『MOVEMENT No.3 ムーヴメントNo.3~木部与巴仁「亂譜 未來の神話」に依る』
MOVEMENT No.3 (poem by KIBE Yohani "RAN-FU", Myths in the future)
■ 第12回 トロッタの会
2010年11月6日(土)
会場・早稲田奉仕園 スコットホール
【解説】この詩で、木部与巴仁氏は未来における風景を描いた。遺跡「東京」は水底の瓦礫であった。安部公房氏は『未来は、それが未来だということで、すでに本来的に残酷なのである。』といった。其の責任は現代にあるのだが。
作品では各々の楽器に些かプリミティヴな奏法を求めた。(田中修一)
【付記】ギターに造詣の深い田中修一氏が、トロッタで初めてギターを使った曲になった。しかし当初は、ハープを使えないかという希望だった。ハープ奏者にあたったものの無理となったので、ギターになった。しかし私としては、ギターでよかったと思う。この曲については、雑誌「ギターの友」の連載、「ギターとランプ」に書くことができた。『亂譜』も『瓦礫の王』も、舞台として廃墟になった新宿を想い浮かべることができるが、『未來の神話』はいささか異なる。田中氏からはっきりと、安部公房の『第四間氷期』を題材にした詩を、という依頼があった。どんな詩が生まれるのかわからないのではない、作曲家と詩人が共通の認識に立って創作しよう、という働きかけと受け取れる。仮に、安部公房を私が好きではなかったら、この働きかけは不調に終わったかも知れない。『第四間氷期』を読んでなければ、戸惑いが生じたかも知れない。しかし私にとって安部公房は関心の中心にある存在で、とりわけ『第四間氷期』が好きなのだった。
書きながら思い出したが、「No.3」の『第四間氷期』と同様、「No.2」は、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの『ブロディーの報告書』を題材にしてほしいという依頼があった。このボルヘスも、私は好ましく思っている。つまり、私自身の奥底にある精神性に触れて来る作家だ。ボルヘスに続いて安部公房の名前が出た時、田中氏と私は関心の方角が一致するのかなと思った。彼は伊福部昭先生に学び、私は伊福部先生について文章を書いた。明らかにその流れでトロッタを運営し、彼は第一回から参加し続けている。
ちなみに、彼は19世紀イングランドの画家、ジョン・エヴァレット・ミレーの水死したオフィーリアの絵を好むという。これまた私も同様で、2008年に東京で行われた展覧会には足を運んだ。田中氏は、スコアの表紙にオフィーリアの絵をあしらっていた。ここまで関心が一致するのかと驚くとともに、彼には“水の女”に寄せる心があるのかとも意外だった。私は詩『水の女』を書き、酒井健吉氏によって作曲された。私なら、自分が“水の女”を描きたがるとわかっており、そればかりではいけないと、『未來の神話』は当初、“水底(みなぞこ)の若者”を書いたのだ。
詩は「涙を詰めた小瓶を海に/鱗をまとった/水底の青年が/揺れながら漂う/小さな光に/未来を感じる」となる。
これを田中氏は次に改変した。「涙を詰めた小瓶を海に/鱗をまとった/水底(みなそこ)の處女(をとめ)が/搖れながら漂ふ/小さな光に/未來を感じる」
彼の心にある、私の知らない浪漫性を想像したのである。
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『MOVEMENT an extra 木部与巴仁「亂譜外傳・儀式」に依る』
MOVEMENT an extra(poem by KIBE Yohani "RAN-FU"an extra canonical, The Rite of Hooakha Huchy Tribes)for 2Voices,Bassoon,3Conga-drums and Piano
■ 第13回 トロッタの会
2011年5月29日(日)18時30分開演 18時開場
会場・早稲田奉仕園 スコットホール
【解説】この作品に登場するハナアルキ(鼻歩き)とは、南太平洋ハイアイアイ群島に棲息した、鼻で歩き鼻で捕食する哺乳類で、核実験の影響で島と共に沈んでしまった鼻行類Rhinogradentiaの別名である(ハラルト・シュテュンプケ著『鼻行類』参照)。その原産地である南海のハイアイアイ群島の発見者、シェムトクヴィストは原住民フアハ=ハチの儀式をいきいきと描写している。「フアハ=ハチ族は当時(ちょうど春分の頃だった)ホーナタタ(ハナアルキの別称*筆者註)祭を祝っていた.この祭礼のときには,彼らは村の集会所で祭礼の歌をうたいながら脂身をはさんで焼いたホーナタタを食べる.それは夕闇迫る時分であった.(後略)」(前掲書)。(田中修一)。
【付記】三度び、田中氏から題材に依る作詩の依頼が来た。今度は“ハラルト・シュテンプケの『鼻行類』”である。ハナアルキという、名前どおりの生物群を解説するフィクション。この奇妙な書物は、読んでいたものの所持していなかったので、さっそく求めた。そして、このような世界にひかれる田中氏の精神性に思いを至らせた。「ギターの友」に記した田中氏の言葉に、2億年後の世界に生きる架空の生物を考察した『フューチャー・イズ・ワイルド』を自分は好むが、木部氏も同じではないか、というものがある。そちらは読んでおらず、表紙は何度も見たが、手に取ることがなかった。田中氏は、ハナアルキや2億年後の生物が好きである。おそらく、形状にも惹かれているだろう。私にそのような精神性はない。だが、『鼻行類』をという求めがあった以上、それに応えたいと思った。そこで書いたのが、ハナアルキという言葉をまったく用いない詩だ。それは、次のように始まる。
「焼けた風に/黒髪をなびかせて/波打際を駈けてゆく(*駈ける)/女は/ヒトではなかった(中略)/火の山の下(もと)/死の果てに生まれた生命(いのち)/原生の密林に/奥深く住むという(*住む)/女は/ヒトではなかった」
田中氏は次のように改変した。
「焼けた風に/波打際を駈けてゆく(*駈ける)ものは/ヒトではなかった(中略)火の山の下(もと)/死の果てに生まれた生命(いのち)/原生の密林に/奥深く住むという(*住む)/ハナアルキ」
私は、ハナアルキという言葉を用いたら、『鼻行類』に依ることが明らかになると思い、架空の生き物の名を使わなかった。しかし田中氏は使った。よほど、ハナアルキに愛着を持っており、ハナアルキと歌わなければおさまらない、創作意欲を持っていたのだろう。仮に、である。架空の生き物を使いたいというなら、私は“私のハナアルキ”を創る。『第四間氷期』や『ブロディーの報告書』に依ってほしいと頼まれ、それを承知しつつ、それらの作品に現われる言葉なり設定をまったく用いていないのは、そのような理由からである。文学作品と音楽作品には隔たりがあるが、『第四間氷期』『ブロディーの報告書』『鼻行類』と私の詩は、言葉を用いた表現という点で、隔たりがない。ないなら、自分で隔たりを作ろうと思うのが、書き手の本能であろう(簡単にいえば、他人の世界ではない、自分の言語による世界を創ろうということだ)。
私はこの曲に出演している。「No.2」にも出演している。詩唱者として思うことは別にあるが、今は詩についてのみ記した。
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『MOVEMENT No.5 ムーヴメントNo.5-木部与巴仁「亂譜 樂園」に依る』
MOVEMENT No.5 (poem by KIBE Yohani “RAN-FU”, PARADISE)
for Solo Voice,Oboe,Piano and Contrabass
■ 第14回 トロッタの会
2011年11月13日(日)18時30分開演 18時開場
会場・早稲田奉仕園 スコットホール
【解説】木部与巴仁氏がハラルト・シュテュンプケ著『鼻行類』(鼻行類は南太平洋のハイアイアイ群島に生息し、核実験の影響で島と共に沈んでしまったという哺乳類である。)に取材して2010年12月5日に詩「亂譜 楽園」を送ってくれたが、そのままになってしまっていた。後になって「樂園」という題名につよく惹かれて、新たに此の詩と向き合うと、別の意味を持って私に迫って来たのであった。一連の「MOVEMENT」はデフォルメされた音楽様式となっているが此の作品でもそれが顕著にあらわれている。(田中修一)
【付記】「No.5」のもとになった詩が『楽園』であり、これが田中氏の書斎を訪れた体験から生まれたものであることは、先に書いた。田中氏はもともと、『楽園』を曲にすることは無理だといっていた。彼は、人の私生活が透けてみえるような世界は苦手だという。私生活から生まれた世界だから、なるほど、それなら無理だろうと納得した。それが曲になったのは、私生活部分をまったくカットしたからだ。つまり、以下のくだり。
「いつからだろう/目覚まし時計の力を借りず/午前三時に目を醒ますようになったのは/孤独の荷を下ろした/ひとりの時間/窓から見える/あの山の向こうで/誰かが男を呼んでいた/妻と子は/何も知らない」
この前後にある、「わたしの声が聞こえたら/返事をください」「わたしの声が聞こえたら/あなたの目を閉じてください」で始まる詩の流れは、そのまま歌に生かされた。
次の改変も大きい。田中氏の詩−−
「見える/一羽の鳥が/氣流に乘って飛んでゆく/海といふ海の/風を集めて/ただひとつ殘された/樂園をめざし 幾千年」
しかし、もとの詩は、次のようだ。
「見える/一羽の男が/気流に乘って飛んでゆく/海という海の/風を集めて/ただひとつ殘された/楽園をめざし/千年」
飛ぶのが鳥と男では、まるで違う。私は田中氏を飛ばした。だが彼は、男は地上にいて、飛ぶのはあくまで鳥である見方を貫いた。もとの詩は次のように結ばれる。
「なりたいのになれなかった/それは男の/理想の形」
鳥になる、あるいは飛ぶのが男の理想なのだから、詩としては人に飛んでもらわなければならない。
私は人間が好きなのだとわれながら思う。奇妙な形をした生物よりも(彼らから見れば、人も相当、奇妙な形をしているかもしれない)。つまり人という生物の私生活に関心がある。田中氏は、さして私生活には関心がない、あるいは自分に触れたくない、それでいて(いや、だからこそ?)“水の女”死せるオフィーリアには関心がある。詩人と作曲者に隔たりがあればあるほど、おもしろいかもしれない。