連絡ください。
【8号】トロッタ14が終了しました。お運びいただいたお客様には、感謝の気持ちでいっぱいです。メシアンの『世の終わりへの四重奏曲』を、詩唱を入れて演奏しました。クラリネット藤本彩花さん、ヴァイオリン戸塚ふみ代さん、チェロ香月圭佑さん、ピアノ森川あづささん、詩唱は中川博正さんでした。演奏されたのは第三楽章の抜粋と、一、四、七の各楽章です。中川さんには、メシアンかもしれない男、曲の初演に立ち会っている男、今は生きていないかもしれない男、死んで鳥になっている男、それらすべての性格を合わせ持った人物を演じていただきました。いつの日にか、全楽章を演奏する前提で、この〈『世の終わりへの四重奏曲』の記憶〉を取り上げたいと思います。音楽家は誰でもそうですが、メシアンは特に、どんな状況にあっても音楽を生きた人物に映ります。作った音楽だけでなく、鳥の声を通じて自然にある音楽にも心を傾けました。彼にとっての音楽は、自然にあるものなのでしょう。鳥の音楽も自然にあるものです。私にとってはどうだろうと思います。トロッタの〈『世の終わりへの四重奏曲』の記憶〉は、自然にある音楽を考える、私なりの試みの第一歩でした。雑誌「ギターの友」のため、田中修一氏と彼の曲『遺傳』について書き、そこで、『遺傳』の詩を書いた萩原朔太郎に触れました。朔太郎も音楽を愛し、マンドリンやギターを弾きました。マンドリン倶楽部を結成したり、作品が何か、今はわかりませんがオーケストラ伴奏で詩を詠んだりしていたようです。世田谷文学館の生誕一二五年展には、燕の姿を螺鈿細工したギターが展示され、示唆に富むものでした。生地の前橋に、いつか行ければと思います。次号第九号は、十号と同時発行されます。二〇一一年十二月十七日(土)
【9号】二年がかりで書いた二冊分の原稿が当面は没となり、それに代わる原稿を考えています。十年前、ある小説を書きました。それは近未来のインターネットカフェを舞台にした小説です。わけあって公開されませんでしたが、四百字詰め原稿用紙にして三百数十枚を完成させていたのです。それを見つめ直します。今の私の心境を反映させたものにします。元気いっぱいで、つまり無反省で、自分のことだけを考えればよかった、つまり他人の痛みを思いやれずにいたころは否定すらしていた、癒しの物語でありたいと思います。私自身、癒されたいし、癒しが必要です(ただ、癒しではなく他の言葉に言い換えられないか考えています。言葉自体には責任がなくても、癒しという言葉を商いに利用する人々がいることに不信感を持つので)。シンプルであること、余分なものができる限りないこと、コンピュータが世界と結びつく手段であること、そのために作られた空間がある、そのようなことを書こうと思います。つい先頃亡くなった、アップルの創業者、スティーヴ・ジョブズについて、書評を書くなどする過程で考えることがありました。ずっと以前から彼については考えていました。私は彼の礼賛者ではありません。しかし、彼を通してコンピュータとその文化について考えてきました。小説の題名は、旧来のとおりなら『電脳喫茶養生記』となります。「トロッタの会」も、コンピュータと無縁ではありません。強い勧めがあり、トロッタの演奏風景をYouTubeにアップし始めています。まだ数は少ないのですが、ご興味のある方は検索してご覧ください(その後、これまでに演奏した約半数にあたる約五十曲をアップできました)。今号は、次号第十号と同時発行されます。二〇一一年十二月十七日(土)
【10号】《後記》様々な理由がありますが、三号を同時にお送りする有り様です。申し訳ありません。「ぎたる弾く、ぎたる弾く、ひとりしおもへば、たそがれは音なくあゆみ、石造の都会、またその上を走る汽車、電車のたぐひ、それら音なくして過ぎゆくごとし、わが愛のごときも永遠の歩行をやめず、ゆくもかへるも、やさしくなみだにうるみ、ひとびとの瞳は街路にとぢらる。」萩原朔太郎『ぎたる弾くひと』の前半です。世田谷文学館の萩原朔太郎展を訪れ、朔太郎が詩と音楽について深い関心を抱いていたことを知りました。「作曲者以外に歌詞を作ることの出来るものはない筈である」「文学としての詩は、その中に音楽の所有する二部要素、即ち『歌詞』と『旋律』とを総合的に持たねばならない」(いずれも「詩と音楽の関係」より)というような考えを持っていたことも知りました。私は前者に不同意、後者に同意です。彼が音楽の挫折者であったことも知りました。挫折者であったとは、行為する人であった証拠です。レコードだけ聴く人に挫折はありません。このような彼を研究しようとは思いません。彼の考えに正解不正解はないはずです。トロッタの活動にも結論は出ていません。むしろ、出すまい、必要ないと思っています。答えが出ているなら活動しなくてよく、答えなど求めない本能的活動こそしたいと思うからです。私が答えを出しても、見方を変えれば別の答えが出るはずで、それはきりがないことです。朔太郎も、本能の人であったようです。更科源蔵と伊福部昭先生のような、詩人と作曲者の関係を、朔太郎は持ちませんでした。身近に作曲者がいたら彼はどう考え、どう行動したでしょうか。次号第十一号は、二〇一一年十二月二十六日(月)発行予定です。二〇一一年十二月十七日(土)
■12月18日(日)、神奈川邦楽合奏団 第3回定期演奏会にて、田中修一氏の『ダンツァ・ブルレスカ』が演奏され、田中氏自ら指揮をされました。横浜みなとみらい小ホールに、私もうかがいました。この日もいろいろと考えることがありました。トロッタの会を通して、私自身もその中に身を置いているわけですが、一曲一曲を完成させて人前に披露することの意味。それはとりもなおさず、人生を刻んでいることに他なりません。トロッタも14回を終えて15回目に向かっています。記憶の濃淡はありますが、それでも起こったことはすべて覚えています。YouTubeのための作業を通じて、振り返ることも多く、2007年以来のトロッタの歩みを、じっくり考えてみたいと思っています(前はトロッタの原稿を書く、という考えを抱きました。まだ、捨てていません)。
2011年12月18日日曜日
2011年12月12日月曜日
トロッタ15通信.25
久しぶりのYouTubeアップ。トロッタ12で演奏した、『ヘンリー八世の主題による詩唱曲』。昨夜、字幕付きにしたメシアンがアップできなかったので、ヘンリー八世に字幕をつけてみた。
2011年12月11日日曜日
トロッタ15通信.24(12.9分)
新たにYouTubeにアップしたもの。ペースが落ちているが、少しずつ数を増やしていきたい。
田中修一さん作曲『立つ鳥は』(初演版)
橘川琢さん作曲『冷たいくちづけ』
田中修一さん作曲『牧嘯歌』
酒井健吉さん作曲『天の川』
清道洋一さん作曲『椅子のない映画館』
宮﨑文香さん作曲『ほたる』
ある方に、メールを送る。その要点。
関心は、詩が音楽になる過程にある。
いっそ歌になってしまっていては、それはそれでいいのですが、当たり前の話であり、
その過程にある、詩人と作曲者の思いを、トロッタの私は大事にしたい。
音楽を、詩を朗読するための適当な、雰囲気作りのBGMにはしたくない。
音楽作品として、詩がきちんと五線紙に記されているものにしたい、
いつでも再現でき、そのたびに創作できる、再創造できるものにしたい。
いい加減という意味ではない、すばらしいBGM、すばらしく適当な詩と音楽の関係もあるだろうが、
それは私の道ではない。
問題もある。朗読、詩唱には音程がなく、他の楽器の音とずれてしまっても、何となく聴けてしまう。
これは歌と違った安易さで、それは拒みたい。朗読、詩唱の技術レベルを上げたい。
詩人が何となく読めば何となく雰囲気で聴けてしまうという事態は避けなければ。
これは私自身が、実践を通じて体系化していくしかないだろう。
田中修一さん作曲『立つ鳥は』(初演版)
橘川琢さん作曲『冷たいくちづけ』
田中修一さん作曲『牧嘯歌』
酒井健吉さん作曲『天の川』
清道洋一さん作曲『椅子のない映画館』
宮﨑文香さん作曲『ほたる』
ある方に、メールを送る。その要点。
関心は、詩が音楽になる過程にある。
いっそ歌になってしまっていては、それはそれでいいのですが、当たり前の話であり、
その過程にある、詩人と作曲者の思いを、トロッタの私は大事にしたい。
音楽を、詩を朗読するための適当な、雰囲気作りのBGMにはしたくない。
音楽作品として、詩がきちんと五線紙に記されているものにしたい、
いつでも再現でき、そのたびに創作できる、再創造できるものにしたい。
いい加減という意味ではない、すばらしいBGM、すばらしく適当な詩と音楽の関係もあるだろうが、
それは私の道ではない。
問題もある。朗読、詩唱には音程がなく、他の楽器の音とずれてしまっても、何となく聴けてしまう。
これは歌と違った安易さで、それは拒みたい。朗読、詩唱の技術レベルを上げたい。
詩人が何となく読めば何となく雰囲気で聴けてしまうという事態は避けなければ。
これは私自身が、実践を通じて体系化していくしかないだろう。
2011年12月9日金曜日
トロッタ15通信.23
三木稔氏が亡くなられた。私自身は、作品にしか接したことがない。しかし、氏と関わりのあった人々が周囲にいる。弔意を表したい(思うことはいろいろあるが、知らない身で勝手をいうのは控える。今は、ひとりの作曲家が亡くなられた事実に対し、弔意を表したい)。
2011年12月8日木曜日
2011年12月6日火曜日
トロッタ15通信.21
徳島から上京してきた小西昌幸氏と会う。昨日開催された、野坂操寿さんの演奏会のために来られた。伊福部先生の『琵琶行』も演奏された。まったく知らずにいた。
田中修一氏について書いた「ギターの友」最新号が届く。次号では、田中氏について書きながら、萩原朔太郎とギターの関わりを紹介できればと思う。
田中修一氏について書いた「ギターの友」最新号が届く。次号では、田中氏について書きながら、萩原朔太郎とギターの関わりを紹介できればと思う。
トロッタ15通信.20(12.5分)
12月5日は、以下をアップ。
橘川琢作曲『うつろい 花の姿』
酒井健吉作曲『トロッタで見た夢』
田中修一作曲『立つ鳥は』
ここ数日の作業を経て、いろいろと考えることがあった。少なくとも、こうした過去の上に、現在はあるという実感。
橘川琢作曲『うつろい 花の姿』
酒井健吉作曲『トロッタで見た夢』
田中修一作曲『立つ鳥は』
ここ数日の作業を経て、いろいろと考えることがあった。少なくとも、こうした過去の上に、現在はあるという実感。
2011年12月4日日曜日
トロッタ15通信.19
ひたすらYouTubeへのアップを続ける。
田中隆司作曲『捨てたうた』
今井重幸作曲『時は静かに過ぎる』
清道洋一作曲『いのち』
清道洋一作曲『主題と変奏、或いはBGMのための変奏曲』
山本和智作曲『齟齬』
清道洋一作曲『蛇』
甲田潤作曲『縁山(えんざん)流声明と絃楽合奏のための「四智讃」』
大谷歩作曲『アルバ/理想の海』
今井重幸作曲『ピアノと弦楽四重奏のための「仮面の舞」』
甲田潤作曲『嗟嘆』
田中修一作曲『こころ』
橘川琢作曲『花の記憶』
今日はここまで。
田中隆司作曲『捨てたうた』
今井重幸作曲『時は静かに過ぎる』
清道洋一作曲『いのち』
清道洋一作曲『主題と変奏、或いはBGMのための変奏曲』
山本和智作曲『齟齬』
清道洋一作曲『蛇』
甲田潤作曲『縁山(えんざん)流声明と絃楽合奏のための「四智讃」』
大谷歩作曲『アルバ/理想の海』
今井重幸作曲『ピアノと弦楽四重奏のための「仮面の舞」』
甲田潤作曲『嗟嘆』
田中修一作曲『こころ』
橘川琢作曲『花の記憶』
今日はここまで。
2011年12月3日土曜日
トロッタ15通信.18
YouTubeへのアップを続ける。伊福部昭『知床半島の漁夫の歌』、橘川琢『花骸 -はなむくろ-』『死の花』、長谷部二郎『人形の夜』、酒井健吉『ヴァイオリンとピアノのためのソナチネ』、アレハンドロ・バルレッタ『Cinco preludios cosmics』、田中修一『雨の午後/蜚』をアップ。他にも続行中。
2011年12月2日金曜日
トロッタ15通信.17
昼間はできなかったが、夜はひたすらYouTubeへのアップを続けている。こればかりになってきた。
伊福部昭『蒼鷺』、伊福部昭『ギリヤーク族の古き吟唱歌』、伊福部昭『摩周湖』、田中修一『ムーヴメントNo.1(編作版)』、田中修一『ムーヴメントNo.2』を完了。ただいま、DVDからの読み込みを行っている。
伊福部昭『蒼鷺』、伊福部昭『ギリヤーク族の古き吟唱歌』、伊福部昭『摩周湖』、田中修一『ムーヴメントNo.1(編作版)』、田中修一『ムーヴメントNo.2』を完了。ただいま、DVDからの読み込みを行っている。
2011年12月1日木曜日
トロッタ15通信.16
昼間はYouTubeの作業ができなかったので、夜になって作業。トロッタ12で初演された堀井友徳さんの『北方譚詩 第一番』。続いて、トロッタ13の白眉であった、戸塚ふみ代さんヴァイオリン独奏、目等貴士さん打楽器、徳田絵里子さんピアノによる、伊福部昭作曲・今井重幸編曲『協奏風狂詩曲』を、第一楽章と第二楽章に分けてアップしている(完了)。
2011年11月30日水曜日
トロッタ15通信.15
ヴィヴァルディの『四季』を題材にした小説の書評を書く。各楽章ごとにソネットが添えられていたと知って、興味を新たにする。この書評を書くのに、一日の大半を費やす。
YouTubeへのアップ。今井重幸先生の『対話と変容』(ガルシア・ロルカと共に)、橘川琢さん『祝いの花』、清道洋一さん『恋の歌』。
YouTubeへのアップ。今井重幸先生の『対話と変容』(ガルシア・ロルカと共に)、橘川琢さん『祝いの花』、清道洋一さん『恋の歌』。
2011年11月29日火曜日
トロッタ15通信.14
どういうわけか仕事がたてこみ、昨日など午前中の締切を完全に失念していましたが、YouTubeのアップは続けています。清道洋一氏の、トロッタ13初演曲『イリュージョン illusion』をアップ、さらに、少しさかのぼってトロッタ7の初演曲『ナホトカ音楽院』を前後半に分けてアップ中です(終了)。
続いて、橘川琢氏作曲の、やはりトロッタ13初演曲『都市の肖像』第四集《首都彷徨 硝子(ガラス)の祈り》を、こちらも前後半に分けてアップ中です(終了)。
続いて、橘川琢氏作曲の、やはりトロッタ13初演曲『都市の肖像』第四集《首都彷徨 硝子(ガラス)の祈り》を、こちらも前後半に分けてアップ中です(終了)。
2011年11月28日月曜日
トロッタ15通信.13
今井重幸先生にYouTubeへのアップをお願いして、トロッタ13の『叙事詩断章・草迷宮』、トロッタ12の『シギリヤ・ヒターナ』をアップ。ただいま、トロッタ11の『神々の履歴書』を作業中(終了)。
もっと早くからYouTubeを使えばよかったと思う。強く、萩野谷英成さんに背中を押してもらってよかった。Facebookなどもよりよく活用したい。もちろん、これは記録であり告知なので、整備した後は先に進まなければならない。
もっと早くからYouTubeを使えばよかったと思う。強く、萩野谷英成さんに背中を押してもらってよかった。Facebookなどもよりよく活用したい。もちろん、これは記録であり告知なので、整備した後は先に進まなければならない。
2011年11月27日日曜日
トロッタ15通信.12
朝は、トロッタ14で初演した、田中修一氏「ムーヴメントNo.5」をYouTubeにアップした。YouTubeの制限時間は10分だが、田中氏の曲はこれを超えていたので、いろいろと手続きがあった。
ここ数日、YouTubeへのアップロードを進めていた。その間に、「トロッタ通信」の作成がストップ。これはこれで実施したいので、また作業に戻ろうと思う。トロッタ14のプログラムに、トロッタ初期の覚え書きを載せた。これが、ほぼ1年前に書いた「トロッタ通信」の書き出しである。これを、きちんと形にしたい。
ここ数日、YouTubeへのアップロードを進めていた。その間に、「トロッタ通信」の作成がストップ。これはこれで実施したいので、また作業に戻ろうと思う。トロッタ14のプログラムに、トロッタ初期の覚え書きを載せた。これが、ほぼ1年前に書いた「トロッタ通信」の書き出しである。これを、きちんと形にしたい。
2011年11月26日土曜日
トロッタ15通信.13
今日もYouTubeへのアップを続ける。本日までに、『たびだち 北の町』『北方譚詩 第二集』『蝶の記憶』『めぐりあい -春-』『ムーヴメントNo.3』『ムーヴメント MOVEMENT an extra』『虹』『花の森』がアップされた(10分以上の曲もアップできるはずだが、その手続きがうまくいかない)。
世田谷文学館で開催中の萩原朔太郎展にて、本日、鈴木大介氏のギターと高柳未来さんのマンドリンで、朔太郎ゆかりの曲の演奏会があった。昨日同様、始めから聴けず、おしまいの方だけ聴く。雰囲気にひたった、というだけ。
身の周りを整理すること。そしてトロッタ15に心を向けてゆくこと。向いているのだが、より具体的に。
世田谷文学館で開催中の萩原朔太郎展にて、本日、鈴木大介氏のギターと高柳未来さんのマンドリンで、朔太郎ゆかりの曲の演奏会があった。昨日同様、始めから聴けず、おしまいの方だけ聴く。雰囲気にひたった、というだけ。
身の周りを整理すること。そしてトロッタ15に心を向けてゆくこと。向いているのだが、より具体的に。
2011年11月25日金曜日
トロッタ15通信.12
一昨日来の動画作成作業で、古いMacが2台、使用できなくなる。それらにつないでいた外付けHDも駄目になった。もともと、古かったし、動作が変だったので、こうなっても当然といえば当然。しかし、住所録がすべて消えてしまったり、古いソフトは使えなくなるなどの問題が発生したので、古いMacを買うことにした。秋葉原にて、MacBook Proの2008年後期モデルを2年月賦で購入。無理に結びつけることはないが、これもトロッタを進行させてゆくために必要なこと。
作曲グループ〈蒼〉の第29回演奏会を聴きに、旧奏楽堂へ。ところがMac騒動が尾を引いて仕事が終わらず、たどりついたら前半が終わったところ。トロッタ15に出品の田中隆司、清道洋一両氏の曲を聴けず。今井重幸先生を始め、橘川琢、宮﨑文香の各氏と簡単な打ち合わせができた。
作曲グループ〈蒼〉の第29回演奏会を聴きに、旧奏楽堂へ。ところがMac騒動が尾を引いて仕事が終わらず、たどりついたら前半が終わったところ。トロッタ15に出品の田中隆司、清道洋一両氏の曲を聴けず。今井重幸先生を始め、橘川琢、宮﨑文香の各氏と簡単な打ち合わせができた。
2011年11月24日木曜日
トロッタ15通信.11
今井重幸先生をお訪ねして、トロッタ15の出品曲を相談させていただきました。先生にとって、若い時分の、忘れられない曲への記憶をテーマにした作品です。そして、ロルカのカンシオネス「スペインの歌」第3回の依頼。
昨夜、Youtubeに3曲をアップしたことを機に、これまで演奏した曲の動画を整理しています。ところが、作業に必要なMacintoshの容量が不足しているなどの理由で、なかなかはかどりません。これもトロッタにとって必要なことだと思いますし、嫌なことではないので、むしろスムーズにできるようになりたいのですが、馴れないこととて、焦りが先に立ちます。
明日、作曲グループ〈蒼〉で配ろうと思っていたフリーペーパーの「トロッタ通信」は、おそらく、できないだろうと思います。第一、そこに載せたい、清道さんの曲が決まったという情報が載せられません。書き上げた詩が、都合により使えなくなったことも大きな原因です。詩くらい、さっさと書きたいところですが、実際には、詩はすぐに書けません。文字の少なさからは考えられないくらい、時間がかかります。
昨夜、Youtubeに3曲をアップしたことを機に、これまで演奏した曲の動画を整理しています。ところが、作業に必要なMacintoshの容量が不足しているなどの理由で、なかなかはかどりません。これもトロッタにとって必要なことだと思いますし、嫌なことではないので、むしろスムーズにできるようになりたいのですが、馴れないこととて、焦りが先に立ちます。
明日、作曲グループ〈蒼〉で配ろうと思っていたフリーペーパーの「トロッタ通信」は、おそらく、できないだろうと思います。第一、そこに載せたい、清道さんの曲が決まったという情報が載せられません。書き上げた詩が、都合により使えなくなったことも大きな原因です。詩くらい、さっさと書きたいところですが、実際には、詩はすぐに書けません。文字の少なさからは考えられないくらい、時間がかかります。
2011年11月23日水曜日
トロッタ15通信.10
今日は初の試みとして、Youtubeに動画をアップしてみました。手始めに、トロッタ13の「たびだち・鳥の歌」。そして堀井友徳さんの、トロッタ13「北方譚詩 第二集」と、トロッタ14「蝶の記憶」です。すでにアップしたものも、手直しできるところはしていきます。いささか時間がかかるのが、予想外でした。この作業はしばらく継続させます。新たな宣伝方法になればと思います。
2011年11月22日火曜日
トロッタ15通信.9
フリーペーパーとして配る「トロッタ15通信」を作っていました。AdobeのIllustratorがあればスムーズに行くのにと思いながら、ワープロソフトでだましだまし、作っています。できれば、23日(金)に、旧東京音楽学校奏楽堂で開催される、作曲家グループ「蒼」で、チラシとして配りたいと思っています。トロッタ15に曲を出される、田中隆司さんと清道洋一さんの曲が演奏されます。しかし、作曲家全員の曲の詳細は確定しておらず、ということは出演者も決まっていないので、告知しづらい要素が多いのです。柳珠里さん出演の演奏会が29日(火)にあり、柳さんもトロッタ15の出演がほぼ決定しているものの、何を歌っていただけるのか、最終的に決まっていません(ほぼ決まっていますが)。それだけに、柳さんの演奏会では配りにくい状況です。しかし、明日になれば、柳さんの演奏会でも配れると、めどが立つかもしれません。何を書くか、何を書きたいのか。はっきりしないことを考えながら書いてゆくので、「通信」作りはなかなか進みません。結局、一日をかけて、全4ページの半分しかできませんでした。しかしこれも、演奏会を作ってゆく大切な過程です。
2011年11月21日月曜日
トロッタ15通信.8
夜、座・高円寺にて、トロッタ14のチラシを引き上げました。たくさん余っていて、悔しい思いです。これを何とか、できるだけなくなるよう、つまり配り切れるよう、努力したいと思います。
作曲家の方々に、未決でも提案された曲の構想をメモして送りました。これを調整して、演奏家への出演交渉をしたいと思います。
夜になって、「ギターの友」の長谷部二郎先生に、田中修一氏『遺傳』の楽譜を二種、お渡ししました。昨年12月、谷中ボッサで行った「隠岐のバラッド」のルポが載った号が、すでになくなっているというので驚きました。
作曲家の方々に、未決でも提案された曲の構想をメモして送りました。これを調整して、演奏家への出演交渉をしたいと思います。
夜になって、「ギターの友」の長谷部二郎先生に、田中修一氏『遺傳』の楽譜を二種、お渡ししました。昨年12月、谷中ボッサで行った「隠岐のバラッド」のルポが載った号が、すでになくなっているというので驚きました。
2011年11月20日日曜日
トロッタ15通信.7
昨日書きました田中修一さんの原稿を確認するため、世田谷文学館で開催中の「生誕125周年 萩原朔太郎展」に出向きました。朔太郎のギターなど、音楽関係の資料もあり、刺激を受けました。朔太郎もまた、詩と音楽を身体に同居させていたものと見えました。いずれ、彼を顕彰している前橋文学館にも足を運びたいと思います。
館内から、トロッタ15関係の皆さんに連絡を取り、開催日の確認を行いました。第二候補まであげさせていただきました。できるだけ早く、日程を決めたいと思います。
青山のギャラリーKARANISで、本日が最終日の、造形作家・扇田克也さんと、花道家・上野雄次さんによる展覧会「扇田克也×上野雄次 展 日月花水木金土」を拝見。扇田さんに会うのは久しぶりです。トロッタ14の感想などをうかがいました。
そのまま雑司ヶ谷に移動し、上野雄次さんも参加している「いけばな雑司ヶ谷2011」を拝見。上野さんは、自動車の屋根に巨大なオブジェを乗せて東京中を走り回りました。その車は、トロッタ14の日、早稲田奉仕園の駐車場に停めてあったので見ました。実際に走るところは見ませんでしたが、さぞ壮観であったろうと思います。
館内から、トロッタ15関係の皆さんに連絡を取り、開催日の確認を行いました。第二候補まであげさせていただきました。できるだけ早く、日程を決めたいと思います。
青山のギャラリーKARANISで、本日が最終日の、造形作家・扇田克也さんと、花道家・上野雄次さんによる展覧会「扇田克也×上野雄次 展 日月花水木金土」を拝見。扇田さんに会うのは久しぶりです。トロッタ14の感想などをうかがいました。
そのまま雑司ヶ谷に移動し、上野雄次さんも参加している「いけばな雑司ヶ谷2011」を拝見。上野さんは、自動車の屋根に巨大なオブジェを乗せて東京中を走り回りました。その車は、トロッタ14の日、早稲田奉仕園の駐車場に停めてあったので見ました。実際に走るところは見ませんでしたが、さぞ壮観であったろうと思います。
2011年11月19日土曜日
トロッタ15通信.6
半日をかけて、「ギターの友」の連載「ギターとランプ」第10回の原稿を書いていました。田中修一さんの、『遺傳』について。2008年1月のトロッタ5でバリトン、ヴァイオリン、ピアノ版が、2010年12のボッサ6でバリトン、ギター版が演奏された曲です。「ギターとランプ」は、これまで今井重幸先生、清道洋一さん、ガルシア・ロルカ、そして田中修一さんと、トロッタ関係の作曲家について、書いてきました。田中さんは二度目の登場です(ちなみに、「ギターとランプ」では、「作曲対談」として、編集の長谷部二郎先生と清道洋一さんの対談が、連載形式で行われています)。
媒体の性格上、ギター曲について書いています。原稿を書けば、その曲について考えることになりますから、本当はこのような形で、トロッタで演奏されたどの曲についても書きたい思いです。
田中さんの原稿に書きましたが、思いがけず、12月10日(日)まで、世田谷文学館にて「生誕125周年 萩原朔太郎展」が行われています。朔太郎がマンドリンを好んだことは知っていましたが、彼はギターも弾いたそうで、展示会には朔太郎が所有した楽器が展示されているといいます。会期中には、ギタリストの鈴木大介氏も出演する演奏会が開かれるそうです。
朔太郎が、どのような形で、あるいはつもりで、音楽に向き合ったのか、興味があります。詩と音楽が、彼の中に同居していたということ。となると、トロッタに関わる私としては、関心を持たざるを得ません。「ギターとランプ」の原稿を完成させる意味合いもありますが、明日、世田谷文学館に足を運ぶつもりです。
媒体の性格上、ギター曲について書いています。原稿を書けば、その曲について考えることになりますから、本当はこのような形で、トロッタで演奏されたどの曲についても書きたい思いです。
田中さんの原稿に書きましたが、思いがけず、12月10日(日)まで、世田谷文学館にて「生誕125周年 萩原朔太郎展」が行われています。朔太郎がマンドリンを好んだことは知っていましたが、彼はギターも弾いたそうで、展示会には朔太郎が所有した楽器が展示されているといいます。会期中には、ギタリストの鈴木大介氏も出演する演奏会が開かれるそうです。
朔太郎が、どのような形で、あるいはつもりで、音楽に向き合ったのか、興味があります。詩と音楽が、彼の中に同居していたということ。となると、トロッタに関わる私としては、関心を持たざるを得ません。「ギターとランプ」の原稿を完成させる意味合いもありますが、明日、世田谷文学館に足を運ぶつもりです。
2011年11月18日金曜日
トロッタ15通信.5
最終決定ではありませんが、トロッタ15の開催日を2012年5月15日(日)といたしました。予約もしました。よほどのことがない限り、この日程で臨みます。早稲田奉仕園の側に、来年からはホールの貸し出しが21時までとなる変更があるようです。終演時間はもちろん、開演時間、練習時間にも影響が出ます。綿密な打ち合わせが必要です。
トロッタ14の関係者に、やっとお礼のメールを送ることができました。もっと早く送りたかったのですが、たまった仕事を片づけるなどしているうちに、日が経ってしまいました。
トロッタ14の関係者に、やっとお礼のメールを送ることができました。もっと早く送りたかったのですが、たまった仕事を片づけるなどしているうちに、日が経ってしまいました。
2011年11月17日木曜日
トロッタ15通信.4
トロッタ15の第一候補日を、私の中では決め、まず作曲の皆さんに打診しています。トロッタ内部で早く決めなければ、ホールが予約できません。
開催日が決まりましたら、フリーペーパー版の「トロッタ15通信」を作って、何軒かの本屋さんに置いてもらおうと思います。10部ずつでもいいので、それが人の目にとまれば、継続した宣伝になると思います。希望者には郵送してもいいと思います。
トロッタ14では、時間が足りなくなって、アンコール曲の『たびだち・鳥の歌』を演奏できませんでした。最後の挨拶でも触れましたが、トロッタ15では、二回分を歌おうと思います。そのために、倍の演奏時間を確保します。アンコール曲という位置づけではありますが、トロッタ15は、『たびだち・鳥の歌』から始めます。
開催日が決まりましたら、フリーペーパー版の「トロッタ15通信」を作って、何軒かの本屋さんに置いてもらおうと思います。10部ずつでもいいので、それが人の目にとまれば、継続した宣伝になると思います。希望者には郵送してもいいと思います。
トロッタ14では、時間が足りなくなって、アンコール曲の『たびだち・鳥の歌』を演奏できませんでした。最後の挨拶でも触れましたが、トロッタ15では、二回分を歌おうと思います。そのために、倍の演奏時間を確保します。アンコール曲という位置づけではありますが、トロッタ15は、『たびだち・鳥の歌』から始めます。
2011年11月16日水曜日
トロッタ15通信.3
早稲田奉仕園に行き、トロッタ15がいつ開催可能なのか、空き状況を調べました。結果、四月は無理と判明。早ければ四月の可能性があったのですが、これは無しになりました。五月はまだ何日か空いているので、おそらく五月開催です。遅くても六月の予定ですが、六月はまだ受け付けを始めていません。
作曲の方々に、五月開催の線で打診しました。それを経て、演奏の方々にも予定をうかがうことになります。今は少しでも早く決定して、準備に取りかかりたい思いです。
前に「トロッタ通信」として書いていた、トロッタについての文章を再開したいと思います。書き方として難しいのは、トロッタは現在進行形であること。表層ばかり追っていると、書いたことはたちまち古びてしまいます。古びないよう、一曲ができあがる過程に、トロッタの本質を見たいと思っています。
作曲の方々に、五月開催の線で打診しました。それを経て、演奏の方々にも予定をうかがうことになります。今は少しでも早く決定して、準備に取りかかりたい思いです。
前に「トロッタ通信」として書いていた、トロッタについての文章を再開したいと思います。書き方として難しいのは、トロッタは現在進行形であること。表層ばかり追っていると、書いたことはたちまち古びてしまいます。古びないよう、一曲ができあがる過程に、トロッタの本質を見たいと思っています。
2011年11月15日火曜日
トロッタ15通信.2
作曲の皆さん全員に、トロッタ15の出品依頼を致しました。決定済みの方もおられます。何人かの方とは、直接、お話しを致しました。編成を決めて演奏者に出演を依頼し、スケジュールを調整して会場を確保、という段取りになります。私の詩を使っていただける方には、新作詩なら早く書かなければなりません。トロッタ14の反省をしながら、ということになります。早ければ4月、妥当な線で5月、遅くても6月に開催する予定です。
新曲の締切は、トロッタ14は本番の約6週間前でした。次回も同様と考え、準備はしておくものの、チラシ作成の最終段階はその時点からですので、締切以前に関係者のチラシがあるなどした場合、どうしても、配りきれない場合は出て来ます。チラシを配る、宣伝の機会を有効に使うため、前々回同様、仮チラシを作ろうと思います。あらゆるチャンスを有効に使ってゆくつもりです。
新曲の締切は、トロッタ14は本番の約6週間前でした。次回も同様と考え、準備はしておくものの、チラシ作成の最終段階はその時点からですので、締切以前に関係者のチラシがあるなどした場合、どうしても、配りきれない場合は出て来ます。チラシを配る、宣伝の機会を有効に使うため、前々回同様、仮チラシを作ろうと思います。あらゆるチャンスを有効に使ってゆくつもりです。
2011年11月14日月曜日
トロッタ15通信.1
トロッタ14が、昨日、無事に終了しました。
いささか詰めこみ過ぎでした。全体が長時間にわたり、最後に予定していたアンコール曲「たびだち・鳥の歌」をカットしましたのは、それ以外に原因がありません。その他の要因によるトラブルやアクシデントもありました。しかし、最後には、お客様から温かな拍手をちょうだいすることができました。ありがとうございます。
今回の反省点として、このブログや、トロッタのサイトなどを、まったく有効活用できなかったことがあげられます。チラシをホールやお店に置かせてもらったり、郵送で告知するなど以外の宣伝が、できませんでした。インターネット上の宣伝活動がどこまで有効なのかわかりませんが、すまいと思っているのではなく、したいと思っていますし、コンピュータ自体は好きなので、生かせなかったが心残りです。前に連載していました「トロッタ通信」は、なお書き続けたいと思っています。それはトロッタについて考え、書くと同時に、未知の読者への宣伝にもなるからです。
次回のトロッタ15は、いつ開催されるかわかりません。2012年の春から初夏にかけてだと思います。そのトロッタ15のための通信を、今日から始めようと思います。遅ればせながら、トロッタ14のサイトも、整理してまいります。
いささか詰めこみ過ぎでした。全体が長時間にわたり、最後に予定していたアンコール曲「たびだち・鳥の歌」をカットしましたのは、それ以外に原因がありません。その他の要因によるトラブルやアクシデントもありました。しかし、最後には、お客様から温かな拍手をちょうだいすることができました。ありがとうございます。
今回の反省点として、このブログや、トロッタのサイトなどを、まったく有効活用できなかったことがあげられます。チラシをホールやお店に置かせてもらったり、郵送で告知するなど以外の宣伝が、できませんでした。インターネット上の宣伝活動がどこまで有効なのかわかりませんが、すまいと思っているのではなく、したいと思っていますし、コンピュータ自体は好きなので、生かせなかったが心残りです。前に連載していました「トロッタ通信」は、なお書き続けたいと思っています。それはトロッタについて考え、書くと同時に、未知の読者への宣伝にもなるからです。
次回のトロッタ15は、いつ開催されるかわかりません。2012年の春から初夏にかけてだと思います。そのトロッタ15のための通信を、今日から始めようと思います。遅ればせながら、トロッタ14のサイトも、整理してまいります。
2011年10月18日火曜日
トロッタ14通信(24/10月18日分)
チラシを置かせていただいたお店。
14日
古書ほうろう(千駄木)30枚
古書信天翁(谷中)30枚
谷中ボッサ(谷中)30枚
15日
座・高円寺(高円寺/11月1日より)100枚
上野雄次氏のライヴ「花は人を幸せにできるのか?」にて50枚配布。
代官山 風土 cafe & bar 「山羊に聞く?」
16日
タワーレコード(池袋)20枚
HMV(池袋)20枚
タワーレコード(渋谷)20枚
タワーレコード(新宿)20枚
14日
古書ほうろう(千駄木)30枚
古書信天翁(谷中)30枚
谷中ボッサ(谷中)30枚
15日
座・高円寺(高円寺/11月1日より)100枚
上野雄次氏のライヴ「花は人を幸せにできるのか?」にて50枚配布。
代官山 風土 cafe & bar 「山羊に聞く?」
16日
タワーレコード(池袋)20枚
HMV(池袋)20枚
タワーレコード(渋谷)20枚
タワーレコード(新宿)20枚
2011年10月14日金曜日
トロッタ14通信(23/10月13日分)
10月13日(木)23:14
トロッタ14、一か月前である。チラシを配っている。演奏会が、チラシを配り、掲示することから始まるなら、まさにその第一歩を踏み出している。
昨日
フライング・ブックス(渋谷)20枚
百年(吉祥寺)20枚
よるのひるね(阿佐ヶ谷)20枚
本日
東京音大民族音楽研究所(雑司ヶ谷)20枚
古本大学(雑司ヶ谷)30枚
早稲田奉仕園(早稲田)10枚
古書 音羽館(西荻窪)20枚
奇聞屋(西荻窪)30枚
古書コンコ堂(阿佐ヶ谷)20枚
トロッタ14、一か月前である。チラシを配っている。演奏会が、チラシを配り、掲示することから始まるなら、まさにその第一歩を踏み出している。
昨日
フライング・ブックス(渋谷)20枚
百年(吉祥寺)20枚
よるのひるね(阿佐ヶ谷)20枚
本日
東京音大民族音楽研究所(雑司ヶ谷)20枚
古本大学(雑司ヶ谷)30枚
早稲田奉仕園(早稲田)10枚
古書 音羽館(西荻窪)20枚
奇聞屋(西荻窪)30枚
古書コンコ堂(阿佐ヶ谷)20枚
2011年10月9日日曜日
トロッタ14通信(22/10月9日分)
橘川琢氏の音楽作品個展、宮﨑文香さんの尺八+箏+ペインティングの会と、二日続きの演奏会が終わりました。後は11月13日(日)のトロッタ14に向けて準備を進めて行きます。
2011年9月14日水曜日
トロッタ14通信(21/9月14日分)
レッスン。目下、トロッタ14で歌うロルカの曲と、10月7日(金)の橘川琢個展で歌う『うつろい』を練習している。8月に行った『花とやもり』では、楽器こそなかったものの、音楽を含む朗読としての“詩唱”を心がけた。どこまで、音楽性を持たせることができたか。それは不明だが、トロッタ14にも生きると確信して行った。
2011年9月13日火曜日
2011年8月30日火曜日
トロッタ14通信(18/8月29日分)
8月26日(日)の本番『花とやもり』が終わったので、トロッタ14に向かう体勢を固めていきたい。新曲の締め切りは、9月30日(金)でお願いしている。毎回だが、できるだけ早く、宣伝などを進めて行きたい。
『花とやもり』は、舞踏、詩唱、花いけ、写真〈フォトグラム〉の共演だった。楽器がなく、私は声だけ。声に、音楽性を託していきたかった。トロッタで試みてきたことを、という思いがあった。終わったばかりなので、少しずつ反省していきたい。
9月19日(月・祝)には、今井重幸先生の新曲、カスタネット小協奏曲『ファンダンゴスに基づく協奏的変容』が初演される。東京プロムナード・フィルハーモニカーの第5回定期演奏会にて。会場は杉並公会堂 大ホール。
『花とやもり』は、舞踏、詩唱、花いけ、写真〈フォトグラム〉の共演だった。楽器がなく、私は声だけ。声に、音楽性を託していきたかった。トロッタで試みてきたことを、という思いがあった。終わったばかりなので、少しずつ反省していきたい。
9月19日(月・祝)には、今井重幸先生の新曲、カスタネット小協奏曲『ファンダンゴスに基づく協奏的変容』が初演される。東京プロムナード・フィルハーモニカーの第5回定期演奏会にて。会場は杉並公会堂 大ホール。
2011年8月11日木曜日
トロッタ14通信(17/8月11日分)
なかなか、ブログの更新が難しい。原稿が進まないから、というのは言い訳だろう。
昨日、宮﨑文香さんと打ち合わせ。10月8日(土)、宮﨑さん主催の会に出演する。宮﨑さんが、尺八と箏と詩唱のために曲を書く。その詩を選んだ。「虹」と「花の森」。これが、楽器編成は異なるものの、トロッタ14への出品曲になるという。
昨日、宮﨑文香さんと打ち合わせ。10月8日(土)、宮﨑さん主催の会に出演する。宮﨑さんが、尺八と箏と詩唱のために曲を書く。その詩を選んだ。「虹」と「花の森」。これが、楽器編成は異なるものの、トロッタ14への出品曲になるという。
2011年8月9日火曜日
トロッタ14通信(16/8月8日分)
「詩の通信VI」の第一号を出さなければなりません。作業にかかりますが、なかなかはかどりません。一日の終わりになると、ぐったりしてしまいます。あれもこれも、しなければならないことがあり、結局、どれもできない、という悪循環の連続です。しかし、少しずつでも進めます。
2011年8月7日日曜日
トロッタ14通信(16/8月7日分)
ギターの長谷部二郎先生が編集しておられる「ギターの友」最新号が届きました。今号は、連載「ギターとランプ」の7回目として、『ロルカのカンシオネス スペインの歌』の後半を掲載しています。
2011年8月6日土曜日
トロッタ14通信(15/8月6日分)
ブリヂストン美術館で、没後100年「青木繁展 よみがえる神話と芸術」が行われている。久留米、京都と巡回してきたもので、東京は9月4日まで。酒井健吉氏の筆により、私の「青木繁に捧ぐ 海の幸」が、かつて楽曲化された。展覧会に足を運び、あの詩と曲を、また演奏できればいいと思う。
2011年8月4日木曜日
トロッタ14通信(13b/8月4日分)
本日、雑誌「東京人」の最新9月号が届きました。60年代フォーク特集で、私もインタビュー記事を書きました。取材相手は南こうせつ氏です。フォーク特集ですし、私はトロッタで追究している、詩と音楽という観点で、原稿を書きました。私なりに、詩と音楽に関する考えを述べています。ご一読いただければ幸いです。
トロッタ14通信(13/8月4日分)
いろいろなことがあります。確かなこととして、記しておきます。
ここ2度ほど、トロッタの記録映像を担当していただいた、藤岡輝彦氏が亡くなられました。虚血性心不全ということです。7月29日のご逝去で、8月19日に来るべき、80歳のお誕生日を目前にしておられました。葬儀など一切を拒んでおられたので、ここに書くことも、あるいはご迷惑かもしれませんが、感謝をこめて記します。私とは、34年の交流がありました。トロッタには、第1回から欠かさず通ってくださいまして、最後はスタッフとして、記録映像をお願いしていました。お疲れさまでした。ありがとうございました。
ここ2度ほど、トロッタの記録映像を担当していただいた、藤岡輝彦氏が亡くなられました。虚血性心不全ということです。7月29日のご逝去で、8月19日に来るべき、80歳のお誕生日を目前にしておられました。葬儀など一切を拒んでおられたので、ここに書くことも、あるいはご迷惑かもしれませんが、感謝をこめて記します。私とは、34年の交流がありました。トロッタには、第1回から欠かさず通ってくださいまして、最後はスタッフとして、記録映像をお願いしていました。お疲れさまでした。ありがとうございました。
2011年8月3日水曜日
トロッタ14通信(12/8月3日分)
「詩の通信V」最終号を、すべて送った。定期購読ではない人の分を、今日、発送。「詩の通信」の第I期を終えた後、紙上にとどまらない、実際に詩を披露する場として、トロッタを始めた。トロッタは、「詩の通信」から生まれたと、私の場合はいえる。他の関係者には関係のないことだが。
2011年8月2日火曜日
トロッタ14通信(11/8月2日分)
田中修一さんから連絡があり、トロッタ10で初演した田中氏の歌曲『蜚(ごきぶり)』のデータがほしいとのことでしたので、さっそく送信しました。合わせて初演された『午後の雨』も一緒に、です。私が赤羽佐東子さんと歌ったものです。今西香奈子さんのオーボエが非常な効果をあげていました。私も久しぶりで聴きました。いずれ再演できればと思います。
2011年8月1日月曜日
トロッタ14通信(10/8月1日分)
長く更新できませんでしたが、8月になったことを機に、少しでも書き続けていきたいと思います。
トロッタ14は、予定どおり、11月13日(日)、早稲田奉仕園スコットホール公演をめざして、準備を進めています。ほぼ曲も決定しており、作曲の皆さんは、作曲に励んでおられます。
今日は、8月21日(日)、すみだトリフォニーホール・大ホールで行われる、「すみだ区民音楽デー 2011」の練習がありました。私が詩を書きました、女声合唱とオーケストラによる交響合唱組曲「スェヘラザード」が、演奏されます。新聞の取材もあり、編曲・指揮の甲田潤氏に御連絡をいただいて、急遽、駆けつけました。ピアノ伴奏版は3月に演奏されましたが、オーケストラ版は、今回が初演となります。
取材では、詩と音楽の関係について、話をさせていただきました。答えのまだ見えていない、大事なテーマです。
トロッタ14は、予定どおり、11月13日(日)、早稲田奉仕園スコットホール公演をめざして、準備を進めています。ほぼ曲も決定しており、作曲の皆さんは、作曲に励んでおられます。
今日は、8月21日(日)、すみだトリフォニーホール・大ホールで行われる、「すみだ区民音楽デー 2011」の練習がありました。私が詩を書きました、女声合唱とオーケストラによる交響合唱組曲「スェヘラザード」が、演奏されます。新聞の取材もあり、編曲・指揮の甲田潤氏に御連絡をいただいて、急遽、駆けつけました。ピアノ伴奏版は3月に演奏されましたが、オーケストラ版は、今回が初演となります。
取材では、詩と音楽の関係について、話をさせていただきました。答えのまだ見えていない、大事なテーマです。
2011年6月10日金曜日
2011年6月7日火曜日
2011年6月6日月曜日
トロッタ14通信(6/6月6日分)
早稲田奉仕園に電話をし、トロッタ14を11月13日(日)とすることを決定。
この日は別の企画のため、昼から夕方にかけ、都内三か所の会場を回る。トロッタではないが、私が参加する企画で、上野雄次氏も出る。ひとつの大きな流れの中で考えることになるだろう。
この日は別の企画のため、昼から夕方にかけ、都内三か所の会場を回る。トロッタではないが、私が参加する企画で、上野雄次氏も出る。ひとつの大きな流れの中で考えることになるだろう。
2011年6月5日日曜日
トロッタ14通信(4/6月4日分)
部屋の片づけを進める。トロッタ13の名残を整理しなければならない。夜にほぼ終わる。実は12についても、まだ整理できているとはいえない。
今日はふたり、出演がほぼ決まったといっていい。13には出演しなかった方々。すべての曲の編成がまだ決まっていない。しかし、鍵になる曲があるので、その方の出演を優先的に考えざるを得ない。仮に出演できない方があったとしても、軽んじているわけでは決してない。これは自分に言い聞かせている。辛い判断をしなければいけない。
今日はふたり、出演がほぼ決まったといっていい。13には出演しなかった方々。すべての曲の編成がまだ決まっていない。しかし、鍵になる曲があるので、その方の出演を優先的に考えざるを得ない。仮に出演できない方があったとしても、軽んじているわけでは決してない。これは自分に言い聞かせている。辛い判断をしなければいけない。
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